第21話 悪魔の森の本性
夜の森に踏み入ると、そこはもはや魔境のような場所に変わり果てていた。昼間であれば陽光が差し込んできていて辺りの景色もよく見えるので、どちらかと言えば大自然のパワーを感じられる神秘的な印象の方が強い。
だが、こちらは悪魔の森に相応しいと言えば良いのか、一歩踏み出せば鬼が出るか、あるいは蛇が出るかといった緊迫感が背中に張り付いていて一瞬でも気を抜くことは許されない。
「カァ、カァー!」
「っ! か、烏……。こっちの世界にも居るのか。というか、珍しいな……。烏なんて、今まであまり見たことなかったのに」
ふと見上げた目の前の木の枝に止まった、一羽の烏は異世界産だからなのか両目が赤い。しかも不気味なことに、烏の方からじっと見られているかのような視線まで感じるのだからいよいよ自分がどれだけ怖がっているのかを酷く実感してしまう。
「き、気のせい、気のせい……。シルヴィアが待ってるんだ、早くしないと……。でも、流石に暗すぎるし……。使ったことはないけど、試してみるか。『其に祝福せし大いなる光の壁よ・陽光の導きを以て・神聖なる大火を顕現し・大いなる災禍より・我らを守り給え』」
直人が詠唱を終えると、自分の半径一メートルほどを囲う程度の結界が形成された。これはいつも、夜に露天風呂に入る時にシルヴィアが張ってくれる結界のちょっとした応用で、自分の周りだけを守ってくれるように範囲を調節したのである。
結界は魔力を伴って形成されているため、発生源である直人が動くと一緒に移動してくれるようだ。これなら移動の際に負担にはならないが、結界を維持している間は魔力が消費されていることに注意しなくてはならない。
「よし、上手く行った。強度がどれくらいかは、正直自信ないけど……。無いよりはマシだよね、多少は明るくなったし」
再び、直人は目的地となっている泉がある場所へと行くため、奥へ奥へと突き進んでいく。今のところは何も問題なく進めているが、やはり隣にシルヴィアがいないというだけで心細さは尋常ではない。
「やっぱり、シルヴィアが隣に居たのは凄く頼もしかったんだな……。怪我をしても治してくれるし、何かあれば励ましてくれる……。そんな彼女に、居なくなって欲しくない……」
ザク、ザクと自分の足音がやけに大きく響くような感じがする。周囲の警戒、特に音には注意していると案の定、そう簡単には進ませてはくれないようだった。
ギラリと光る赤い双眸が三つ、木の縫い目から鬼火のようなぬぅっと浮かび上がってきた。現れたのは闇夜を身にまとったかのような黒い毛皮を生やした狼型の魔物だった。
「狼……。しかも、三匹も……」
見た目は狼だが、尻尾は鋸のような刃状になっている上、口の隙間から覗かせる牙は非常に鋭利で獲物を切り刻むために与えられたような容姿をしていた。少なくとも昼間の森では見かけたことがないので、恐らくは夜行性の魔物なのだと察することができた。
「ガルルルル……」
唾液を口の端から垂らしている様子からして、明らかにお腹はペコペコのようだ。低い唸り声は彼らの機嫌の悪さを如実に表しており、今にも襲い掛かって来そうな雰囲気だ。
(怖い、けど……。ここで立ち止まるわけにはいかない!)
直人はどうするか少しだけ考えて、『ファイアボール』の詠唱を始めた。
「『其の篝火よ・赤き栄光を……』
「ガウッ!」
「バウワウ!」
「ひぃぃ!」
直人の魔法発動を察知して、三匹が一斉に飛び掛かってきた。鋭い牙と獲物を引き裂くのに適した爪が直人に強襲したが、事前に張っておいた結界に阻まれてしまい寸前のところで留まるに至った。
一瞬怯んだ直人だったが、結界の有用性が分かると今度は覚悟を決めて最後まで詠唱できるように腹の底に力を入れて唱え始めた。
「『其の篝火よ・赤き栄光を纏いて・汝に炎の制裁を下す』……。『ファイアボール』!」
直人の手から放たれたファイアボールは真っすぐに狼たちの方に飛んだが、簡単に躱されてしまった。しかし、彼の狙いは元から狼たちではなく、目の前に佇んでいた巨木にあったのだ。
ファイアボールが当たった木は根元の方から引火し、轟々とオレンジ色の揺らめきを以て高々と燃え始めた。これには狼たちも驚き炎に向かって何度も吠えていた。
「しめた……。今なら抜けられる!」
直人は早々に戦線を離脱、狼たちが炎に気を取られている間に一気に駆け抜けていき、後ろも振り返らずにただひたすら走り続けた。そして、狼たちの姿が見えなくなって暫くした頃に少し立ち止まり、上がってしまった息をゆっくりと深呼吸して整えた。
「な、何とか捲けたか……。よし、この調子で進んでいこう……」
追手が来ていないことを確認してから、再び歩き出したのは良かったが……。やはり、一難去ってはまた一難、次の障害が現れたのだった。
「あ、マジ……?」
「キチキチキチキチ……」
いつの間にか直人の周りを何十匹という数の蜘蛛型の魔物たちが取り囲んでいた。大きさは代償様々だが、サイズがちょうど人間を昆虫サイズに当てはめたくらいの大きさ……。ざっと見積もって、三メートルから六メートルほどの個体が集まってきていた。
「こ、これって、もしかして逃げられなかったりしないよね……?」
「キチキチキチキチキチキチ!」
「ぎゃああああああああああああああ! 『其の篝火よ・赤き栄光を纏いて・汝に炎の制裁を下す』!」
叫びながらも先手必勝の精神だけは貫けたようで、一心不乱に放ったファイアボールは目の前の蜘蛛を難なく燃やして灰にしてしまった。その間に蜘蛛たちの隙間を縫うようにして駆け出したが、まさかそのまま逃がしてもらえるはずもなく後ろから大量のカチカチという無数の足音が追いかけてきた。
「やっぱりさっきみたいには行かないよねええ! 『其の篝火よ・赤き栄光を纏いて・汝に炎の制裁を下す』!」
背後に向かって何度も、何度もファイアボールの魔法を放つが命中率は三分の一といった精度で、悉くを華麗な身のこなし? で躱されてしまっている。
「クソ、蜘蛛の癖にすばしっこい……!」
「キチキチキチキチ! キシャアアアアアアアアアアアア!」
すると、戦闘集団にいた一匹の蜘蛛が直人の結界に向かって飛び掛かってきた。結界に張り付いた蜘蛛の顔面は、それはとても迫力満点で、ギチギチと歯を立てて結界を噛み砕こうとしていた。
「い、いや、でもこの結界は丈夫だから……」
ピキ、メシメシ……!
「あ、結界から鳴っちゃいけない音が鳴ってるううううう!」
「キシャアアアアアアアアアアアア!」
「『其の篝火による制裁よ』!」
直人は即興で詠唱文を改変し、消費魔力量を増やす代わりに唱える時間を短縮した。彼の手から放たれたファイアボールは目の前の蜘蛛をメラメラと燃やし、必死に走っているうちに体は灰となって崩れ去っていった。
それでも尚、後ろの集団は追いかけてくるのを辞めないため、直人もこれでは埒が明かないと思って奥の手を使うことを考えた。
「こうなったら……。『其の求めに応じよ・母なる海の化身よ・美しき大河の奔流よ・星を渡りて・我が手元へと帰りつかん』! 食らえ! 熱々の温泉攻撃!」
直人は虚空から大量の熱湯を生み出すと、上流から流れる川を叩きつけるかのように蜘蛛たちに向かって解き放った。これには流石の蜘蛛の魔物たちも抵抗することができず、次々と下流に向かって流されてしまっていた。
「よっし! いつもシルヴィアが温泉を作ってるのを横で見てるからな! ざまあない!」
流石に、あの数の敵をもう相手したくはなかったので、さっさと走ってどんどん森の奥へと進むことを選んだ。そこからはもう足を止めることはせず、ただひたすらに木々の合間を縫って走り抜けていく。
息が苦しくても、もう足を止めたくても、ベッドの上で寝込んでいるシルヴィアの苦痛を考慮すればこんなもの何てことなかった。先ほどまでは恐怖で進むことが躊躇われた足も魔法のお陰で自信がつき、魔物に遭遇してもファイアボールで威嚇したり、上手く逃げ回ったりすることで戦闘をなるべく回避した。
そうして、走ること約二時間……。最後の木々の合間を抜けると、そこには……。
「これが、聖なる泉……」
ちょうど、雲間から差し込んできた月光が辺りを照らすと、悪魔の森という恐ろしい環境にいるとは思えないくらい幻想的なオアシスがそこには広がっていた。目の前に広がる泉には空の星々が鏡のように反射して、今にも掬えば星空を汲み取れそうだった。
ただし、先ほどからこの泉の周囲だけは甘い匂いが漂っており、それを吸い込む度に体が少しずつ痺れていく感じがした。
(この匂い……。甘い、砂糖みたいな……。これが、ホタル草の出す匂いだろうけれど。何だか体が少しずつ動かなくなってきてる。嫌な予感がするな、早めに終わらせた方が良さそうだ)
そして泉の周囲へと視線を移せば、そこには月光よりも更に濃い銀色で、輪郭を淡い薄透明な白色で覆った発行体を纏う花が咲いていた。見た目は蘭の花に近いもので、そこにはホタルのような虫が何匹も集まってきていた。
「これが、ホタル草……。説明書に描いてある特徴とは合致しているけれど、実際に見ると本当に綺麗な花だな。特に、この光のラインがまるでシルヴィアの髪みたい……」
つい、ホタル草を彼女の綺麗な銀髪に見立てて優しく撫でてみる。何となく、静謐でお淑やかな雰囲気が彼女のそれと似ていたので、寝るとき偶にするみたいに触ってはみたが……。
やはり、本物の彼女の銀髪の方が一段と綺麗で、触り心地はシルクのように柔らかく繊細で、どんなものよりも愛おしく感じるように思えた。
「やっぱり、シルヴィアじゃないと駄目だな……。いつの間にか、彼女のことを……。おっと、いけない。早く摘んで帰らないと。確か、根元から引き抜かないと駄目なんだっけ」
直人は説明書の要項をもう一度、よく確認してからホタル草を摘みにかかった。根元の方を両手でしっかりと持ち、両手に力を込めて両足の踏ん張りも利かせて何とか引き抜く。
「……意外と力が要るな。根がしっかりしてるせいなのかな?」
その後も、順調にホタル草を摘み、五つか、六つほど鞄に詰めてから立ち上がる。本当なら、スマホのカメラに写真を収めても良いくらい素晴らしい光景ではあったが……。
「スマホ、もう充電ないんだよな……。帰ったらシルヴィアに見せてあげられないかって思ったけど。いつか、スマホの充電もできる魔法とか作れないか、考えてみるのも良いかもな」
ホタルの光と月光のグラデーションも、黒い景色の中で溶け込む銀色と星の光の対称性も、向こうの世界では決して見られなかっただろうものだから。こんな景色もあったのだと、思い返せれば良いなとふと思っただけなのだ。
「……うっぷ。ちょっと気分が悪くなってきた。痺れもさっきより酷くなってきてるし……。もしかして、これは毒か何か?」
そこで、シルヴィアが過去に話していたことを思い出す。
『不思議に感じるかもしれないけれど、この森の生物は体内に毒を有することで自分の身を守るの。生存戦略って言えば良いのかな? ここの森で暮らし始めた頃、ほとんどの食材に毒が入ってるのが分かってビックリしたよ』
(そう、毒! この森の生物は毒を持ってるのが多いって! つまり、この香りも毒で獲物を弱らせるための香りだ!)
身の危険を感じた直人は一度、持って来ていたポーションを口に含むとゴクリと飲み込んだ。すると、一気に体の症状が緩和されていくのを感じて自分の直感が正しかったことを悟る。
そうなれば、もう用事を済ませた直人がここに居座る動機はない。毒が再び体内に入り込む前に帰ることを決めた。
(帰ろう。極力、息を止めたまま……)
直人が踵を返した直後のこと、足の裏からドンと叩かれたような振動がした気がした。流石に気のせいかと思って振り返ってみるが、そこには水面に波紋が伝った泉が一つあるだけで特に何もおかしなところなどなかった。
「……波紋? 落ち葉が浮いてるわけでもないのに?」
直人は何だか悪い予感がしたのですぐ引き返そうと左足に力を込めたが、既に泉の主はやってきた獲物に照準を合わせていたのだった。
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