波浪と動向 5
前日の馬が再び目の前にいる。
基本的に、この姿で過ごすと決めているようだ。
不気味な馬の顔が左右に動いて、透き通る声がすることに違和感を感じる。
それは、昨日から変わらない。
「それで、今から来るの?」
「はい。悠馬が呼びに行ってくれているので」
「そっか。顧問やってくれるといいねー」
「一応、断られた場合のカードはあるんですけどね」
「カード?」
「切り札です。本当は……白日の下に晒すべきなんでしょうけど」
自身の願いのために、悪意ある行動を見逃すというのは義に背く行為だと思う。
しかし、決定的な証拠は何もないのだから、追求することは難しい。
訴える側が証拠をすべて集めなければいけない、不条理な世の中だ。
しかし、叩けばでてくる埃があるならば、脅しの材料には使える。
「来てもらったっすー」
昨日は夢の中で安らぎを得られなかったのか、悠馬の垂れた目には元気がない。
その背後で小型犬の挙動をした、丸い目を何度も動かしている白衣姿の教師がいる。
「なんだよ? 呼び出しとは……ずいぶん生意気じゃねえか」と、前回会った時と違って少しばかり高圧的な態度だ。
「いや、すみません。お願いがありまして」
「お願い……? おい……その馬はなんだよ」
やはり、馬が無視されることも空気に交わることもなかった。
「ああ、彼女は日焼けが酷くて隠しているんですよ。外に出たら日焼け対策にもなるんで」
「――そうか。でも、馬はだめだろう。馬は」
「本題なんですけど、部活……軽音楽部を作りたくて先生に――」
「無理だ」
すべての内容を聞かずに、綺麗に拒否された。
一考する間も渋る様子もなく、室岡は清々しいほどに無表情だ。
先程とは違って、黒い瞳が常に開いている。
赤ちゃんのように無垢な瞳だ、と思って俺は唇を口内に入れて強く挟み込んだ。
「なんでですか?」
「なんで? じゃあ、なんで俺が顧問なんてやらなきゃいけないんだ? あんなものは好きなやつらがやってればいい。練習だの大会だの……休日まで潰されてたまるか」
確かに……室岡の言うことは正しいと思う。
平日、休日に部活動があれば、心身を休めることができないだろう。
しかし、教師というものは子供に教育するという立場だ。
子供に様々なことを教えたい、次世代を育てていきたい。
それらの基本的な信念を持ち合わせずに、ただ地方公務員の教育者となった末路が彼という人間だ。
彼だけではない。
教育者の多くが生徒に理想を語るだけで、腹の中には黒く粘着したものを抱えている。
俺は今に至るまで、そのような教師を多く見てきた。
もちろん、すべての教師がそうであったとはいわないけれど。
悪意に満ちた、腹にある『それ』を吐き出してしまう教師は世の中にいる。
「お願いします。文化祭ライブにでたいんですよ」
「嫌だ。大体、文化祭ライブなら有志の枠で勝手にでろよ。俺を巻き込むな。俺は自由だ」
今までの経緯を話したけれど、室岡は他をあたれと無表情を貫き通した。
諦めかけた時、一つの声があがった。
馬から出された声だ。
「あれー、もしかしてムロムロ? ねえ、ムロムロだよね?」
一瞬にして、室岡の高圧的な威嚇は走り去って、小型犬の挙動を再び始めた。
眉毛が上下して見開いた目は、生気を失っている。
「お……お前……もしかして……」
「えー、やっぱりムロムロだよね?」
馬の被り物を脱ぎ捨てた詩織さんの額には、薄っすらと汗が滲んでいた。
「おま……おま……なんで……ここに」
「えー偶然じゃん! 久しぶりー! ちょっと老けたから、わからなかったよー」
「な……なんだよ……」
室岡は首を曲げて、唾液が喉仏を大きく揺らした。
言葉を発せなくなっている彼の代わりに俺が詩織さんに聞いてみる。
「……二人は知り合いなんですか?」
「そうだよ。何年ぶりかなー? 十年は経ってないけど……」と、指折り数えて七年か八年かなと答えを出していた。
詩織さんは室岡に近付いて、彼の二の腕に何度か勇気を持たせるような衝撃を与えている。
「元気だったー? ムロムロ、急に来なくなるから捕まったのかなーって思っていたんだよ」
「お前……なんの……なんの用だよ」
「なんの用って、文化祭ライブにでるんだよ」
「お、お前は部外者……だろう」
「部外者でもでるんですー。ライブやるんですー。パンクでしょ?」
言葉にならないほど狼狽えている室岡、明るい口調で話す詩織さんには、どのような過去があったのだろう。
俺の知らない二人の関係性が気になった。
「ムロムロ、顧問やってね!」
満面の笑みを浮かべている。
「あ……? 無理だって、さっ――」
室岡が変に高い声で言いかけたところで、詩織さんの綺麗な声が上に乗る。
「やるよね? ムロムロ、顧問やるよね?」
笑顔だけれど相手に恐怖を与える。
一つの既視感があった。
そう……公園でギターを貸せ、と言ってきた時だ。
「俺はやらない」
「ムロムロー。お願い! ねっ!
――あの時のことバラすよ? あのデータとか探せばでてくるからね?」
後半部分は、室岡の耳元で言っていたから、凛花や悠馬には聞こえていないだろう。
俺には聞こえていた。
室岡は詩織さんに何かの弱味を握られているようだ。
俺たちが持つ不確定なものではなく、確定的な何かが室岡の頭部をゆっくりと動かした。
提出書類の顧問欄に筆の進まない室岡の名前、部員欄には俺たちの名前を記入して、詩織さんの名前は書けなかった。
美波が言っていた、部員の人数は何とかできるかも、という言葉を信用していた。
善は急げで、先日聞いていた美波の電話番号にかける。
今日は生徒会の業務に来ているようで、それが終わったら、こちらに来てくれることになった。
電話を切ると、室岡はパーマ頭を掻き乱して苦虫を噛み砕いていた。
「――形だけですよ。別に練習に来てほしいとか、そういうわけじゃないんで」
「それは当たり前だ。ただな……部活! 文化祭! それは……俺も……あのババアのところに行くことになるんだろ?」
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