笑顔

Rakuha

笑顔

『笑顔』


〈紀子〉


 彼女、五島玲子はいつも微笑んでいた。膝を擦り剥いて血が出ても涙を流さず微笑み、同じクラスの男子に長くカラスの濡れた羽みたいな黒い髪を「貞子だ」と馬鹿にされた時も微笑み、中学受験に落ちた時も「しょうがないよ」と言いながら微笑んでいた。

 私は最初、玲子は心の強い子なんだと思っていた。でも、どこかその微笑みには悲哀と苦しみの色を水彩絵の具で溶かしたような色が見えたのだ。


 玲子との出会いは、彼女が私の隣の家に引っ越してきたところから始まる。

 私は人見知りで、人と仲良くするのが難しい子だった。幼稚園の仲の良い友達と離れたのと、小学生になって環境がガラリと変わってしまったこともあって、余計私の人見知りは酷くなった。友達を作りたくても作れない。声をかけようと思っても嫌われたらどうしようという思いで話しかけられず、ただ焦燥感と歯痒い気持ちが私の心に渦巻いて、毎晩お母さんが隣で寝ている時に枕を濡らすのだった。

 そんな時に、現れたのが玲子だった。玲子は私の家に挨拶に来た時、真っ先に私に駆け寄ってくれた。私は人見知りを発動させて何も言えなかったけど彼女は私にこう言ってくれた。

「人見知りなのはしょうがないって思いなよ。それもあなたの個性なんだから。それに、私あなたと仲良しになって友達になりたいし」

 小学一年生が言うにはあまりにも大人びた言葉をしていた。当時は意味がよくわからなかったけど、今ならよくわかる気がする。そして何より私は、最後の「友達になりたい」という彼女の言葉を勝手に心の叫びの様に捉えて、私の中に「一歩前に進まなければ」という気持ちが自然と湧いたのだ。

「わ、私、源紀子!」

 彼女の心の叫びに突き動かされた私は家族ではない他人に初めて声が裏返るほどの大きな声で自己紹介ができた。

「わぁ!紀子!凄い!頑張って言えたね!これからよろしくね!」

 玲子は声が裏返ったことを気にもせず、私が自己紹介が出来たことを自分のことのように喜んで微笑んでくれた。それが私にとってどれだけ嬉しいことかわかってて言っているのだとしたら、彼女はこの頃から聡明な女性と言えるだろう。

 それからは、私は玲子に対しては最初にあった頃よりも人見知りを発動させることは少なくなっていって、彼女が同じクラスに転入する頃には他の人にも人見知りを発動させることは無くなった。

 私の人生は明るく輝いて見えるようになった。人見知りの頃はひたすら心に焦りという名の重しを抱えて過ごしていて、前が見えなかった。自分の影しか見れていなかった。でも、玲子が隣にいるから。玲子がどんな時も一緒についてきてくれるから。玲子への信頼があって安心し、重しを置いてゆっくりと前を見ることが出来た。そして今は後ろを振り返らず、前の光だけを見て毎日を、日常を過ごすことが出来ている。すべては玲子のお陰だった。


 小学五年生のクラス替えで、四年ぶりに一緒のクラスになった玲子と私は四年間一緒のクラスで過ごせなかったのを取り戻すかのようにどんな時も一緒にいた。登校する時も、トイレに行く時も、移動教室の時も、休み時間の時も、下校の時も、どんな時でも一緒にいた。そんな私達をクラスの女子はニコイチだと微笑ましそうに見ていた。

 ある日、クラスの男子の正輝くんが私と玲子のことを馬鹿にしてきた。

「玲子と紀子って古風な名前だよな。〇子って古臭いし」

 名前を馬鹿にされて怒りと悲しみが混ざり合ったしょっぱい涙が溢れた。でも、玲子は私の様に泣いたりせずただ微笑んでいた。

「私はこの名前好きだよ。大好きなお母さんがつけてくれたんだもの。それに玲子と紀子みたいな〇子って確かに古臭いかもしれないけどそれでも紀子と名前が似てるから私は昔よりももっと気に入ってる」

 相手の言葉を肯定しながらも玲子は自分の意見を自分の言葉で言っていた。その強さに私は圧倒されたのと、玲子が名前が似ているからもっと気に入ってると言ってくれて怒りと悲しみよりも嬉しい、さっきよりもちょっとだけマシなしょっぱい涙を流していた。

正輝君もこの大人な返しには何も言えなかったのか、「そ、そうかよ!」と顔を椿色の様に真っ赤にして廊下へ走り出ていった。クラスの皆は玲子のカッコ良さに圧倒されていた。そして口々に「玲子ちゃん凄い!」「かっこいい!」「お前すげぇな!」と褒め称えるのだ。私は心の中で正輝に「凄いでしょ!私の玲子!正輝君ざまあみろ」とほくそ笑んだ。それほど玲子は強くカッコ良く見えたのだ。

 秋の涼しい風が吹く日に先生から次の授業参観で使う宿題が出た。宿題は「私・僕の大事な家族」という題材だった。私は家族の誰を書こうかと一人嬉しそうに悩んでいた。

 授業参観日当日。家族がまだ来ない時間の休み時間は授業参観の話題で持ちきりだった。当然私も授業参観のことばかり考えていた。「家族来る?私はお母さんが来るんだ」

と玲子に話しかけた。

「今日お父さんが来ないから誰も来ないんだ」と微笑みながら玲子は返した。後にその言葉の重みを知ることになった。

周りの女子は、「え!玲子ちゃんの家族こないの!?」と騒ぎ始めた。

「お母さんは来れないの?」

と誰かが聞いた。玲子はそれに微笑みながら言った。

「私、お母さんいないから」

 五年間過ごしてて初めて知った事実だった。初めて会った時は人見知りが発動してそれどころじゃなかったし、一年生の授業参観はお父さんが来ていたからお母さんが来ていないことに不思議と疑問を抱かなかった。遊びの時もいつも私の家だったから気にすることが無かったのだ。そしてお母さんがいないという言葉を聞いて私は今彼女を傷つける言葉を言ってしまったことに酷く後悔した。周りも当然その言葉に唖然とし、水を打ったように静かになった。そんな空気をぶち壊したのが正輝君だった。

「え!お前母ちゃんいないの?かっわいそー」

 いつかの仕返しがしたかったのだろう。今思えば小学生男子の空気の読めない質の悪い言葉だ。だが、玲子は微笑みを崩さないまま私と授業参観の話を続けようとした。

 大人な対応だ。誰もがそう思った。その時に言い放った正輝君の言葉。

「お前、いつも笑ってて気持ち悪っ」

 その瞬間、玲子は物凄い速さで正輝君を押し倒した。玲子の顔は見えなかった。正輝君はあまりの衝撃と玲子に対しての恐怖とで、泣き叫んだ。そしてタイミングが悪く、保護者が教室に入ってくる時間になったのだ。当然、保護者は何があったのかと騒めき、先生も駆けつけてきた。また最悪なことに、正輝君のお母さんが教室に来て泣いている正輝君を見てこれは何事かと更に騒ぎを大きくするのだった。玲子は正輝君のお母さんに俯きながら責められ、先生はそれを宥め、私達は唖然とするばかり。カオスだった。ようやく落ち着いて、私達がどもりながらも必死に説明して全てを知った大人達は手の平を反すように玲子に謝罪の言葉と申し訳ないという視線を投げるのだった。その間も、玲子は「大丈夫です」と微笑むのだ。でもその時の玲子は誰がどう見ても苦しそうに微笑んでいるように見えた。しかし、それを皆は口にはせず、「そうかそうか」と流すのだった。私はそこで初めて、「大人って汚いんだ」という大人に対しての少しの嫌悪の気持ちを初めて抱いたのだった。


 あれから五年。

 私と玲子は蝶の丘高校に入学した。高校生になっても私達は変わらずにずっと一緒にいた。玲子と一緒なら大丈夫。小学生の頃から変わらない何の根拠もない安心を抱き続けたまま、私は大人に近づいていく。

 高校生になった玲子は、大人に近づくにつれ可愛いというよりも美しいという言葉が似合う聡明な女性に近づいていった。私は大人に近づいていっても小学生の頃とは何も変わらない。ただ大人になっていくために必要な知識と常識を兼ね備えたただの女子高生だ。だけど、これだけは大人に近づくにつれてわかったことがある。玲子は、無理して微笑んでいるのだと。小さい頃はただ単純に素直に玲子の微笑みを受け取っていたから、ただ笑っているという印象が強かった。でも、大人に近づくにつれ心が汚くなっていき、玲子の微笑みに裏があると、徐々にわかってきた。一見普通の微笑みだ。だけど、誰よりも一番近くにいた私だからわかる。あれは悲哀ともがき苦しんでいる微笑みなのだと。ただ何に苦しめられているのか何に悲しんでいるのか、それは私にはわからない。聞こうとする勇気もない。今更そんなことを聞いたって、玲子は全部大人な返答をして私は何も言えなくなるだけだってわかりきっているから。


「なあ、源っているか?」

 教室の扉付近で聞こえた私の苗字。反射的に振り返ると、正輝君がいた。彼も同じ高校だったのだと、この瞬間に気付いた。私は彼に近づき「何か用?」と若干冷めた声で聞いた。一度、玲子を傷つけたんだ。そう簡単には許しやしない。彼は私の声にビビったのか、少し後ずさる。だが、一息吸って決心がついたのか口を開けた。

「大事な話がある。放課後、校舎裏に来い」

 教室が静かになったと思えば瞬く間に騒然とした。私は顔が紅潮するのを感じ、顔を見られないように咄嗟に正輝君がいるのとは反対の方向を向いた。「取り敢えず、何が何でも来いよ」そう言い放ち、正輝君は去っていった。席に戻っても顔の火照りは冷めず、隣で玲子は「告白かもね」と微笑んでいた。私の心臓はもう爆発寸前だった。

 迎えた放課後。私は女子トイレで前髪をくしで整えて鏡で確認していた。「そろそろ行かないと」玲子は微笑みながら言う。あれから私の心臓は忙しなく鼓動を打っていて、そろそろ死ぬんじゃないかと思うほどだった。「うん。もう行くよ」深呼吸をし、校舎裏に向かう。向かう道中も心臓は更に早く鼓動を打つ。呼吸するのが苦しい。左胸を押さえながら校舎裏に回ると、そこには既に正輝君が立っていて、真剣な表情で立っていた。そして途端にこれは恋愛の告白ではなく、別の意味の告白だとわかった。

「五島のことで大事な話がある」

 私の体にさっきとは違う緊張が走る。「本当はもっと早くに話さなきゃいけないんじゃないかと思ってた」と正輝君は語る。「もったいぶらないで早く本題に入って」本題まで長くなりそうだったので私は間髪入れずに言い放つ。すると彼は「そうだな」と自嘲する。「小学五年生の授業参観の日、覚えてるか?」

 忘れるはずもない。私があの時初めて玲子の怒りの片鱗が見えた日なのだから。「ええ、勿論覚えてる。玲子に酷いことを言ったあの日のこと。忘れるわけない」あの日の無念を晴らすように言う。正輝君は「うっ」と少しのダメージを受ける。いい気味だと思ったのは私の中だけに留めておこう。

「そう。それで、五島が俺を押し倒した時の顔が忘れられないんだ」

 あの時私がいた場所からでは玲子の顔は見えなかった。故に、どんな顔をしていたのかは知る由もない。

「どんな顔してたの?」

 少しの緊張を混ぜた声で問う。彼の言いぶりからただ普通に微笑んでいたわけじゃないのは確かだ。

「どういえばいいかわからないけど、怒りと悲しみを混ぜた感情を無理矢理笑顔で押し殺しているような微笑みだった」

 その言葉を聞いて、私はどういう微笑みだったのか想像してみたが、上手く想像することが出来なかった。

「俺は今でもあの顔を忘れられないんだ。それで今日夢を見たんだ。五島が自分の胸を刺す夢を」

 私は突然頭が何も描いていないキャンバスみたいに真っ白になった。「いや、夢だぞ。夢だけど嫌な予感がして」私は正輝君の言葉を聞き終わる前に走り出した。

 夢。ただの夢だ。そう自分に言い聞かせる。だけど、自分も今、とてつもなく嫌な感じがするのだ。虫の知らせみたいな、嫌な感覚。

 玲子がいる教室に慌てて入り込む。そこには窓の縁に身を乗り出そうとする玲子がいた。

「玲子!!」

 今まで生きてきた中で一番大きな声を出す。玲子はこちらに目をやる。

「どうしたの?」

 玲子は苦しそうな目で微笑んでいる。

「玲子、何で玲子はいつも微笑んでるの?」

 走ったからなのか、それともずっと聞こうか迷っていた質問を初めてしたからなのかわからないが、心臓が嫌な鼓動を打つ。

「微笑んでる、か。もう癖になってるんだよね。自分が今も微笑んでいるのかもわからないよ」

「質問にちゃんと答えて。玲子ならこの質問の意味、わかるでしょ?」

 玲子は観念したのか初めて自嘲気味に笑った。

「死んだお母さんがね、辛い時、苦しい時、笑っていなさい、って。最期に言ってくれたの。だから私はそれを守っていただけ。でもね、何だかずっと笑っているのが辛くなって。本当の笑い方も、泣き方も忘れた。だから教えてもらいにお母さんのところに逝くの」

「馬鹿!!」

 私は初めて玲子に対して怒りというものが湧いた。何もわかっていなかったんだ。全然大人なんかじゃなかったんだ。

「辛い時、苦しい時、笑っていなさい。確かに玲子のお母さんは言ったかもしれない。でもずっとじゃないってことくらいわかるでしょ!本当に辛い時、苦しい時は泣いていいの!面白いって思った時に思い切り笑っていいの!やり方が分からないなら私が教えてあげる!だから、私の前から、いなくなろうとしないで!」

 涙がとめどなく溢れてくる。玲子はずっと大人だと思っていた。でも本当は、泣き方も笑い方も知らない小さい子供だったんだ。

 私は手を差し出す。

「ねえ、だから。私と一緒に生きよう!!」

 玲子は身を乗り出すのをやめ、私の手を掴み体をぎゅっと抱きしめる。

「ああああぁぁぁああ」

 玲子は生まれたての赤子みたいに泣いた。

私も声を上げて泣き、夕陽が私達を温かく照らすのだった。


 泣き止むころには私達の足元に染みが出来ていた。

「私、こんなに泣いたの初めて」

 玲子が染みを見ながら言う。

「私も!」

 そして二人で大爆笑をした。

 ああ、やっと心から笑ってくれた。私はただただ嬉しくてまた涙が零れる。でも、さっきの涙とは違い、どこか晴れやかな明るい涙だった。玲子も涙に気付いたのか、さっきとは違う、嬉し涙で二人とも頬を濡らすのだ。

「そういえば、さっきの紀子凄くカッコ良かったよ。私と一緒に生きようって。プロポーズだと思っちゃった」

 私は途端に顔が熱く紅潮したが、でもそれもいいかと思った。

「玲子がいいなら私は全然いいよ」

 少し照れながら言うと、今度は玲子が顔を紅潮するのだった。

「え、そういうってことは正輝君のこと振ったの?」

 ジト目で見つめられる。そういえば、すっかり正輝君のことを忘れていた。やばいと焦った瞬間、廊下から正輝君の声が聞こえた。

「あ、源いた。探したぞ、急にいなくなるから」と言いながら入ってきた彼は、私達が抱き合っているのを見て「あ、悪い。邪魔した」

と一瞬で目の前から消えた。玲子は終始困惑していた。私は彼に感謝しっぱなしだった。もし彼が私に「告白」を言わなければ、玲子はもういなくなっていたかもしれない。後日ちゃんとしたお礼をしようと心に決めた。

「玲子、帰ろ!」

 私は玲子の手を引く。

「うん!」

と玲子は花が咲くような満面の笑みで笑った。

 夕陽が買えり道を照らす中、私達は手を繋いで帰った。


〈玲子〉


 私のお母さんは強くて、優しくて、聡明で、カッコ良い女性で、私の憧れで自慢のお母さんだった。だけどそんなお母さんは私が五歳の頃持病が悪化して病院のベッドの上で息を引き取った。お母さんが亡くなった時悲しかった。涙が出そうだった。でも、最期にお母さんに言われたのだ。

「辛い時、苦しい時、笑っていなさい」

 最初はお母さんの最期の約束だから守ろうと必死だった。だから言葉通り、辛い時、苦しい時、笑うようにした。お母さんの葬式の時も、周りにどんな目で見られたって気にしない。だってお母さんとの約束だもの。

 小学生に上がる時、お父さんの仕事の都合で引っ越すことになった。私は謝るお父さんに「大丈夫だよ」ともう得意になった微笑みで答える。お父さんはただ顔を歪め泣きながら「ごめん」と謝り続け、私はその頭を微笑みながら撫でることしかできないのだった。

 引っ越して、隣の家に挨拶に行った。隣の家には私と同い年の女の子がいるらしい。仲良くしたいなという気持ちが地下水が湧き出るように強く思った。いざ挨拶をすると、目の前の女の子は人見知りなのか、彼女のお母さんの足に隠れていた。私はそんな彼女に駆け寄った。

「人見知りなのはしょうがないって思いなよ。それもあなたの個性なんだから。それに、私あなたと仲良しになって友達になりたいし」

 もういないお母さんを思い出して、きっとお母さんならこういうだろうと思いながら言った。そして何より、この女の子と友達になりたかった。引っ越す前、いつの間にか私は独りになっていた。だから、彼女と仲良くなって友達になって独りから救われたいという心の叫びでもあった。けれど彼女からは何も聞こえない。今はやっぱり無理なのかな、そう思った時。

「わ、私!源紀子!」

 紀子の勇気を出した言葉が重く私に届いたのだ。

「わぁ!紀子!凄い!頑張って言えたね!これからよろしくね!」

 私は紀子が勇気を出してくれたことに凄い、嬉しいという気持ち溢れて今思えばかなり無理矢理仲良くしようとしていたと思う。でも紀子はそれからというもの、私とずっと一緒にいてくれるのだった。私はそれが嬉しくてお母さんが私にしてくれたみたいに、紀子を守り続けよう。そう決めたのだ。

 

 小学五年生のクラス替え。一年生の時ぶりに紀子と一緒のクラスになった。私はそれが嬉しくて帰ってすぐにお父さんにメールで報告したのだ。お父さんは帰ってから「良かったね」と私の頭を撫でてくれて、私はお得意の微笑みで返した。

 時々、同じクラスの正輝君にいじられることがあった。今思えば小学生男子の典型的なパターンだと思う。ある日、私と紀子の名前が古臭いと馬鹿にされた。紀子は怒りながら、でもやはり悲しかったのか泣いていた。私は見ていて辛かったし苦しかった。そんな時にお母さんの言葉を思い出して、私は彼に言い返したのだ。

「私はこの名前好きだよ。大好きなお母さんがつけてくれたんだもの。それに玲子と紀子みたいな〇子って確かに古臭いかもしれないけどそれでも紀子と名前が似てるから私は昔よりももっと気に入ってる」

 お母さんが私に残した名前という名の遺産。私はこの名前がすごく好きだった。そして紀子と名前が似ていて更に気に入ったのも事実だ。私はこの名前が大好きだ。そしてお母さんならこういい返すだろうと思い言ったのだった。周りの皆は「凄い」「カッコ良い」と言ってくれた。私はまるでお母さんが褒められたみたいで嬉しかった。

 授業参観の日。この日は事前に出された宿題に「私・僕の大事な家族」という題材で参観日発表すると先生に言われた。私はお母さんを書こうとすぐに決めた。参観日はお父さんは来れないと言われた。けれどむしろ有難かった。お母さんのことを書いたのを知ったらお父さんはきっと悲しむから。

 休み時間。皆がソワソワし始めた。周りは「今日誰が来るの?」だったりして興奮を落ち着かせようとしていた。紀子も私に聞いた。

「家族来る?私はお母さんが来るんだ」

紀子は興奮冷めやらぬ状態で聞いた。

「今日お父さんが来ないから誰も来ないんだ」私はもう癖になった微笑みで答えた。すると周りの女子は私の家族が来ないことに対して騒ぎ始めた。そして誰かが聞いた。

「お母さんは来れないの?」

 その言葉を聞いてお母さんは本当にいないのだと何度も辛いほどに感じさせられた。だけど微笑んで、

「私、お母さんいないから」

と返すと紀子も皆も唖然としていた。そっか。紀子にも話してなかったのか。辺りは水を打ったように静かになった。そんな中響いた声の主は正輝君の一言だった。

「え!お前母ちゃんいないの?かっわいそー」

 別に私のことを言われるのはどうでもよかった。ただ、次の一言が駄目だったのだ。

「お前、いつも笑ってて気持ち悪っ」

 お母さんと今まで私が積み上げてきた努力を侮辱するような一言に、抑え込めたはずの怒りが抑えきれなくなって、気づいた時には正輝君を押し倒していた。その時の私の顔はどうだったのだろう。上手く笑えていたのだろうか。それからの記憶はあまり覚えていない。覚えているのは知らない大人に勝手に罵倒されて勝手に謝られているだけ。私はそんな中でも微笑みを絶やさないでいた。周りのことなど知らないで。


 紀子と同じ蝶の丘高校に入学した。その頃にはもう普段の顔がわからなくなって、泣き方や本当の笑い方がわからなくなっていた。

「なあ源っているか?」

 紀子の名前が呼ばれた声の元を辿るとそこには昔の面影が少し残った大人びた正輝君が立っていた。紀子は反射的に振り返る。

「大事な話がある。放課後、校舎裏に来い」

 正輝君の有無を言わせないその雰囲気に誰もが告白だと思った。勿論それは私も含めて。

とうとう紀子が彼氏持ちか。悲しいな。苦しいな。私は頬が紅潮して林檎みたいになっている彼女に「告白かもね」と私の心情を悟らせないよう必死に表情を押し殺して微笑んだ。

 迎えた放課後、紀子は行ってしまった。彼女が私の隣からいなくなったら私はまた独りになってしまうのかな。私が彼女を守る意味がなくなる。何だかすべてがどうでも良くなった。もう本当の表情を作れない。お母さんの言葉の呪縛から抜け出せないなら、それから解く方法をお母さんに教えてもらえばいいんだ。なんだ。簡単じゃないか。そう思えたらすぐに行動に移せた。窓から身を乗り出そうとした時。

「玲子!!」

 初めて会った時よりも大きな紀子の声が私を呼んでいた。

「どうしたの?」

 私はいつもみたいな顔を作る。あれ、いつもの顔って何だっけ?

「玲子、何で玲子はいつも微笑んでるの?」

 紀子の苦しそうな声が聞こえる。私は本当のことを言ったらすべてが壊れてしまいそうで話をはぐらかす。

「微笑んでる、か。もう癖になってるんだよね。自分が今も微笑んでいるのかもわからないよ」

 紀子は悲しく、苦しそうに顔を歪める。

「質問にちゃんと答えて。玲子ならこの質問の意味、わかるでしょ?」

 ここまできたらはぐらかすのは無理そうだな、と私は観念する。

「死んだお母さんがね、辛い時、苦しい時、笑っていなさい、って。最期に言ってくれたの。だから私はそれを守っていただけ。でもね、何だかずっと笑っているのが辛くなって。本当の笑い方も、泣き方も忘れた。だから教えてもらいにお母さんのところに逝くの」

 もうどうでもいい。身を更に乗り出そうとした時。

「馬鹿!!」

 初めて紀子に怒られた。

「辛い時、苦しい時、笑っていなさい。確かに玲子のお母さんは言ったかもしれない。でもずっとじゃないってことくらいわかるでしょ!本当に辛い時、苦しい時は泣いていいの!面白いって思った時に思い切り笑っていいの!やり方がわからないなら私が教えてあげる!だから、私の前から、いなくなろうとしないで!」

 紀子の目から涙が溢れだす。それを見てとても辛くなって。でもどうすればいいのかわからなくて。

「ねえ、だから。私と一緒に生きよう!!」

 気づいたら私は身を乗り出すのをやめ、紀子の手を掴んでぎゅっと抱きしめて。

「ああああぁぁぁああ」

忘れていたはずの泣き方を思い出して赤子の様に泣いていた。紀子も私と同じくらい泣いていた。ただただ、彼女の涙と夕陽が温かかった。


 二人で泣き止んで、足元にはたくさんの染みが出来ていた。

「私、こんなに泣いたの初めて」

「私も!」

 二人で大爆笑した。笑うのって、泣くのって、こんなに心が救われるものなんだと初めて紀子に気付かされた。何だかそれが嬉しくて、彼女を見るとまた泣いていた。でもそれはさっきまで見たいな涙じゃなくて温かい涙で私も同じ涙を流した。

「そういえば、さっきの紀子凄くカッコ良かったよ。私と一緒に生きようって。プロポーズだと思っちゃった」

 さっきの言葉を思い出す。今までで一番紀子がカッコ良く見えた。彼女は私の言葉に赤くなっていたが。

「玲子がいいなら私は全然いいよ」

今度は私が赤くなる番だったが、ふと思った疑念を聞いた。

「え、そういうってことは正輝君のこと振ったの?」

 乗り換え速いなと冗談交じりにジト目で見るめると廊下から正輝君の声がした。

「あ、源いた。探したぞ、急にいなくなるから」そう言いながら入ってきたが、私たちの状況を見て「あ、悪い。邪魔した」と瞬く間に消えたのだった。私は一体何が起こっているのかわからなかったが、後に紀子から説明があって二人でお礼を言いに行くことになるのだった。

「玲子、帰ろ!」

 紀子は私の手を引く。

「うん!」

 私は今できる精いっぱいの気持ちで答えた。


 ねえ紀子。私紀子が言ってくれたおかげで思い出したの。お母さんのあの言葉には続きがあったのを。

「辛い時、苦しい時、笑っていなさい。でもね本当に辛い時、苦しい時は泣いて誰かを頼っていいの。それが本当の生きるだからね」

 あの時泣いてたから頭が混乱しててちゃんと頭に入ってなかったの。でも、紀子のお陰で思い出せた。ありがとう。

 紀子。ずーっと一緒だからね!

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笑顔 Rakuha @Agaki

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