第66話

♣︎


 篠崎ミカのアイデンティティはとっくの昔に崩壊していた。

 人を一目見ればその人が何を考えているかが手に取るようにわかり、情報が一つ耳に入ればそこから何が起きるか無数の可能性が頭に流れてくる。

 やりがいとか、生き甲斐とか、夢とか、目標とか、憧れとか。

 そういうものはあの日から私の中に存在しなくなった。

 一度見た書籍は丸暗記できるし、なんなら小説とかなら次回作の展開まで想像がついてしまう。

 こんな自分はとっくに人として終わっていると客観的にそう思う。

 リアラとの関係も。

 彼女のために尽くす自分くらいしか、自我を保つ手段がなかったからそうしてるのかなって、ずっと葛藤しながら彼女と接してきた。

 リアラのためなら死んでもいいって心の底から思っているけど、どちらかといえば親友の為に死んで、いい人のまま楽になりたいという願望だった。

 感情も感動もなにもない。

 笑っているのも人のフリをしたいから。

 でも、そんな私にいつも笑顔を届けてくれるリアラ。

 無感情な私に感情を込めて話してくれるリアラ。

 多分あの日、リアラと一緒にあの現場を見ていなかったら。

 幼かった私はあの辛さの重みに耐えきれず死んでいたと思う。

 それくらい私にとっては地獄のような出来事だったけど。

 今もきっと地獄のような日々のはずなのに。

 リアラのおかげで私はなんとか今に至っている。

 こんなおかしな人間になってもまだ。

 あの子のそばにいられる。

 だから私はあの子が大好き。

 

 あの子のためならこの忌々しい力だって。

 躊躇わず利用できる。


 ここから先は、あの子が知らなくていいお話だ。


「あら、リアラに何か用事?」


 私は今、リアラの家のそばにいる。

 そして、彼女の家に入ろうとする同級生に声をかけた。

 

「……篠崎さん?」

「あら、覚えててくれたんだ。円城調さん」

「何の用ですか?」

「別に。でも、リアラに危害を加えるつもりなら相応の用事ができるけど」


 円城調。

 可愛らしさと美麗さが同居したような不思議な美人。

 人当たりもよく誰からも好かれるタイプ。 

 昔、涼風君が惹かれていたのも頷ける。

 でも、今の彼女はそんないい子ではない。


「そう。だったらほっといてください。私は鷹宮さんに用事があるだけですから」

「残念だけどほっとけないかな。あなたはいるだけで害なのよね」

「ふーん、篠崎さんってそういうこと平気で言う人なんだ」

「まあね。それより、人の家の玄関前で立ち話なんて失礼でしょ。こっちに来なさい」


 私は円城を誘導した。

 家に入られたらおしまい。

 私はこの家には入れない。

 怖いとか、気持ち悪いとか、そんなトラウマはたくさんあるけど。


 多分今の私の感性であの日の光景を鮮明に思い出したら、いよいよ気がふれると思う。

 だからこの家には入れない。


「まあ、それもそうですね」


 と、玄関のノブにかけた手を離して円城はこっちにきた。

 ようやく私は肩の力が抜けた。

 さて、ここからだ。


「で、リアラの家に来てなにするつもりだったの?」

「なんだか、わかってて聞いてるように見えるけど」

「あら、鋭いわね。じゃあまず、ポケットにあるものをそこに捨ててくれる?」


 聞くと、彼女は驚いた様子でポケットを見てから中のものを取り出した。


 小さなカッター。


「わー、物騒。それで何するつもりだったの?」

「誤解しないでください、護身用だから」

「別に何も言ってないわよ。でも、嘘はよくないわ」


 私はこんなのだから、人の嘘がすぐにわかる。

 瞳のわずかなブレ、微細な息の震え、声のトーン。

 誰も気づかないようなことでも私は見える。

 

「嘘なんて別に言ってないわよ。それともわたしがこれで鷹宮さんを傷つけるとでも?」

「いいえ、傷つけるのは自分でしょ?」

「え……」

「あはは、ビンゴだね。大方、リアラの前で自傷してそれを彼女のせいにして悪人に祭り立てようとか思ってたんでしょ。でもそれすら半信半疑。覚悟が決まらないままって感じだね。浅いなあ」


 と。

 呆れる私を見て円城は目を丸くしながら少し口を開けて驚いていた。

  

「……なんか、気持ち悪いですね篠崎さんって」

「あ、そういうことズバッと言う人? じゃあ私と一緒だ」

「ていうか、なんで邪魔するんです? 関係ないでしょ」

「あの子は私の全てだから。あなたが涼風君のことをそう思うように、ね」


 と。

 言ったところで円城の表情が曇った。

 にこやかで、カラッとして、爽やかで、気持ちの悪い笑顔が消えた。

 こっちが本性か。


「私は涼風君の平穏のために全部投げ捨てたの。弱い彼を守るために私は自分の気持ちを殺した。犠牲にした。そんなことがあの鷹宮リアラに出来る? できっこないわよ。あいつはただ、傷心だった彼の弱みにつけこんだだけ。私のおかげだってわかってない」


 リアラの家を睨みながら、彼女は暗い声で吐き捨てるように。

 でも、バカバカしくて何も響かない。


「リアラにはできっこないし、する必要もないからそんな比較は無駄かなあ」

「なにそれ、彼女だからってこと?」

「いえいえ。あの子はね、あなたなんかよりずっと強いの。弱い相手をもっとダメにしてしまうようなあなたと違ってね」

「は? それじゃ、あの子が私の立場だったら何ができたって言うのよ」

「一緒に問題と向き合って一緒に強くなって、やがて二人で解決するのよ。目を逸らしたり逃げたり、そんなんじゃ結局何も解決しない。あなたはリスクを取らない代わりに何も得ることがなかった、それだけ」

「リスク? だから私は自分の気持ちを」

「諦められるって、つまりその程度の気持ちよ。そんなもの、紙に丸めて捨てたところで犠牲とは呼ばないわ。あはは、円城さんにはわかんないか」 

 

 笑うと、彼女の手が一瞬捨てさせたカッターに伸びかけたのがわかった。

 限界かな。


「ま、とにかくリアラに下手な真似しようなんて思わないことね。じゃないと私、あなたがあの学校に居られないようにしちゃうから」

「……脅しに聞こえないのが怖いわね。ま、今日のところは引いといてあげるわ」

「あら嬉しい。私も早くパパの服洗濯しないとだから助かる」


 ニコッと笑顔を向けると、円城は苦虫を噛んだような顔でそのまま暗闇に消えていった。


 今日のところは大丈夫そうかな。

 せっかくここまできたし、連絡して顔の一つでも見たいところだけど。


「あ、あれ? ミカさん?」

「お疲れ様、涼風君。こんな夜にどうしたのかなあ?」

「い、いえ。なんか胸騒ぎがして、それで」

「ふふっ、リアラが私と浮気してるかもって? 残念、私はたまたま通りかかっただけだから」


 いい勘してるなー。

 やっぱり恋のチカラってすごい。

 さて、私はここいらで下がりますか。


「このままリアラに会う?」

「え、えと。まあ、せっかく来たので」

「うん。じゃあよろしく伝えといて。雑草を根っこから引き抜くのは難しいけど、葉っぱを刈るくらいはしといたからって」

「掃除でもしてたんですか?」

「そうそう、清掃ボランティア。じゃね」


 不思議そうな顔をする彼を置いて私は先に闇の中へ。


 闇で暗躍する私にはちょうどいい暗さだ。

 ふふっ、ちょっと中二病っぽかったかな。


 さーて。 

 帰ったら洗濯してから配信でもしますか。


 

 

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