伍時間目
「はあ……」
私はトイレの手洗い場で盛大な溜息をつく。
あんな顔、見たことない。
相当に追い詰められているようだった。『巻き込めない』って言っていたし。
まあ、部外者の私が何か助けるなんて、本当にできるのだろうか。
いや、と、私は首を左右に振る。
鏡には、オレンジ色の空が小さく見える。カタカタと壁が音をたてる。木が左右に揺れ動いている。外は少し風が吹いているようだ。
その風にのって、いろいろな音が聞こえてきた。
吹奏楽部のリズム感あふれるドラムの音。野球部がバットを使っているのか、高い金属音。校庭の端にある小さな川では、地学部が何やら一喜一憂している音。近くにある魔術研究部の部室からは……、
「見ろ!俺が長年求めていた禁断の『黒魔術の書』がやっと手に入ったぞ!」
「おお~!」
「早速、魔人を召喚だ~!」
よくわからない音。何してんだろう。
あと、廊下からは……、
「あんたなんてぇ、所詮、中身はあの頃とは変わっていないんでしょぉ?」
「違う……っ!」
ドンっ!
何か鈍い音がした。
(え、ケンカ……?)
何をやっているんだろう……。
(……この声、どこかで聞き覚えがあるような?)
私は、ハンカチをポケットに入れて、廊下を歩く。声は大きくなり、何か悲鳴が混じっている。
「これ以上、生意気なことを言ったら……前みたいにされちゃうよぉ?」
この声……誰だ?
ツインテールの髪の長い女の子。そして、床に倒れているのは、
(
忘れもしない。
明るめの髪の毛を後ろで束ねている。
(え、どういうこと⁉)
凛さんは、床に横向きになって倒れている。
息を切らしていて、なんだか苦しそうだ。
ツインテールの女の子が右手に可愛いお化粧道具を持っている。
「そ……れ、あたしのコスメ……っ!」
女の子が凛さんの腹を一発、蹴った。
「っ!」
私は、目の前の光景に呆然とする。
「う……ぐ……」
凛さんは苦しそうに表情を歪ませて、
「コスメ……私の。返して!」
女の子の足にしがみつこうとしたが、女の子は中腰になり、その手を払う。
「え~、あなたにそんな権利なんてないでしょぉ?」
女の子は凛さんに顔を近づけ、「言っちゃうよぉ、あの事」
「く、くそ……」
「女の子がそんな、はしたな~い言葉言ってたらモテないよぉ?ま、あんたなんて中身は陰キャなんだしぃ。見た目変えたくらいで、わたしに勝てると思ったのぉ?」
窓が微かに揺れる。
さっきまで聞こえていた音が聞こえない。この空間だけが別世界のようだった。
女の子が言った言葉が私にも突き刺さる。
私は、外見を変えた。だけど、中身は変わらない。
私なんて……、
『山県昌景って知ってる?』
『昌景はね、自分の身長よりも長い槍を使っていたんだよ。コンプレックスをはねのけようとしたんじゃないかな』
『変われるよ……誰だって』
「ちょっと、まって!」
私は、女の子の前に立っていた。
「え~だぁれ、あなた?」
「え……
女の子は不思議そうに首を傾げている。
凛さんは、目を丸くしているようだ。
「あ、二人って……クラスメート、とか?」
女の子が笑顔で話しかけているが、私は化粧道具を指さす。
「話、聞いてました。あ、あなたそれ!凛さんのですよね。返してください」
女の子は、びっくりしたように、目を見開くが、クスリと微笑む。
「あ、ねえねえ、凛ちゃんのクラスメートちゃん。凛ちゃんが中学生だった頃、どんなだったか知りたいよねぇ?」
唐突な話題の転換に、私は目を見開く。
「ど、どういうこと、ですか?」
少女はにっこりと笑って、スマホを取り出す。
「
凛さんは涙目になってうなだれる。
少女はおかしそうに笑い、私にスマホの画面を見せつけた。
そこには、茶色い淵の丸眼鏡をかけ、髪の毛は三つ編みで、表情の暗い女の子が立っていた。
(凛……さん?)
雷に打たれた感じだった。
外では風が強く窓に吹き付け、ゴウゴウと音がなる。
別人では……ない。顔の形とか、目を見て、正真正銘の凛さんであることがわかった。
じゃあ……この写真って……。
私の様子を見て楽しんだのか、少女はキンキンに響く声をあげる。
「わかるでしょ!今の凛ちゃんとは大違いでしょ」
そして、涙目になっている凛さんに顔を向ける。
「は、原田さ……っ!」
「よくここまで変われたわねぇ。まあ、立場は変わらなかったみたいだけど。それにぃ、中身も全然変わらない。昔のままじゃん」
「……っ」
「ほぉーら。涙目じゃん。変わったって意味がない。ていうか……どう行動しても、それは全く無意味なんだよ。何だって」
『変わったって、意味がない』
この言葉に、私は唇を噛む。
私は変わったのだろうか。この状況で、手も足も震えている。
怖い。あの少女に勝てる気がしない。
廊下は依然として、誰も来ない。暗い影がさし、包んでいく。
だけど、私は。
その一瞬、光を見た。
今は……自分の番ではない。今は、誰を助けるために来た?こんなに勇気を振り絞ってまで。
雲に隠れていた小さな太陽の光が一瞬光ったような気がした。その光は弱弱しかった。
最後の力を振り絞っているかのようだった。
……真田幸村じゃん。
大阪夏の陣では、圧倒的に不利だとわかっていても豊臣軍の武将として戦った人。
最後の最後まで、戦い抜いた人。
自分が変わったかなんて、今はどうでもいい。
なんのために、ここに来たのか。
「じゃあね。凛ちゃんとクラスメートちゃん。コスメありがとう」
少女が笑顔で手を振り、背中を向ける。
私は、少女の手を掴んだ。
「……なぁに?」
少女は、少し目を見開くが、すぐに口角を上げて微笑む。
「凛さんは、すごい人です。誰に対しても優しくて、ぼっちな私にも話しかけてくれるんだから」
たとえ、それが本性じゃないとしても。
「私は、とても嬉しかった。それだけじゃない。凛さんは、ちょっとした変化にも気が付いてくれる」
「な、なによ」
少女は、目を鋭くさせる。狼みたい。
だけど、私はもうひるまない。
少女の目を見つめる。
「あなたは、過去に執着している。凛さんの現在を見て、『嫉妬』しているんですよね」
「な……っ!」
少女の目は揺れている。
「さ、小夜ちゃん……」
凛さんの目は濡れていた。
「は、早くその化粧道具を返してください!」
少女は私を見つめ、うっすらと微笑む。
その時、少女は腕を大きく振り、私を突き飛ばす。
「っ!」
痛い!
思いっきりしりもちをついてしまった。
少女を見上げると、暗い影がさしていた。
「あら。あなた、なかなかやるじゃない」
「……返してください」
私が捻を押す。
「まぁ、いいよ。返してあげるわっ!」
少女は急に窓を開けたかと思うと……、
「っ!」
「あ!」
目を丸くする私たちをあざ笑い、化粧道具を窓から投げた。
化粧道具は大きな弧を描き、最後、ガタンという音が屋根に響いた。
「ちょ、ちょっと!さすがに、」
「言っとくけど」
私の声は少女の声にかき消される。
「言っとくけど、わたしは嫉妬なんてしていない。ただ、楽しいだけだもん。みんなわたしを見てくれるし」
「!」
どういう事だろうか。
「じゃ、わたし、これから約束があるからぁ。まったねぇ~」
少女は笑顔に戻ると、廊下をかけて行った。
残された私と凛さんは、暗い廊下で
凛さんの表情は影がかかっていて見えない。
だんだんと寒くなっていく。冬は、夜が早い。
私は思わず手をこすり合わせる。
「ご、ごめん……取り返せなかった」
私が、もう少し早く動いていれば……。
もう少し、強引にいけば……。
「そんなことない」
凛さんは顔を上げる。
その目は涙でいっぱいだ。
「こんなあたしを、助けてくれてありがとう」
凛さんは冷たい床を見つめる。
「あたし、過去を誰かに知られたくなかった。この学校では、あたしの過去を知っているのは原田さんだけ。まさか、アイツもこの学校を受験するなんて思ってなかった……」
少女は『原田さん』と言うらしい。彼女は中学の頃から問題児だったらしい。
「あ、あたし……中学の頃、あんな感じだったから、アイツにいじめられてて……中学三年の時は不登校だったから……アイツの受験校知らなかった……」
知っていれば、違う学校を受験したのに、と、凛さんは呟く。
「だから、ばれないように……変わらなきゃって。だけど最近……気づかれた」
「そ、そうだったんだ……」
思ったよりも壮絶な過去だ。
(きっと、凛さんは毎日怯えていたに違いない……)
窓から微かに風がふいてくる。だけど、さっきよりは木々が揺れていなかった。
「小夜ちゃん、ごめんね」
「……へ?」
凛さんは私の目をまっすぐに、そらさずに見つめてくる。
「あたし……小夜ちゃんの事、最初は何もできない子だと思ってた」
やっぱり、そんなことだと思ってた。クラスの中では、私なんてもういてもいなくても変わらないような存在だ。しかも、誰かに話しかけてもらえないと話せなかった。
「だけど、違った。小夜ちゃんは、すごいね。かっこよかった。どうしてそこまで変われたのかって羨ましくて……少し嫉妬したこともあったんだよね。だって、あたしは何も変われなかったから」
ああ、もしかして。あの時私が聞いちゃった悪口はそこから来たのかな。でも、私はそれに少し感謝している。
今となっては。だって……
「私を変わらせてくれたのは、凛さんだから」
「ん?なんか言った?」
「あ、いやいや。何でもないよ」
流石に、今のセリフはないだろう。でも、そんなことに気づかせてくれたのは、感謝しているんだ。
「凛さんは、凄いです。誰に対しても優しくて、気配りができるなんて。私なんて、いつも一人でお弁当食べているんだよ。『変われない』なんて、言わないでよ。凛さんは十分、素敵だと思う」
自分で言って、その言葉に驚いた。凛さんの事じゃない。私……自分の事、ちゃんとわかっているのかって。
今まで『変わろう』『変わりたい』って思っていたけど……。本当にそれが正しいのかよくわからない。
私って……。
風が吹く。
一瞬、凛さんの顔が泣いているように感じた。
「ありがとう、小夜ちゃん。大事なことに、気づかせてくれて。小夜ちゃんって……前から思ってたけど、話しやすいね」
そう言って、微笑む。
その顔は、とてもきれいな微笑みだった。
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