第14話:姉さん、吹っ切れる

 姉さんが熱で倒れてから、僕は姉さんのメールに素早く返信するようになっていた。とは言っても、当時の僕は携帯電話を持っておらず、PCメールだったため、限度はあったのだが。


 そんなある日、何があったかを話してくれる気になったらしく、「今度話聞いてくれる?」というような内容のメールが送られてきた。もちろん、二つ返事で了承した。


 姉さんの話を聞くことになっていた日、いつもより早めにベンチに腰掛けた。その日は学校の友達と遊ぶ予定も入れず、帰宅して速攻「友達と遊ぶ」と嘘をついて家を出てきた。どんな話が飛び出すのか、足りない頭で想像を巡らせ、どう元気付ければいいかと考えたが、結局大したことは思い浮かばなかった。


 そうこうしていると、姉さんが来た。乗ってきた車がどこかへと走り去り、僕らは完全に二人きり。少し遠いところからは、子どもの遊ぶ声が聞こえるが、この広場には僕たちしかいなかった。姉さんが、肩がぴったりくっつくほど近くに座る。


「もしかして待ってた?」

「ううん、さっき来た」

「そかそか、いい子だねー」


 きっと、僕が早く来たことなんてお見通しだったんだろう。だって、姉さんも約束の時間より少し早く来ていたから。


「あのね、この間言われたのはね」


 すごく話しにくそうに、この間僕に対して伏せていたことを話し始めた。僕について嫌味を言われたというが、その内容は赤の他人を弟と言うのが気持ち悪いとか姉と呼んでるその小学生も気持ち悪いとかそういうことだった。他にも、作文に書いたエピソードから僕の人柄を推察し、適当なことを言っていたらしい。


 そこから飛び火して、今度は鈴ちゃんや藍ちゃん、養父母さんにまで似たようなことを言ってきたのだという。


「うわあ、ひどいね」

「本当にね! 酷すぎて絶句したよね」

「うんうん」

「そんでさ、前からなんだよね、こういうの」


 一体、いつからだったんだろう。姉さんはずっと明るく笑って、僕に接してくれていた。みんなに対してもそう見えた。どれだけの間、嫌な気持ちを隠して明るく振る舞っていたんだろうか。そう考えると、涙が出そうだったが、僕は必死で堪えた。


「誕生日にプレゼント渡せなかったから、学校終わったら渡しに行こうと思ってカバンに入れてたことがあってさ」

「うん」

「そのプレゼント、壊されちゃった」

「まじかあ」

「ごめんね」

「ええねん、用意してくれたことが嬉しいんやから」

「また用意したら貰ってくれる……?」

「もちろん」


 ほかにも、姉さんが気に入って使っていたピックが筆箱から見つかって、そのピックを隠されたとか、姉さんに関する嘘の噂を流されたとか色々なことを話してくれた。これは、明らかに虐めだ。9歳の僕にも、それはわかった。理解した瞬間に、すごく腹立たしくなって、お腹の奥が熱くなった。


「最近はさ、学校行くのしんどくてしんどくて」

「そりゃしんどいよね」

「でも辞めるわけにはいかないし」

「どうして?」

「お母さんとお父さんが入れてくれたんだし、それに負けた気がするし」


 高校というのは義務教育じゃないから、お金がかかる。公立高校に入ったとしても、私立より安いだけでタダじゃない。この世の仕組みのことなど露ほども知らぬ子供にも、それはわかった。養父母さんがせっかくお金を払って入れてくれた高校を、まだ1年生のうちから辞められないというのは、共感できる話だった。


「かと言ってどう対処したらいいか……」

「んんー」

「私が我慢してればいいのかな」

「壊れちゃうよ」

「だよねえ……この前ヒロくんにあんなことしちゃったくらいだし」

「や、あれは本当に嫌じゃないから」


 二人して、頭を捻らせた。本当に、どうしたらいいか僕にはわからなかった。僕の立場から学校を辞めたほうがいいとは言えなかったし、かと言って我慢しなきゃなんてことはもっと言いたくなかった。大好きな人が、理不尽な苦痛に耐えなければならないのが、僕には耐えられなかった。


「ヒロくんにもずっと迷惑かけちゃいそうだし」

「迷惑じゃないよ」

「はあ、あいつらより君のほうがよっぽど大人だよ」


 そんなんじゃない、と今になって思う。僕は大人だったんじゃない。むしろ、誰よりも子供だったんだ。姉さんに憧れて、隣にいて違和感がないように、姉さんを支えられるようにと背伸びして大人のフリをしていた子供だ。


 当時の僕はなんとも言えず、話を逸らすことしかできなかった。


「お母さんたちには?」

「無理かな……そんな学校辞めりゃあよかって言いそうやない?」

「あー、ちょっと言いそう」

「はあ~あ、君が同い年やったら……ごめん今のなし」

「なんで謝るん?」

「んーん、なんでもないよ」


 同い年だったら、という言葉が当時の僕の胸に返しのついたトゲのように刺さって、抜けなくなった。濁した言葉の正体は、当時の僕でも流石に理解できた。君が同い年だったらよかったのに。僕は、子供であることが途端に恥ずかしく思えてきた。


 姉さんの頭が、僕の肩に乗る。体格に違いがありすぎて無理のある姿勢になっていたから、僕は「膝にしなよ」と言った。すると姉さんは「うん」とだけ言って、僕の膝に頭を預けた。


「私のほうが背高いんやった」

「せやで」

「なんか忘れちゃってたなあ」

「いや忘れんで?」

「私のほうがちっこい気がしちゃってたよ」


 結局、問題に対する答えは出ないまま時間だけが過ぎていく。僕の膝に頭を乗せながら、僕を見上げている姉さんの頭を優しく撫でることしか、僕にはできなかった。しばらくそうしていると、姉さんが泣き始めた。


「学校行きたくない……」

「うん」

「我慢してまで生きていたくない」

「うん……」

「死にたいよ、私」


 その言葉に、ひどく悲しくなって、僕も泣いた。姉さんがいない毎日を、想像してしまったから。僕はこの人に、みんなに、死んでほしくないと強く思った。それをうまく言葉にすることができなくて、どうすればいいのかもわからなくて、僕はただ姉さんと一緒に泣くことしかできなかった。


「ごめん」

「ううん、ええんよ」

「ヒロくんは、私に生きててほしい?」

「うん、うまく言えないけど……姉さんには楽しく自由に生きててほしい」


 これまで、姉さんはたくさん苦労してきた。姉さんが実の両親と暮らしていたのは随分と前のことだけれど、だとしても僕はもうこれ以上、苦しんでほしくはなかった。姉さんが実は弱い人だということを、あの日に知ってしまった。ひょっとしたら、姉さんにとっては死ぬほうが楽なのかもしれない。


 だけど、嫌だった。


 幸せになってほしかった。


「自由にかあ……君ならどうする?」

「んー、最近は僕は開き直ってるかな」

「え、そうなん?」

「うん、何しても何か言われるんやったら、知らねー! どーでもいー! って」


 親から嫌なことを言われたときも、いじめ冤罪の件で何かを言われたときも、僕は心の中でそう思うようにしていた。すると、嘘みたいに気分が楽になった。


「本当のことは姉さんが知っててくれるから」

「おお……」


 姉さんがしばらく黙って、自然の音と遠くからの子供の声だけが聞こえるようになった。それから、姉さんが目元を擦って言う。


「じゃあ、ヒロくんが全部知っててくれる?」

「うん」

「そっか……じゃあ私も開き直ろうかな」


 姉さんが飛び起きて、僕を思い切り抱きしめた。僕は「わっ」と声をあげて、姉さんを抱きしめ返す。耳元で聞こえた「愛してるよ」という、低く甘い声が耳にこびりついてしまった。思い返しても、リアルに感じるほどに。


 たまに、姉さんとの思い出は全て夢だったんじゃないかと思うことがある。それでもなお、現実にあった出来事として認識し続けていられているのは、きっと、このときのこの言葉のおかげだ。それくらいに、この記憶だけは薄れる気配が全くない。


「よっしゃー! なんか気持ちが楽になってきた!」

「本当? 無理しとらん?」

「んー、わかんない! やけど無理はせんよ」


 この日から、姉さんは本当に全方位に開き直ったようだった。翌日のメールには、嫌がらせしてきた奴らを徹底的に無視してやったら気分が良かったとか、これまで人目を気にして出来なかったことをしたら楽しかったとか書かれていた。


 姉さんは人目も、他人からの評価も、全て跳ね除けて生きるようになった。


 それでもしんどくなったときは、僕に甘えてくれた。思えば、このとき既に、僕たちは共依存関係だったのかもしれない。

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