第13話 血の声
「…………ん」
何かをきっかけに意識が目覚め、眠気まなこを振り払う。
暗い場所で、横になっている現状を確認すると、すぐに思い出した。
俺は生まれ育った国を追い出され、アワンと逃避行の真最中。
昨夜その女と愛し合い、こうして二人で――。
「ん?」
強く抱きしめて眠ったはずの女が、胸の中にいないことにようやく気が付く。
布団に手を伸ばして柔肌を探すが、どこにも見当たらない。一部分たりとも。
用を足しに外にでも行ったのだろうか。この辺りに魔獣は近づいてはこないという触れ込みだが、できれば俺に一声かけてからにしてほしかったものだ。
起こすのは悪いと静かに移動したアワンの姿が簡単に想像できるが、こちらは彼女を守ると約束したばかりなのだから。
その時、背後に誰かの気配を感じ取る。
最初からそこにいたのか、はたまた今近づいてきたのかは分からないが、ひとまず無事のようで良かった。
後ろを振り向けば、やはりそこに立っていたのはアワンだった。
夜も深まり、光もなく暗い天幕。しかしここまで近くにいて誰か分からないほどでもない。
俺の枕元には、確かに長身の美女が立っていた。
「……アワン?」
しかし不思議に思ったのは、彼女が直立不動で動かないこと。
おばけや霊の類など俺は信じないが、彼女の姿はそれに近いものを感じさせるような、ある種の不気味さを伴っていた。
まあ女が暗闇で立っているだけでも普通に怖い。寝ている間に背後に立たれていたという事実も恐怖を助長する要因だ。
これは今考えることではないかもしれないが、なぜ男が立っているよりも女が立っている方が何倍も怖いのだろうか。髪の毛が長いからだろうか。不思議だ。
「…………どうした?」
そんな冗談のようなことを考えられるくらいには楽観的だったが、彼女が声をかけても微動だにしないことで、ようやく異変を感じ取る。
上体を起こして、彼女の顔色を下から覗き込んで確認する。体調でも悪いのかと思って。
しかし、そんな悠長な考えは、遥かに緊迫した事態によって易々と葬られた。
「――――カイン・オルキヌス」
突然、フルネームで名を呼ばれる。
間違いなくアワンの声。俺の聴覚で間違えるはずもない。
確かに、アワン・ベンサハル、本人の声だった。
そしてはっきり、しっかりとした口調。寝ぼけても無ければふざけてもいない。人の意志を感じられる声。
しかし――。
「っ!?」
彼女の発声が肉体に届いた瞬間――
即座に、俺は布団から飛び上がるようにして身を起こす。
何も衣服をまとっていないが、そんなことは全く気にならなかった。
しっかりと両足を踏みしめ、アワンを睨みつけるように見据える。
愛を語り合い、愛を育み合った女に向ける視線ではない。
しかしそんな愛する男からの――仇敵に向けるような鋭い視線をその身に受けても、女の気配は微塵も揺らぐことはなかった。
俺と同じく、その身になんの衣服もまとっていないアワンが、こちらを不気味なほどの無表情で眺め続ける。
明らかな警戒態勢を見て、この反応――
(違う!! アワンじゃ――!!)
「<
発光の
情報を認識するならまず視覚からという、人間の根源的本能が行動に現れた。
突如中空に出現した光源が、室内を昼間のように照らし出す。
俺の名を呼ぶ声。間違いなくアワンのものだった。
しかし、アワンの意志を感じなかった。アワンは、あんな声色で俺の名を呼んだことはない。
音程、速度、発音、そして心。全てが受け付けなかった。俺の肉体が、心が、それを拒絶したのだ。
誰か、別の人間がアワンの声を借りて俺の名を呼んだ。そういう風に聞こえた。
そしてその予感は、すぐに正しかったと分かる。
眩い光に照らし出された褐色の美女が、お互いの姿が目に映るこの時を待っていたと言わんばかりに、再び口を開いたのだ。
「下界の番人よ。貴様は生まれながらの咎人だ」
(っ!?)
確信する。アワンではないと。
口調が、発音が、声色が、言葉選びが、あまりにも普段の彼女と違い過ぎる。
別人であることを隠す気もないアワンの姿をした誰かと、俺は睨み合う。
「汚れた大地に7つの霊命を贈る。罪人の血を息吹で雪ぎ、20年前に還す」
淀みなく、一方的に告げられる言葉。
まるで読み上げるようにスラスラと、心が通っていないかのように機械的に。
昼間のように明るく照らし出された室内。アワンの他には誰も確認できない。
そして褐色の肌に金髪。目の前にいるのはどこからどう見てもアワン本人。
ならば考えられるのは――。
(精神支配!!)
「手始めに、祖国の土を枯らす。大罪の果てに牧歌する野の羊たちよ、贖罪の時だ」
(<
一方的に喋り続けるアワンを放置して、俺は行動に移る。
なぜなら、こちらと会話しようという意志を感じなかったからだ。無駄なことをしている暇はない。
相手に悟られないよう、無言で
空気を音が震わせ、音と障害物がぶつかり合い、瞬く間に反響する。俺を中心に半径5000mの円の中が、丸裸となる。
精神支配の
隠れている敵を炙り出せる。俺の能力も知らずに、まんまと手を出してきた愚か者を見つけ出せる。そう思ったが、果たして愚か者とはどちらのことだったのか――。
(…………いない!! 馬鹿な!?)
「戸口の罪は貴様を恋い慕う。愚者の原罪に、然るべき審判を」
感知対策など、この
俺の反響定位はそこに実際に存在する物体であれば、どんな天術や魔術による隠蔽も剥がして感知できる。
地中だろうが空中だろうが、直径一kmの円の中なら、その全てが洗い出される。
そこから考えられる事実は、この近くに術者はいないということ。
しかし、そんなことがあり得るというのか。
(それほどのレベル差か……!! だが、そんなことが――!!)
「ゆめ忘れる事なかれ。私が必ず、貴様を裁く」
(――――!?)
言葉は、それが最後だった。
偶然だろうが、まるで俺の行動が終わるのを待っていたかのようなタイミングだった。
言い終えたと思った瞬間、これまで直立不動だったアワンが唐突に動き出す。
人外の動体視力で追えた――アワンの振り上げられた右腕には、俺が護身用に持たせたナイフが握られていた。
武器を捉えた瞬間、周辺一帯に広げていた意識が瞬時に引き戻される。
攻撃が来ると肉体を身構える。しかし、アワンの標的は俺ではなかった。
「なっ――!?」
その時ばかりは、全身に鳥肌が立った。毛穴という毛穴が、一斉に開いたような感覚。
振り上げた右腕の行く先が、アワンの首元だと気づいた瞬間、動き出せたのは奇跡だった。
咄嗟に突き出した俺の右手に鋭利な刃物が突き刺さり、なおも先にある肉体を傷つけようと動き続ける。
その先端の向かう先――アワンの首にだけは絶対に辿り着かないように、俺は続けて左手も突き出し、刃物の全てを両手で包み込んだ。
「くっ!」
自分の両手が傷つくことなど意に介さず、刃の部分は全て両手で覆う。
俺の肌にただのナイフで傷をつける。やはりいつものアワンではない。
アワンの筋力そのままでは、俺の防御力を突破して肉体を貫くことはまず不可能なはず。
一呼吸も気の抜けない鍔迫り合いをしながら、至近距離でアワンの皮を被った何者かと睨み合う。
不気味なほどの無表情。しかし、瞳の奥底には、静かに揺らめく狂気の炎が見受けられた。
少なくとも、意思を持たない人形ではない。俺を見る目は少しも揺らがず、むしろ魂の底まで見通すような力強さがあった。
力での勝負は、終わりが見えなかった。
流石に俺の全力の腕力は押し返せないようだが、俺は俺でこれ以上の動きは取れなかった。ナイフを取り上げて拘束したいが、そんな動きを取る余裕がない。
腕力で他者と拮抗するなど、両親を除いては生まれて初めての事。明らかに、常人ではない。しばらく続く拮抗状態に、冷や汗を流す。一時も油断は出来なかった。
「…………」
一瞬も気を抜けないような攻防の終わりは、突然だった。
示し合いもなく、また一つの言葉も無く、敵は消え失せる。
アワンの肉体から、ふっと力が抜け落ちる。俺はナイフを取り上げると同時、すぐに崩れ落ちる彼女の体を全身を使って支えた。
ナイフを床に滑らせて遠くにやり、腕の中のアワンの様子を確認する。
呼吸は安定しており、穏やかな寝顔さえ浮かべている様にほっと息をついた。
油断はできないが、即座の命の危険はない。
「…………」
胸を撫でおろすと同時に、びっしょりと汗をかいていたことに気が付く。
こんなに冷や汗をかくのは、正真正銘生まれて初めての事だった。
額から垂れた大粒の汗が顎先に集まり、アワンの上に落ちる。
(……危なかった。本当に)
急所への最短最速の攻撃。これが通っていれば、アワンは死んでいた。
なぜなら、俺が自身の血でアワンを再生させてから、まだ24時間を経過していない。俺の
そしてあの腕力であれば、アワンの肉体は容易く貫かれていたことだろう。俺の両手に残るこの傷跡が、そのなによりの証明。
(敵はそれを知っていたのか?)
いや、あり得ない。
俺は生まれてから17年、他人に自身の能力の一切を見せたことがない。自分で言うのもなんだが、病的なまでに隠してきた。
その一端を見せたのでさえ、直近のこのアワンのみ。
だが、念の為24時間が経過するまでは、最上級の警戒を維持するべきだろう。
抱きとめる女を見下ろす。
すう、すうと、先ほど起こったことが夢であったかのような安らかな寝顔に、俺も釣られるように笑みを浮かべる。
ひとまず、守れてよかった。
ナイフで貫かれた凄惨な手を見ても、微塵も負の感情は生まれてこなかった。もし仮に今の攻防で両手を永遠に失っていたとしても、俺は全く惜しくは思わなかったことだろう。
大切な女と、その女と結んだ約束を守れたのだから。
俺の血で綺麗な肌を汚してしまったことを、心から申し訳なく思う。しかし、俺は血をまとうアワンの身体を手放せなかった。むしろ、より一層強く抱きしめる。
この女は、絶対に渡さないと。
そして、どこかの誰かを、正体不明の敵を睨みつける。
俺の突き刺すような眼光を、深い闇だけが迎えた。
アワンを傷つけようとした。その事実だけで、裁かれるには十分な理由。
誰の女に手を出したのか、思い知らせてやる必要がある。
「どこの誰かは知らんが、必ず見つけ出して――――」
きっとこの時の俺は、アワンには見せられない顔をしていただろう。
この一時だけは、どうか目を覚まさないでくれと――
切実に願うほどに。
「殺してやる」
――俺は、過去を見て来なかった。
――興味がなかったのではなく、興味を持たないようにして生きてきた。
――過去に俺はいないからと。俺には関係のないことだからと。
――だが、それは間違いだったのか。
――俺という人間には、そもそも過去しかなかったのでは。
――この世に生まれ堕ちた、その瞬間から。
――その答えが分かるのは、もう少し未来のこと。
――これは俺が、過去と戦う物語。
――――序章 『農夫と土』 終――――
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