旋律の邂逅 6

「私……そろそろ行くね」


「あ……はい」


「じゃあ……ね。バイバイ」


 立ちあがった詩織さんは自身の右手の人差し指、中指に小さな音を立てて口づけをした。

そして、二本の微かに湿った指を俺の額に優しく押し当てる。

少しも動けなかった。

日本人が行うなら、唇、頬、額に直接口づけをするだろう。

何かの映画で見覚えある行為に、恥ずかしさや揺らぎが生まれた。


 背中を見送る……小さい背中だ。


「あの……!」


「なーに?」


「また会えますか? 例えば一週間後とか……」


 振り返った詩織さんの目は何度も往復した。

ゆっくりと口角が上がって、目元は優しく下がる。

「じゃあ、一週間後……ここで!」と、手を上げて去っていく。

不思議な人だ……。笑ったり、喜んだり、哀しんだり、怒ったり。

詩織さんが持つ温かさが見えていることは確かだった。

七月二十四日。

空は成長していない薄い色を広げる。

白い絵の具で雑に伸ばした雲が未来を消していくようだ。

それでも、隙間から溢れる青空が少しだけ羨ましかった。


 詩織さんの遠ざかっていく背中を見届けた後で、俺も公園を後にした。

自宅に対する少しばかりの抵抗感と躊躇いが門扉を重くする。

城郭における大手門というわけではない。

心情から生まれた重みは、玄関の取っ手を引く際も肩を軋ませる。

室内は無人のようで、たたきで擦る靴の音が哀しく響く。

玄関ホールの温度は、炎天下より汗を垂らすことはないが、暑いことに変わりはない。

洗面所に向かって手洗いをした後で、口に含んだ水がいくらか甘い気がした。

ギターのハードケース抱えて、自室の二階へと向かう。


 部屋の棚にはCDや本があって、邦楽、洋楽問わず隙間なく陳列している。

映画や音楽などの娯楽はサブスクリプションが主流であるから、現代において珍しいやつだと自嘲した。

しかし、しっかりと聴こうと思うのであれば、CDの方が都合が良い。

サブスクに無い楽曲だってあるし、アルバム単位で聴くことも楽しみの一つである。

コンセプトアルバムであればなおさらだ。

作品を創りあげた人たちの想いが伝わる。

アルバム単位で考えると、捨て曲と呼ばれるものが存在するが、捨て曲も立派なアルバムに貢献するのだ。

捨て曲と呼ばれるものが流れを生み出して、名曲を輝かせるのだから。

意味のないことはないと教わった。

金銭的な面でサブスクの方が圧倒的に良いのだが、聴き方やCDという物質的存在に一定の価値を見出していたのかもしれない。

おそらく時代の移り変わり、レコードからCDへの転換期においても俺と同様に一定の価値というものを考えた人もいるだろう。


 ギターをハードケースから取り出してギタースタンドに立て掛けた。

その彫刻の美しさに、改めて惚れ惚れとする。

ギターの主材は木であるから、呼吸させるためにケースに入れっぱなしということはしない。

素人ではあるけれど、室内の湿度にも気をつかっている。

温度、湿度の影響で収縮や膨張を繰り返すことはギターのボディにとって悪影響を及ぼす。

弦に引っ張られているギターネック部分は、ボディよりもさらに繊細である。


 本来の用途に使われることが少ない、整然とした机の前に座る。

机の上に置かれた一枚の紙が顔を向けていた。

四つ折りに畳まれて、少し中身が見えているような状態だ。

それは、一つの繋がれた想いを持っている。

表には『ラブレター』の文字。

椅子から立ちあがり、カーテンを開いて陽の光を部屋に迎え入れる。

誰もいないアプローチをしばらく見つめた。

窓から見える夏の青空は、先程よりも明るくみえる。


「約束……か」と、誰に聞こえるでもない声で呟いた。


 夏休みに入る前の終業式。

体育館で校長やら生徒指導の教員の言葉が低く響いていた。

夏休みにおける心構えであったり、注意事項などが主な内容だった。

教室に戻っても担任教師からの受験勉強であるとか就職活動における見学、夏休みの注意事項が繰り返される。


「やっと夏休みー!」


「夏休み、どこ行くの?」


「んー、やっぱり東京? 海とか夏祭り、シーとかランドとかー」


「ねえ、これからどこ行く?」


「駅前のカフェ行こうよ!」


 興奮と嬉々とした感情を友人たちと共有する生徒が多い。

窓際の後ろの席から、頬杖をついて眺めていた。

特に何かを意識しているわけでもなく、ただ学校生活の何気ない場面として虚無を募らせる。

勉強漬けの毎日になる生徒からは、遊びの声があるわけもなく、ひたすらに殺伐としていた。


「おーす」と、低音の声がした。

隣のクラスの桑名要くわなかなめだ。

高い上背に筋骨隆々とした身体。

首元まで伸ばした黒髪をカチューシャで纏めている。

目は一重瞼で、眼光の鋭さが際立つ。

彼が手に持つ透明の袋には、緑色の何かが入っていて、その袋を俺の頬に当ててきた。


「なんだよ、これ?」


「ゴーヤチップス。しかも、自家製で俺の手作りだ」


「遠慮しておく、苦瓜は苦手。憂慮する俺の勝手」と、ラップ好きな彼に下手くそな言葉を送る。


「韻を踏むんじゃねえよ。母親が家庭菜園でゴーヤを作ったから……これが大量に採れてよ、毎日出てくるんだよ。

ゴーヤチャンプルーとかゴーヤのサラダとか」


 かなめは、いわゆる不良だが……外見に反して母親想いの優しい人物だ。

幼い頃から一緒に過ごしていて、中学時代にはお互いに虚勢を張っていた。

俺は不良というものが途中から格好悪く思えて、高校入学と共に落ち着いたというか、冷めた感じになった。

今でも街に出れば喧嘩をしているようだが、自分から喧嘩を売ったりする男ではない。

そして、彼は地頭が物凄く良い。

高校に通わせてくれる母親を悲しませたくないと、テスト前に軽く勉強するだけで学年二番という順位を毎回取る。


「なあ……あいつ、出てきたぞ」


「――そっか」


「中で会ったやつらと……つるんでいるらしい」


「そうか……」


「気をつけろよ」


「ああ、わかった」


「ゴーヤ食うか?」


「――いらない」


 かなめの話によって胸の途中で留まっている重苦しい塊は、廊下に歩みを進めたところで解消することはない。

彼を昼食に誘ったが、教員からの呼び出しがあるとゴーヤチップスを手に帰っていった。

周囲の生徒は普段よりも心を踊らせて、夏休みが始まるという事実を体全体で表している。

夏休み……か。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る