第一章 旋律の邂逅

旋律の邂逅 1

 蒸し暑さをギターの和音で切り裂いた。

公園は、狭すぎることも広すぎることもない。

使用禁止となった回転する遊具や長年の傷みを分かち合う遊具が静かに眠っている。

午後の授業を抜けてきた高校生の俺は、日陰の中で左手の細やかな動きを確認した。

いくらか丸まった胴体をベンチに預け直してみると、小さい女の子と母親が昼下りの作品に手を汚していた。

真向かいの砂場に『創造と破壊』という行為が繰り返される。


 木製のささくれ立つベンチは、四メートルほどの間隔で三台設置されている。

俺は中央に置かれたベンチに座っているが、隣のベンチには暑さに半殺しにされた恰幅の良いサラリーマンが横たわっていた。

木陰の涼と葉の隙間から溢れる風によって、静かに看病されている。

そんなところにいるなら、さっさと会社に戻れば良いのに。

エアコンの効いた室内の方が身体が休まるだろう?と心の中で訴えた。

しかし、外回りの仕事中なのかもしれないと考え直す。


 公園というのは公共の場であるから、自身の思考が理不尽で八つ当たりにも思えるし、エレキギターを弾くことのほうがマナー違反だ。

アンプを通さずに生音で弾いているのだが、今の俺は……ここでギターを弾くしかない。

家で演奏するにも、両親に気兼ねしてしまうからだ。

決して粗暴な人達ではなく、いつでも温和な両親であるから、余計に二人の心情を察してしまう。

美しい音が鳴るコードを左指で押さえて、右指でアルペジオを奏でる。

一音、一音が空気中の粒子と混合して色の薄い空へと駆け上がっていく。

遠くまで……遠くまで届くといい。


 一曲ほどの演奏が終わる。

自己陶酔に浸ろうとしたが、背後から空気の破裂する小気味よい音が鳴った。

左手を添えたギターのネックから後方に視線を移すと、二メートルほど先にある長年の歪みが生じたフェンス越しに一人の女性が立っている。

初動こそ俺は目を細めたが、それ以降、動作と表情はおそらく動かなかった。


「お上手ですねー! 感動しましたよー!」


 先程の演奏を讃えている破裂音の大きさは増した。

女性が口に咥えた煙草の紫煙が風に乗って香る。

視線を逸らした後の動揺は、鼓動の歯車を高速回転させて、ささやかな風は心を落ち着かせようとする。

ギターに視線を落としていると、砂利を擦り付ける音が近付いてきた。


「隣、いいですか?」と、澄んだ青空のような声がする方向に目を向けた。

女性の切れ長で美しい目は青い。

陶器の滑らかさにも似た、とても白い肌。

髪型は丸みショートで、髪の色は異国人を思わせるホワイトアッシュ。

年齢は二十代前半だろう。

指に挟んだ煙草を携帯灰皿で消している。


「あの……聞いてます? 隣いいですか?」


「ああ……はい」と答えたが、彼女が超えてきた背後に暇を持て余しているベンチが一台ある。

この流れでいくと会話が生まれてしまうことは必然だろうと考えたが、隣に腰を下ろした女性の行動は予想を裏切ることはなかった。

裏切るどころか想定していたことの範囲外だった。


「ギター、お上手ですね」


「そんなこと……ないですよ」


「さっき弾いていたのは、なんていう曲?」


「――適当に弾いていただけなんで」


「そっかー、すごいですね!」


「別に……あれくらい、誰だって弾けますよ」


 間近で見る彼女の顔立ちは日本人であるから、目が青いのはカラーコンタクト、髪の色も元は黒なのだろう。

真っ白な無地のTシャツ、黒ジャージにピンク色のサンダルは、昔の不良スタイルにも見えてしまうが、どことなく洒落た風にも見える。


「ねえ、ギター……貸してもらっていい?」


「え……? いや……あの……」


「ギターだよ。そのギター貸せ」


 輝かしい表情とは対照的な口調で、青色の奥に脅迫めいた強い意志を感じる。

迷惑な人だ。

自分勝手に話を進めて、こちらの意見や意思など無視している。

しかし、不思議だ。不快感は多くない。

恋人との別れを惜しむようにギターを女性へと渡した。

ギターというものは、その造形から女性に例えられることも多いし、自身のギターに名前を付ける人もいる。

女性は、遠い昔を愛でるような目でギターを見た。


「珍しいギターだね」と、女性は澄んだ声に深みを持たせて言った。

俺が渡したエレキギターは、女性が言うように珍しい。

英国の家具職人がオーダーメイドのギターを作り出したことに端を発する。

当時、彼の作るギターはプロミュージシャンの間でも有名になっていたが、すべてハンドメイドであるから製造本数が少ない。

ノイズのシールド効果があるとされたアルミニウム合金がギターボディの全面に貼られて、その面には緑を彷彿とさせる美しく高貴な模様が彫刻されている。

現在では鬼籍にる職人が作ったギターは、中古市場で数千万近い値打ちがあるし、コレクターもいる。

女性が手にしているギターも同様だ。

ギターを翻してボディの背面に目を向けた女性は「これ……」と、先程までの笑顔とは違って神妙な面持ちに変わった。


「ああ……前の人が乱暴に扱っていたんですよ」


「……そうなんだ」


「高いギターなんですけど……ね」


 女性が驚くのも無理はない。

ギターボディ背面は、茶色の木目にベルトのバックル痕などが無数にある。

叩きつけられたのか、陥没している箇所もあった。

ネックの裏側は打痕が塗装を剥がして、年月の連なりを示している。

長い時間の中で様々な人の手に触れてきたのだろう。

バックパネル付近に刻まれたTという文字。

このギターを雑に扱える人は、なかなかいないと思うし、ネックベンドすることは正気の沙汰ではないと思っている。


 しばらく眺めた後で、女性は優しく丁寧にギターを抱いた。

隣に座る俺にネックの裏側見えて、女性の左肘は窮屈ではない。

構え方でギターなどの経験がある人だとわかる。

弦とフレットの間に挟んでいたピックに撫でられて、ギターは再び声を上げた。

コードのCとFが繰り返される。

C、G、Am、E7、 F、G、Cと流れていく。

女性の細い首が軽やかに微動して、放たれていく音は王道の心地よさを持っている。

女性の口元から音が微かに漏れているが、声を鮮明に吐き出すことを躊躇っているように見えた。


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