第2話 結婚したい男、婚活魔法で異世界へ
こちら、時は少しだけ遡って地球と呼ばれる星の、日本という国の中、東京二十三区のとある一角に住まう男性の話へと移ります。
現在時刻は午後八時、ちょうど仕事が終わって退社したこの度の主人公である直人は喫茶ノワールへと向かっていた。ノスタルジックな雰囲気の、少し前時代感がある喫茶店の前にやってきた彼は、ほどなくしてやってきた女性と顔を合わせることになる。
直人はスマホのアプリケーションで「マッチングアプリ」を開き、メッセージを確認した。
『今、到着しました。ピンクのブラウス、紺のスカートです』
直人は目の前の人物が目的の人であることを確認すると、緊張した面持ちを少しでも隠そうと一度深呼吸をしてから手の汗を握り潰して歩み出した。
「あ、初めまして。あなたが「るな」さんで合っていますか?」
「ええ、そうです。あなたが……もしかして、「なお」さん?」
「はい。僕は、片桐直人と言います。この度は、お会いしていただきありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。私は……、直美と言います。ここでは何ですし、まずはお店の中に入りましょうか」
女性が先行して歩き出したので、直人は慌てて後ろからついて行く。お店に入りノスタルジーな耳心地の良い音楽に出迎えられながら店員さんの案内を受けて席へと移動する。今日は平日ということもあり、他にもお客さんはちらほら見受けられるが然程混んでいるわけでもなく、リラックスして話すには丁度良い場なのは間違いなかった。
「何だか、お互いに緊張しますね」
「そう、ですね……。僕も、あまり慣れていないですから。お手柔らかにお願いします」
「うふふ、まずは何か頼みましょうよ。折角だから、限定メニューとか頼んじゃおうかな」
「それも良いですけど、僕としてはカレーも捨てがたくて……」
そんなぎこちない感じで始まった会話だったが、料理が来るまでの間にお互いのことを話しているうちに段々と緊張も解れて砕けた雰囲気へと様変わりしていく。
「それで、実は友達が凄いおしゃべりの人で~。職場の上司が悪口言ってたのを、うっかり更に上の人に聞かれちゃって~」
「それヤバいですね。大丈夫だったんですか?」
「とんでもない。大丈夫どころか、もうかんかん。職場の雰囲気はピリつくわ、暴言の嵐が吹き荒れるわでもう散々」
「でも、今の職場が良いんですよね?」
「うん。服のデザイナーって、凄いやりがいあるじゃない? だって、皆が普段着る服を作ってるんだもん。こんな楽しい仕事、辞められないよ」
「僕も、今はIT企業に務めているんですけどやっぱり、遣り甲斐って大事ですよね」
「へえ~何やってるの? サーバー関係の仕事をしています。基本的に保守とか、運用みたいな感じで……」
それから、料理が来てからも色々と話し込んでいたら二時間もの時間が経過していた。お互いの素性も知れて、ある程度は信頼関係も築けたのではないのかと直人は感じていた。
(ああ、もうこんな時間か~。もっと話してたいけど、明日も仕事だし。仕方ないよな)
お店の人からもラストオーダーの時間だからと会計を促され、二人は席を立った。お会計をする際、直人と直美はお財布を出し合ったが……。
「どうしますか? ここは僕が出しても良いですか?」
「あ、じゃあ次の機会に私出しますから」
「分かりました。では、今回は僕が」
お会計も済ませ、会話の延長線上を歩きながら駅まで足並み揃えて向かう。そして改札をくぐり、いよいよ解散の流れになってしまうと直人の心に寂しさが生まれた。
(短い時間だったけど、話も合うしまた会いたいな)
「あの、できれば連絡先の交換とかできませんか?」
言えた、言えたぞ! 直人は緊張しながらも大きな一歩を踏み出せたことに内心ではかなり歓喜していた。しかし、直美の方は曖昧な笑顔を浮かべると、次はにこりと笑ってウィンク。
「もう少し仲良くなってからが良いな。次もあるわけだし、またアプリの方で連絡するから」
「……分かりました。では、また別の機会にしましょうか」
直人は少し残念に思いつつも、一度会ったきりだと警戒されても当然だと即座に諦めた。それに、自分の立場に置き換えて考えたら自分でも同じ選択をするだろうと思ったからだ。
「では、私はこれで帰りますね。また今度」
「はい、今日はありがとうございました。僕も楽しかったです」
彼女に向かって手を振り、後ろ姿が人混みに消えて見えなくなるまで見送った。彼女が無事に帰れることを願いながら、自分も帰るために電車のホームへと足を進める。
しかし、彼女のメッセージが気になってマッチングアプリを開きトーク画面を開いた。
何かフォローをした方が良いのではないのか?
念のため、「今日は楽しかったです。次の休みは来週の土曜日なのですが、空いていますか?」
と送ってみる。ドキドキしながらメッセージを待ちつつ、やってきた電車に乗り込んだ。
電車に乗って揺られながらも、ソワソワした気持ちを抑えることができず何度もスマホの画面を開いてはメッセージが来ていないか確認していたら、いつの間にか目的の駅にたどり着いてしまっていた。
(そんなにすぐには返信来ないよな)
そう考えて一先ずは電車を降り、いつものように帰路を辿って家へと帰る。直人の家は駅から徒歩で五分程度のアパートなので仕事の後などでも気苦労は特にないのだが、今日という日に限っては帰りの道のりは非常に短く、そしてやたらと疲労感を感じてもいた。
それもそのはず、慣れていない女性との会食で言葉遣いや身だしなみ、テーブルマナーを気にしながらやり取りをしていた気苦労が一つ。もう一つは、単純に帰りまでの道のりをやたら早歩きで帰ってしまっていたことによる肉体的な疲労もあるのだろう。
アパートの二階、一番奥の扉の前にたどり着くと鍵を取り出す前にスマホを見てしまう。やはりメッセージは来ていなかったが、どうしても気になってアプリを開いてみる。
すると、さっきまで乗っていたはずのメッセージ画面に彼女のニックネームである「なお」の名前はなく、どうやらマッチングしたこと自体を無かったことにされたらしいことを察した。
「……はあぁぁ。今回も、駄目だったか」
何となく、何となくではあったがそんな予感がしていたのでダメージ自体はそこまで無かった。しかし、今回こそはと期待を寄せていた分の反動が溜息になって表れてしまったようだ。
「これで十回……。いや、十一回くらいか? もう結婚とか諦めた方が良いんじゃないかな」
隠しきれなかった落胆を胸に抱えたまま、扉を開けて玄関へと踏み入った。鍵を閉め部屋の中に上がったのは良いものの、思った以上に何事に対してもやる気が起きず廊下を歩いた先の自室の中央で大の字に寝っ転がる。
暗い部屋の天井と睨めっこをしながら、時折、瞼の裏に映し出された過去の出来事を思い返すと増々気分が落ち込んでいく。
彼がマッチングアプリで女性と出会った回数は、正確には十五回だ。そのどれも、しっかりと相手の好みや性格を考えた場所をセッティングしたり、会話に工夫を凝らしたり、身だしなみにも細心の注意を払ってきたつもりだ。
しかし、どう頑張っても相手の女性から次のお誘いが来ることはなく……。いつも、一度出会ったきりで二回以上はデートをした試しがないのだった。
アプリの継続期間は早くも三年ほどになりそうで、一度も実ったことがないという経験が精神的にも、そして経済的にも彼には少しずつ見えない負担になっていた。
「何がいけないのかなぁ……。やっぱり、顔とか性格が好みじゃないとか? 年収が低いとか?」
彼はとあるIT企業、しかも大手のところに務めているので年収が五百万前後はある。これから頑張って出世をすればより収入が増えると考えれば、そこまで悪いとも思えなかった。
「……考えても分からないや。相手の好みに一致するかどうかは、その時次第だし……。それに、今回は駄目だって最初から分かってたじゃないか」
彼女、出会った時に本名は名乗りつつも苗字は名乗っていなかった。その時点で、彼女は会うだけ会って食事代を奢ってもらうつもりの女性だったことは察せていた。
それでも、馬鹿みたいに期待してしまうのが男という生き物なのだ。今度こそ次があるのではないか、そんなチャンスをチラつかされたら可能性が低いと分かっていても飛びつく以外の選択肢はないのだ。
「もうすぐ三十になるし、このままだと本当に結婚できないかも……。でも、無理して結婚する必要は……ない、はずだ」
凡そ職場の先輩や友人の話では、結婚すると自由な時間やお金がなくなるから独身の方が良いと聞く。しかし、個人としては歳が過ぎてから寂しく一人で暮らしたくないという思いから婚活やマッチングアプリに手をつけていた。
「……向いてない、のかもな。僕に結婚は……」
右腕で目元を覆い、溢れ出そうになる悔しさを深呼吸で何とか押し殺した。そうして暫くは暗闇と睨めっこを続け、やがてゆっくりと起き上がると部屋の明かりを点けた。
「ともかく、そろそろ切り替えないと。明日も仕事だし、今回でマッチングアプリは終わりにしようかな……」
月額で支払っている金額が勿体ないとは思いつつも、直人はすぐに退会手続きを済ませた。未練たらしく残すよりも、きっぱりと諦めて次へと進んだ方が良いと考えたからだ。
アプリの消えたスマホを暫く眺めていたが、それすらも虚しくなって洗面所へと向かう。
手洗いと同時に一度、冷や水で顔を洗ってから気持ちを整えた。彼がいつも気持ちを切り替えるときのルーティンのようなもので、これを行うとスッキリと目が覚めたのだった。
「よし、そうしたら……。風呂に入って寝るとするか」
そう考えていたときのことだ。向かい合っている光が淡く光り始めたと思うと、鏡面が水面のように揺れだしたのだ。あまりの唐突な出来事に直人は思わず自分の目を擦って二度見、いや三度見してしまったくらいだ。
「目に水が入った……とかじゃ、ないよな?」
光の波紋はまるで直人を誘うかのように揺れ動き、一分ほど眺めていても消えるようなことはなかった。
「これ、触ったら異界に連れてかれるとかないよな? あるいは、これは夢だったりするのだろうか?」
触ってはいけない。直感では分かっていても、波紋の中央に吸い込まれるように指先を伸ばしてしまった。そして、彼の指先が波紋に触れたその瞬間、あたかも獲物を待っていた肉食獣のように水面が彼の右腕を飲み込んだ。
「な、何だこれ!? くそ、離れろ!」
直人は必死に抵抗しようとするも、彼の意思とは関係なく銀色の液体が彼の体を侵食していった。謎の引力によって体を固定されているせいで後ろに下がることもできず、飲み込まれた部分から体の自由は利かなくなっていく。
「何だよ、これ……! 僕は、こんなところで死ぬのか!? 人生、まだこれからだってのに!」
妙な怪現象に巻き込まれて行方不明になるなど真っ平御免だ!
そう息巻いて最後の抵抗を試みるも、既に口元を覆われた身からは声すら発することも適わなかった。やがて、彼の体は銀色の液体へと吸収され、そこには元から誰もいなかったかのように元の鏡へと戻ってしまったのだった。
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