本気になった瞬間

「衛藤さんは…今の今まで、そう言うことがなかったんですか?」


そう聞いた私に、

「それはどう言うことなんだ?」

と、衛藤さんに聞き返された。


この人の性格は計算なのだろうか天然なのだろうか。


「つまり…経験がない、って言うことですか?」


「君は…何が言いたいのかね?」


ズイッと顔を近づける衛藤さんに対し、私は1歩後ろに下がった。


「性についてのことを尋ねているのかい?」


「せ、性って…生々しい…」


そんなこと言った訳じゃないんだけど。


「萌波さんが言ったんじゃないか」


も、萌波さんって。


呼び捨てだったかと思えば、今度は“さん”づけだ。


そう言えば最初に出会った頃は、“ちゃん”づけだったわね。


どうしていちいち呼び方を変えるのか。


正直なことを言うと、面倒くさい。


「本気になった相手が君が初めてって言うことだよ、萌波」


ほら、また呼び方を変えてきた…今、彼に何を言われたのだろうか?


「本気…?」


今度は私が聞き返す番だった。


だって、また訳がわかんないことを言ったんだもん。


「初めて君を見た時、本気になった。


本気で恋に落ちて、本気で私の妻にしたいと思った」


何の躊躇いもなく、衛藤さんは言った。


そんなセリフをよくも簡単に言えたものである。


言われた側は恥ずかしくて仕方がないのに。


「萌波は、どう思った?」


「えっ、私?」


「私を見て、どう思った?」


「変な人だなって思いましたよ…聞いた訳じゃないのにペラペラと自分のプロフィールをしゃべるから、変な人だなって」


思ったことをそのまま彼に向かって言った。


だって、そうだったんだから。


「そうだったね。


でもあの時は、萌波に私のことを知ってもらいたかったから。


知ってもらいたかったから、いろいろとしゃべった。


君に聞かれなかったとしても」


ニッと衛藤さんが笑ったその瞬間に、花の香りのする甘い風が吹いた。


「失恋の痛手はそう簡単には治らないかも知れない…けれど、私は君に本気だ。


今まで出会って、関係を持った女たちよりも」


衛藤さんの瞳が私を映し出した。


嘘も隠し事もできない彼の瞳は、うっかりしたら吸い込まれてしまいそうだ。


「ーー萌波…」


本気になる。


本気にさせる。


「ーー衛藤さん…」


唇が触れたその瞬間、私はそっと目を閉じた。


時間が止まったような気がした。


長かったような短かったようなそんな感じだったと思う。


どれくらい、そうしていたのだろうか?


衛藤さんが唇を離したので、私は目を開けて彼の顔を見た。


躰を引き寄せられたと思ったら、私は衛藤さんの胸の中にいた。


「ーー萌波…」


耳元で、衛藤さんが私の名前を呼んだ。


本気だと思った。


衛藤さんは、本気だ。


「――衛藤さん…」


唇をついて出てきたのは、彼の名前だった。


「名前じゃ、ないんだ…」


衛藤さんが寂しそうに呟いた。


私は衛藤さんの体温がただ心地よくて、聞こえなかった。


甘い香りと衛藤さんの体温に、うっかりしたら目を閉じてしまいそうだ。


時間が過ぎて行くまま、私たちはそうしていた。


抵抗しようなんて思わない。


離そうなんて思わない。


ただずっと、そうしていたかった。


衛藤さんを感じていたかった。

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