雪が溶けるころには

 

 そこで見たもの、見せられたもの、否、自分から見に行ったものだ。たとえ別の世界線の記憶だろうと、その世界に分岐する可能性があったのなら読み取れる。

 

 目の前の人物に対する違和感。手招いているどこかの記憶。そのどれもが今、この瞬間に確信となった。

 もしあの記憶が真実なのだとしたら、目の前のこいつは。


「——誰」


 目の前の人型の何か、私があの時の彼だと考えていた何か。——あれは、誰だ?

 思い出せない、理解できない。脳裏に浮かびかけた何かは霧のように消えていく。

 私は思わず振り返り、あぜ道を駆け出していた。


 もし、あの記憶が真実ならば、何者かに作られた虚像なんかじゃないならば、私は。

 ——私は。

 どうしようもないほどの無能で、役立たずでしかないと突き付けられたようなものじゃないか。

 人柱として自分が居たこの街と、今のこの街。説明する余地すらないほど残酷に、その二つの差は歴然としている。

 ――私が失敗した。

 そして、人柱を他人に押し付けることを拒んだのは優しさ故なんかじゃない。只々、臆病なだけだ。誰か見知らぬ他人にこれを押し付けるのが怖かった。人柱は半端に不幸だ。あまり動けないが、どこにも行かなくていい。責任は大きいが、誰も自分を責めない。確かに不幸だが、生温い、ぬるま湯のような不幸。

 ——私は、そこから逃げ出せるほど勇敢じゃない。

 そして、そんなものなく、こうして平穏に生きたところで、私は何一つできていない。

 挑戦すらできない臆病者。スタートラインにすら立てない人間。それが私。結局、それを再認識させられただけだった。


「——っ」


 息が切れる、足の力が抜けていく。喉は空気を求め、ひゅうひゅうと音を立てている。

 それでも止まらない。何から逃げているかなんてわからない。

 ただ走って、走って、そのうち倒れて、いつの間にか地べたの上。

 空には無数の星が輝いている。その中でひと際目を引いたのは、光りながら空を横切る飛行機だった。

 星の名前もわからなければ、星座もわからない。何もない、何もわからない。


 息が整うと同時に、思考も落ち着いてくる。

 

 あそこに居た彼はきっと、偽物だ。あの記憶こそが本物なのだとしたら、私がここに残らないように、彼がやりなおしたのだとしたら。その結論として、私の認識そのものに手を加えたのだろう。

 私はあの時、あの場に残るという考えすら浮かばなかった。

 でも、あの彼が偽物なら、虚像だとしたら、本物の彼は外に居るはずだ。街の様子からして、この街の外に居るとは考えづらいけど、あんな場所に閉じ込められてるわけじゃないなら、結果としては十分じゃないだろうか。

 

 ——帰ろう。

 明日の朝一で電車に乗って、家に帰ろう。

 例え失敗続きの人生でも、人生で唯一下せた決断が、たった一つの勇気が、結果として誰かを救えたなら、それでいいじゃないか。

 ――もう少しだけなら生きていける。前が見れなくても、振り向いた過去に光があるなら、前に進める。


 立ち上がり、歩き出す。

 まばらな街灯を頼りに、見知った道を歩く。

 

 ——影が居た。

 そこには、影があった。

 街灯に照らされた暗闇から、夜より暗い影が浮かび上がる。

 それは獣のような姿をしている。

 大型犬ほどの大きさの獣。私と相対したそれからは視線も、生命も、その他生き物なら当たり前に持ってるはずの気配が感じ取れない。

 本能、あるいは直観。それらが告げるただ一つの事実。

 ——あれはここに居ていい生き物じゃない。

 自分と世界の境界が溶けていくような感覚。頬を伝う汗が地面に伝うと同時に、全速力で背後に駆け出した。


 追ってくる。すぐそこまで迫っている。

 今まで気配すら感じ取れなかったのに、それの気配は明確な恐怖として、私の背中にのしかかる。

 居る。そこに居る。         

 振り返ることなど、到底できない。


 がむしゃらに走る。暗闇の中を駆けてゆく。

 一瞬の浮遊感。視界の隅に移る誰か。


 ——気付けば私は、あの公園に倒れていた。

 何が起きたかは、すぐに理解できた。私は彼にこの場所まで飛ばされたんだ。


 あれは、何だ?

 記憶の内を探る。

 夜中に犬ぐらいの獣が音を立てて通る。その獣がナマメと呼ばれている。——図書館で見た本の中に、そんな記述があった。

 確かその記述はかなり古くからあったもので……。古い文献にしか、記述がなかった。

 乾いた笑みがこぼれる。

 ああ、もう、笑うしかない。

 人柱はナマメスジに集まる魔を遠ざけるためのものではなかった。人柱はあの獣を封じるためのものだった。魔が集まってくるのは、あの獣が封じられていたから。そうとしか考えられない。

 馬鹿なことをした。あの獣が解き放たれるきっかけを提案したのは、紛れもなく私なのだから。

 全身の力が抜けていく。なんだかどうでもよくなって、私は静かに瞼を閉じた。



 ****



「はぁ、——疲れた」


 私は小さく呟く。

 夕方の公園、遠くにはオレンジ色の空が見える。真下を向くと、見慣れた制服に身を包んだ自分の姿が見えた。


「何か、あったんですか?」


 目の前の少年の姿には靄がかかっているようで、はっきりと姿を捉えることができない。


「何もないよ。なにも」


 いつも回想するのは、それっぽい会話ばかり。けど、実を言うと、私たちの会話のほとんどは中身のない、くだらないものばかりだった。


「へぇ……」


 虫の声が辺りを包む。

 心地の良い沈黙、いつまでも続くような、か細い青春。

 このころが一番楽しかった。劇的じゃない、たった一年の、揺らぐような思い出。

 願うなら、このままで。

 このまま何も得ることも無く、ここから何かを奪われることも無く。

 ——ただ、このままで。


「——それで、いいんじゃないんですかね」

「——?」

「別に、何かをする必要なんて、無いと思いますよ。人生なんて、真面目にやったところで負けるばっかりですから。上手く逃げるべきですよ」


 少年はそんなことを言う。靄のかかったその表情は見えなかった。


 ただ一つ、わかることがあるとするならば――。


「あの人が、——そんなこと、言うわけないだろ……!」


 目を開く。

 こんなのは嘘だ。都合のいい幻想だ。あの人はそんなこと言わない。

 あの人が最後にかけてくれた言葉。あの彼が本物か偽物かもわからないが、それでも私の脳裏に刻みついた、忘れられない言葉。


「————」

 

 立ち止まれなんて、言うはずがない。

 あの人が挑戦自体を無意味だなんて、言うわけがない。

 だって、まだ何も手に入れてない。いいや、一生かけて、何も手に入らなくても、手を伸ばし続ける限り、そこに可能性は残っているんだから。


 ——ああ、そうだ。

 あそこであの人が庇ってくれたなら、会いに行かなくちゃ。だって、名前も顔も忘れたままなんて、あんまりじゃないか――。

 あんなものをどうにかできるとは思わない。もしここでどちらかが死んでしまうなら、最後に一目見ておきたい。

 それが私にできる精一杯。本気でなくても全力で、ほどほどに頑張ろう。


 そうと決まれば、こんな所で寝てはいられない。


 立ち上がり、服に付いた土を払う。

 人柱でない私には結界の出入りは内から外へなら問題なく行える。

 公園を出ると同時に、私は走り出した。今度は怖がっているわけでも、何から逃げているわけでもない。もう下は向いていない。

 がむしゃらに走り続け、私は遠くに星を見た。

 その光はまるで太陽のように強く、星のように遠く、瞬いた。

 明らかに超常のものであろう光をめがけ、一直線に走り抜ける。

 ——そこには、獣と一人の男が相対していた。

 街灯の下、吸い込まれるような闇そのものの獣は、その四肢を一切動かさないまま、それでいて瞬きする隙に相手を殺せるとばかりの威圧感を放っている。

 私は長く伸びた雑草の中にしゃがみこむ。

 


 ***


 右手のナイフを強く握る。

 目の前のこれさえ消してしまえば、この街の危険は永遠に消える。そして、それができるのは俺だけだ。

 背後に気配を感じる。おそらく、駒井さんだろう。

 今の人柱だとふるまっている俺は、駒井さんには俺と認識されないだろう。

 それでも、見られてるんなら、格好つけなくちゃ。

 不思議と勇気が湧いてくる。俺なら勝てるはずだ。

 ナイフを構える。

 別に、これであの獣を殺そうという訳じゃない。

 魂を使って殺す。魂のエネルギーは物事の過程と置き換えることができる。魂を使い果たしてでも、あの獣が死ぬ過程を作り出せれば俺の勝ちだ。

 そのためのナイフだ。その過程をできるだけ短くする。ナイフが刺さるところまでいけば、後の過程はすべて魂で肩代わりできる。


 ***


 男の体がゆらりと傾く。

 ナイフを引き、その刃物が今にも虚空に突き出されるという瞬間、男の体は、黒い獣の背後へと移動していた。

 ナイフは間違いなく、影のような獣に突き刺さる。

 回避する暇もない、一瞬の出来事、そしてそうなったら、後は私にも予想できるほど、簡単な作業だ。


「これって……」


 ああ、考えるまでもない、男の勝ちだ。

 そこで、俯いていた男の顔が上がる。その眼は大きく見開かれていて、表情からは驚きと焦りが読み取れる。

 そして、小さく動くその口元は――。


「にげろ」


 声にならない声で、そう口にした。

 理由ははっきりとしている。あの獣は死なないのか、死までの過程があまりにも長すぎるのか、そのどちらかで、そのどちらにしても絶望的な状況であることに変わりはない。

 逃げるべきだ。こうなったら、勝てっこない。

 だが、そうはいかない。あの時口元と一緒に、はっきりと彼の顔が見えた。

 ようやく思い出せたんだ。なら、こんな所で、見捨ててたまるか。

 体は自然に前へと飛び出していた。

 黒い獣はこちらに振り向く。その黒い体に、血を滴らせながら。

 地面に手を付ける。

 大丈夫。彼はまだ死んでいない。なら私にできることは、あの獣が死ぬ可能性のある状況を作り出すこと。

 自信なんてない。勇樹なんてない。震える足は今にも崩れてしまいそう。

 ——それでも、こんな私にも。

 道筋が見えない。あまりにも遠すぎる。

 ——たった一度の、奇跡が起こせるなら。


「——」


 地面に付いた手に暖かいものが触れる。私の手に覆いかぶさるように触れたその手の先には、彼が居た。

 

「——大丈夫。できる」


 ――起こせるなら、じゃない。

 ——奇跡だって、起こしてやる……!


「——だって、私は、魔法使い、だからね」


 銃身には彼がなってくれる。後は銃弾となる私の魂を押し込むだけだ。


 ――風が吹いた。


 迷いも憂いも、誓いも過去も傷跡さえも、全部、ぶっ壊してやる。


 魔法使いはその眼を正面へと向ける。

 地に付いた手を中心に書き換わる世界。

 勢いを増す風に、冷たい粒が混じる。

 それは、白色だった。白色が波のように辺りを包んでいく。

 世界は一瞬にして、一面の白色へと書き換わった。

 雪と氷、変わり果てた原風景。それは、太古の景色。逆行したこの世界では、生き物は生きていられない。

 重なっていた手は離れ、彼の腕はそのまま獣の方へと向けられる。

 黒い獣の姿は揺らぎ、一瞬のうちに消え去った。

 詰まっていた息を吐き出す。体はやけに怠く、不思議な浮遊感に包まれている。

 彼の表情を見る。彼は長い息を吐くと、表情を緩めた。


「——寒いね」

「——ですね」


 吐く息は白く、視界を染めていく。

 雪道を無言で歩く。並んで歩いた足跡は、既に雪に隠れている。

 はるか遠くに見える街灯。地球丸ごと凍らせるつもりだったが、そうはいかなかったらしい。

 

「これ、どうしよ」

「まあ、そのうち雪も氷も溶けると思いますよ」


 そこからはぽつぽつと、とりとめのないことを話しながら歩いた。

 それは、いつかの公園のようで。

 それは、木陰に身を寄せ合ったあの日のようで。

 それは、沈む夕日を見送るようで。

 ――あの頃と同じだった。

 このままどこまでも歩いて行けると、信じてみたくなる。


 雪の外に出て、いつもの街に戻る。


「——さよなら」


 そっと、呟く。


「——また、明日」


 彼は朗らかに笑う。

 ああ、またいつでも会えるんだ。


 

  ◇



 そこから私は予定を変更して、数か月ほどこの街に残ることになった。

 溶けていく雪を眺めながら、ぼんやりと過ごした日々。

 雪が溶け切った日、私は駅に立っていた。

 私はわざわざ夜の電車を選び、都会へと帰ることにした。

 電車の窓から見える景色は、まばらな街灯に照らされた街は何時かと変わらない茶色と緑と灰色の街で、奇跡の痕跡はどこにもない。

 

「ねえ、日向くん。——奇跡って、あると思う?」


 向かい合わせの席に座った私は、目の前に座る彼に向かって問いかける。


「まあ、魂がどうこうとかは、一般的には奇跡って言われるんじゃないですかね。——俺はもうできませんけど」

「そうじゃなくてもっと……、ラッキー、みたいな」

「まあそれは……ないってことでいいと思いますよ」


 彼はあっさりとそう答える。


「奇跡って、大概は良いことを指すじゃないですか。だったら、奇跡なんかじゃなく、実力ってことにしといたほうがいいですよ」


 互いに窓の外を向きながらの言葉は、景色と一緒に流れていく。

 私はなぜか、あの時の言葉を思い出していた。

 子供の頃、別れ際に彼が言った、最後の言葉。


『言わずもがな、人間は全能ではありません。だから、人生には諦めと妥協ばかりになります。……そりゃあ、成功もあるでしょうけど、完全な成功なんて手に入れれないんです。それはどれだけ頑張ろうと、同じことだと思います。

 ——だから、ほどほどに頑張っていきましょう。

 成功では無くて、希望なんです。いつか何かが手に入ると信じながら、だらだらと希望しながら生きていく。……そんなもんでいいんじゃないですかね』


 当時小学生の彼に言われた言葉が、ずっと頭の中に残っている。——中身は小学生ではなかったのかもしれないが。

 小さく、笑みがこぼれる。

 

「そういえば、私って魔法、あとどれぐらい使えるの?」

「まあ、程度にもよりますが、一回が限度じゃないですかね」

「二回使うと?」

「死にます」


 魂を使ってるともいうし、それを使い切ったら当然死ぬのだろう。


「大切にとっといてくださいよ」


 腕を組みながら語る彼に、手元の缶を投げつける。


「痛っ……」

「生意気、少年の癖に」

「もう大人ですって……って、これ……どっから出したんですか」


 左手にはもう一本、自分用のジュースを握っている。


「私は魔法使いだからね」

「…………」


 魔法なんて過ぎたもの、私には必要ない。

 これからは、少しぐらいは頑張って生きていけるだろう。奇跡なんかなくたって、私はまだ生きていける。

 それからあとは、ちょうど、雪が溶けていくように。

 過ぎていく時間に身を任せ、少しでもいい未来が手に入るように祈っていこう。


 


 



 


 


 

 

 

 

 

 

 

 


 


 


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