第3話 愛されたかった女

「お腹が痛い……というかここはどこですか?」

消え入りそうな聲で女は呟く。

社の前には黒い上着を羽織った若い女が立っている。

裾は赤く、中に派手な服を着ていることが分かる。

『其方はここへ来る前のことを覚えているか。』

女は顔を赤らめる。

「…じ、実はお酒をかなり飲んでしまったようで覚えていないんです。」

女は恥じている様子だった。

「そういえば、男の人、いませんでしたか。眼鏡をかけた、とてもかっこいい人…。」

女の周りには狐が一匹いるだけである。

『連れはいないようだが。』

神は答えた。

「そうですよね…。拓海さん…どこ行っちゃったんだろ…。」

連れの名は拓海というらしい。

「あ…これ私のバッグ…あれ?鍵なんて付けたっけ…?」

社を訪れる人は皆鞄を持っている。

鍵のついた、大切な鞄を。

凪は静かにその鞄に近付いた。

女の高級そうな革のバッグには四桁の数字を入れる鍵が付いていた。

しかし、少年の時のようなキーホルダーなどの装飾品は何もなかった。

凪は困っていた。このバッグを開けねばならないことは分かるが、手がかりが見つからなかったからだ。

日が傾く。西の方角から鋭い光が差し込んでくる。

「眩しいですね…」

女がそう口にすると同時に凪は女の手が光ったのを見た。

必死に女の腕に手を伸ばす。

しかし子狐の腕の長さなど高が知れている。

『腕には何が付いているのだ。』

神にはやはり凪の言いたいことが分かるらしい。

「あら、狐さん。腕時計が気になるのかしら。これ古くなっているし…あげますよ。」

どうやらこの女も凪と話していると勘違いをしたらしい。

腕時計は針が止まっていた。

凪は時計を理解していた。時間の概念は分からないが、時計は老人が持っていた唯一の機械だったからだ。

「もう古すぎて止まってしまっていますね。」

止まっている時刻は二時二十分。

凪は少年の時と同じ要領でバッグの鍵に“0220”と表示させる。

何かがぶつかる音がしてバッグが開く。

中からは小瓶が転がってきた。

『瓶の中身は何なのだ?』

女は震えていた。

「ああ…全て思い出しましたわ!!拓海さん!!この毒で貴方を殺めたのです…ええ、誰でもないこの私が!」

凪は女の豹変ぶりに思わず足がすくんだ。

「仕方のないことでしょう?貴方が他の女と結婚したなんて酷い嘘をおっしゃるから!!ああもう本当に。困ってしまうわ。そんな嘘をつかなくても私には貴方しかいないのに。」

ここまできてはもう女の一人芝居である。

「貴方の血は暖かかった…貴方からのハグもキスもきっともっと暖かいのよね…」

裾の赤色は血の色だった。

「これが真実の愛…ひ弱な私ではこの瓶の中身を貴方のワインに入れることしか出来なかったけれど…それでも貴方は最後に私だけを見て私の鳩尾を殴ってくれた!」

女の肋骨は何本か折れていた。

「けれど…私は生きている!!こんな所にいる場合じゃないわ。早く戻って貴方に会わなくては。」

女の声は興奮そのものだった。

「可愛い可愛い狐さん、私に帰り道を教えてくださいな。拓海さんに会いにいくための道を!!」

自分は可愛くない、この女には追いかけられない、と恐怖のあまり凪は自分に言い聞かせていた。

しかしそんな心配は無用である。この女の心には一人の男しかいないのだから。

『…社の右手にある木々を抜け、道なりに進むと良い。』

女はすぐに右を向いた。

「ありがとう狐さん!貴方もいつか真実の愛が見つかるといいわね。」

虹色に輝く爪をした手によって凪は撫でられた。震えが止まらない。

女は何も手に持たず、光の速さで社を去った。

凪は疑問に思った。

何故死んでいない人間がこの社を訪れたのだろう、と。


『今回も無事送り届けたな。ご苦労。』

辺りには夜の帳が下り始めている。

「真実の愛とは命を奪わなければ手に入らないのでしょうか。」

だとしたら、自分には必要ないと凪は思った。

『そんなことはない。彼女はそれしか手に入れる方法を知らなかっただけだ。』

神は女を憐れみながら答えた。

「人間の世界では彼女の行いは禁忌なのではないのですか。」

動物界と人間界は違う。

『そうだ。だが彼女は法を犯しながらも心は犯され続けるのだろう。』

女の心を犯しているのは一人の男か、真実の愛か。

それとも女自身か。

「人間は難しいのですね。」

神は少しの間沈黙していた。

『難しいのは愛だろうな。そこに種別は関係ない。』

夜の闇の中に神の聲が響く。

現在の時刻は午前二時二十分。

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