第12話 アワン・ベンサハル【1】

「何してる? さっさとこっち来い」


 天幕に入った途端、入り口あたりで足を止めてしまったアワンを手招きする。

 俺が既に敷いてある布団に腰を降ろしてもなお、彼女はその場に佇んでいた。

 胸の前で腕を抱えるように引き寄せ、きょろきょろと室内を見回す。借りてきた猫みたいだ。いや、これは使い方がちょっと違ったか? オルカのよく口にしていたような表現は意味が細かすぎて使い時が難しい。


「ほらここ」


 ポンポンとすぐ隣を叩いて隣に来させようとする。

 そろそろと地雷原を歩くように近づいてきたアワンが隣に腰に降ろす頃には、俺の緊張はすっかりなくなっていた。というのも――。


「お前、ちょっと緊張し過ぎだろ。大丈夫か?」


 自分よりも不安や緊張を抱いている存在を目の前にすると、反って自分は冷静になってしまうのは有名な話。

 俺の指摘に、ビクッと体全体を大きく揺らして反応する女。

 体の震えが空気まで揺らして伝って来るようだ。平時の彼女とはあまりにも違う、その辺の村娘のような態度に訝しむ。

 観察するように見れば、膝の上で両こぶしは固く握り締められ、下を向く姿とは裏腹に、背筋は伸びきっている。体の震えを止めようと必死に力を込めているのが分かった。この感じは――。


「え? もしかしてお前、初めてなのか?」


 空気が揺らいだ。

 それだけで答えを確信する。しかし同時に懐疑とは言わないまでも、納得感はあまりなかった。


「…………悪いですか?」


「いや……」


 心の中で一人首をひねるが、本人がそう言うのであればそうなのだろう。アワンは見栄を張ったりするタイプでもないし、何よりこの感じは幾度となく見てきた。少なくとも男に慣れている気配ではない。そういうのは下手に取り繕っても経験者にはすぐに分かるものだ。


「……あなたは私たちの種族の年の数え方について誤認しています」


 俺が頭を悩ませている問題に、ズバリ切り込まれる。鋭い。下手に取り繕っても意味はないとはこのことか。

 女の年齢というデリケートな話だけに、口には出しにくかったのだ。


「あまり踏み込むのもな……お前ら女ばっかだし。だがよく考えたら、間違った認識をいつまでも持っている方が失礼か。教えてくれるか?」


 このくらいが失礼のないギリギリだろうか。

 どちらにしろ恥をかかせることにはなってしまうが、いやはや人間関係とは難しい。そこに男女の感性の違いまで加わってくるとなると、もはや迷宮入りの難事件だ。誰か答えを知っていたら是非教えてほしい。


「単純に生まれてから重ねた年だけを数えるのであれば……私は38ですが、それはあなた方の尺度。基準ではなく、感覚をそちらに合わせて考えれば、私は19歳になったばかりです。あなたとたった2歳しか変わらない、19歳です」


「……なるほど」


 基準と感覚という言葉の使い分け、ここがポイントということか。相変わらず説明が分かりやすく無駄がない。

 つまり19歳の女が逆鯖読みしてるようなもんか。全くメリットはないどころか軽く風評被害だが、誤解されるのも分かる。

 まあ彼女が結論何が言いたいかといえば、私はまだピチピチの19歳だよ、ということだろう。

 これは決して口には出さないが、わざわざもう一度19歳と念押ししてくるところに狂気的執念を感じる。どうやら本人はかなり気にしていたらしい。


「そうか、そうか……そうだよな。お前は正真正銘、永遠の19歳だ。俺はちゃんと分かってるからな」


 そんな感情はおくびも出さずに、アワンの頭を右手で撫でる。

 すぐにサラサラの髪の毛が俺の手を出迎えた。気持ちいい。


「永遠の、ってつけるのやめていただけますか? なぜかたったそれだけで悪意のある嘘を言っているように聞こえます。その全部分かってるみたいな顔も不快なのでやめてください。私は本当に、正真正銘の19歳です」


「うんうん。分かってる分かってる」


 いきり立つ女を宥めるように頭を撫で続ける。

 それが逆効果であることは分かっていたが、やはり好きな女をイジメたいというのは男のサガだ。義務と言い換えてもいい。

 彼女の可愛らしい素が見えたことで、こちらの口も自然と緩む。


「それにしても意外だったな。お前は若くして親父の筆頭秘書官だったから」


 気付けば、初めて父親のことを親父と口にしていた。

 先ほどの想いの吐露で、何か自分の中でも折り合いがついたのかもしれない。少なくとも、悪い変化とは思えなかった。


「なんという下種の勘繰りをしているのですか。正直呆れましたよ」


 本当に呆れた顔で見られる。若干引いてるまである。

 当たり前だが、女性はそういう話はやはり嫌悪感を抱くか。少し踏み込み過ぎたかもしれない。

 いや、今の発言は「能力ではなく美貌を買われて出世したんだろ」と言っているようにも捉えられるか。確かに失礼な発言だった。

 だが、地位も権力も持つような偉い奴が、若く超美人の部下を傍に控えさせていたら、誰だってそういう目で見るのではないだろうかという当たり前の反論もある。失礼なことは重々承知だが、少なくとも俺なら見てしまう。


「オルカ様はミア様だけでした。それにご自身をよく振り返ってください。これほど力の無い言葉を聞いたのは初めてです」


「…………返す言葉も無いな」


 まさかこんなに綺麗に論破されてしまうとは。いっそ清々しい。

 分かりやすくあてがわれた使用人たちに一切手を出さず、それが原因で国から追放された男にはあまりにも効果のあり過ぎる反論だった。

 いや、男としてはむしろ真っ当な部類だろうと開き直るか。藪をつついて蛇を出す必要はないか。


「……アワン」


 アワンの様子を確認し、先ほどよりは緊張がほぐれているのを見て取ると、一度瞳を伏せてスイッチを切り替える。

 俺の声色から空気が変わったことを察した彼女は、恐る恐るといったふうにこちらを見た。

 右手を伸ばして、彼女の膝の上で握り締められた左手を取る。

 痛いくらいの力強さが込められている女の手を、優しく包み込んだ。


「大丈夫」


 やんわりと握りしめて、努めて優しく声をかける。

 時間をおくと、やがてアワンの手からこわばりが溶けた。次は肉体の震えだ。


「大丈夫だアワン。お前が嫌がるようなことは絶対にしない」


 大丈夫という言葉は単純だが、それでいてかなりの効果がある。

 繰り返せば繰り返す程に、不思議と少しずつ安心していく。もちろん言葉をかける者が相手に不安を感じさせるような状態でなければ、という注釈がつくが。自分に言い聞かせているようでは何も大丈夫ではない。


 俺は冷静に、興奮を押し殺して本心を告げる。

 一定の効果はあったようで、アワンの肉体の震えが収まった。

 代わりに呼吸は浅く、短くなっていく。緊張や不安を上手く興奮に移行させることができたようだ。


 手を握ったまま、顔を近づけていく。

 肉体の距離はそもそも、ほんのわずかな隙間があるくらいの近さだった。

 動きだしてからすぐに顔と顔が重なるような距離。


 アワンの瞳が、まるで注射を打たれる直前のようにキュッと閉じられ、包み込んでいる手にも再び力が入る。

 俺はわざとリップ音が鳴るように、軽く唇を合わせた。


「ちゅっ……」


 二度目のキスは、やはり触れ合うだけの、ただ重ねただけのキス。

 しかし不意打ち気味に奪った一度目とは異なり、女の受け入れ態勢が整った上でのキス。やはり情緒が、興奮が、色めきが違う。

 お互いに、今からキスをすると示し合わせた上での儀式。

 ほうっと吐き出されたアワンの温かい呼吸が、俺の顔をくすぐった。


「キスをするのも、初めてか?」


 お互いの呼吸が顔表面をくすぐるような距離で、小声で語り掛ける。

 瞼が開き、自由になった瞳は少しうるんで見えた。

 

「いえ……初めてでした」


 小声で返される。小さな声で会話すると、秘密のやり取りみたいで興奮する。まるでいけないことを内緒でしているような。

 アワンの口にした内容にはすぐにピンときた。あの一度目のキスが初めてのものだった、という意味だろう。まああの反応を思い出せば、今となっては頷ける。


「じゃあ今度はお前からしてみろ」


「え……」


 カッと赤く染まるアワンの顔を見て、少し嬉しくなる。自分からするのは恥ずかしいらしい。

 真面目腐った顔をして、彼女は随分と乙女の心を持っているようだ。ギャップ萌えが留まることを知らない。

 属性過多だとは常日頃から思ってはいたが、こんな要素も持ち合わせていたとは。嬉しい誤算だ。

 これからも彼女の潜在属性は、俺が発掘してあげるとしよう。


「あ、あの……眼鏡取りましょうか……?」


「いや、そのままでいい」


 本格的な行為になったら危ないかもしれないため外す予定だが、今はこのままが良かった。

 息を吸って、それから吐き出し、気合を入れるように、もしくは精神統一のように目を伏せたアワンが、くわっと目を見開く。

 そんなに気合を入れなくても――そんなことを思った頃には、両手で顔を挟まれていた。

 緊張した女の震えが、頬に触れる両手からも伝わってくる。

 遠慮がちに近づいてきた女の唇が、今、届けられた。


「ちゅっ……」


 アワンの意志による、アワンからの初めてのキスは、想像以上に心地の良いものだった。

 角度が難しかったのか眼鏡が額に当たったが、それもまた一興。

 離れた途端に自身の口元を覆い隠す女を見て、俺の興奮は最高潮にまで達した。




***




「ふぅ……」


 覆いかぶさっていた体勢から、横に並ぶように寝転がって、どれくらい経つだろうか。あまりの快感に前後不覚、意識さえままならなかった。


 右腕に重みを感じる。隣から、浅い呼吸音が聞こえてくる。

 抱いた女がすぐ隣にいることは明白。ようやくしっかりとした働きを取り戻した頭で考えるのは、彼女はどうだったのかという男ならごく当たり前の思考。


 アワンには「すぐにそんなことは言えなくなる」とか偉そうなことを言ったが、初めての女をその日の夜のうちに骨抜きにするなど物理的に不可能だ。

 痛いものは痛いし、明確な快感を感じる体にするには長期の開発が必要となる。処女が最初のセックスからアンアン喘ぐのは物語の中だけだ。そんなことは現実を生きている俺には分かっている。


 だが、痛いだけで嫌ではなかったか、自分勝手にはなっていなかったか。

 出すの早いとか思われていないだろうか、一回だけで打ち止めとは情けない男だとか。いやいや、俺は何度だってしたいのだが、それは初めてのアワンにこれ以上負担をかけたくないからで――。

 相手が大切な女だけに、気づけばそんな小さなことばかりを気にしてしまっていた。


「……ん?」


 気配の揺らぎを感じれば、右腕の重みがなくなり、胸元に新たな感触が生まれる。

 視線を動かせば、胸にしな垂れかかっている女の姿が見えた。


 褐色の肌、美しい金髪、そして輝く金の瞳。

 俺にとって世界で一番いい女が、胸板に小さな顔を乗せ、こちらを見上げてくる。

 いい女――アワンは頬を染め上げて、震える唇を開いた。


「――――あなたの瞳……とても綺麗ですよね。まるで夜空みたい」


 息を飲む。

 たったそれだけの短い言葉は、俺の不安の全てを払拭した。

 同時に何をしているのかと、誰かに頬を叩かれたような気分にさえさせた。俺が今することは、そんなことではないだろうと。


 アワンの言は、言い得て妙だ。

 俺の瞳は血のように赤いが、白だったり黄色だったりの発行色が複数点在する瞳孔は、無数の星空が煌めく夜空を想起させる。一般的な瞳ではない。自分で言うのもなんだが、かなり珍しい形。

 だがそれを言えば、アワンもそうだ。


「ならお前は……明けの明星かな。とても美しい」


 アワンの瞳は明るいところで見れば、空、大地、海の世界そのものを表しているような色合いだが、薄暗いところで見ればその景色は様変わりする。

 まるで夜明け頃に見える明るい星のように、ただ一つの色が主張を激しくするのだ。


 俺の言葉に、金の瞳が二つ、大きく揺れ動く。

 男女が互いの瞳を褒め合うのは、この世界ではかなり直接的な愛情表現だ。意味合い的には「好き好き♡」と言ってるのと大して変わらない。女に先に言わせてしまったことを歯がゆく思う。


「だったら……同じ時を過ごすことは叶いませんね。残念です」


 夜にしか見えない星々と、夜明け頃に見える星。

 確かにこれでは、同じ時間は共有できない。中々上手いことを言う。

 これは、おねだりだ。明らかに、愛の言葉をねだっている。

 女の不安を一蹴できるような、小手先の言葉遊びなど意に介さないような男を見せてほしい。


 女の期待を伴った瞳が、見上げてくる。

 俺は今度ばかりは、焦らさなかった。


「大丈夫。月明かりで照らし続けるから」


 アワンの瞳は、明るいところでは世界の姿を映し出す。

 世界は、夜空とでも時を共有できる。

 ”月明かりで照らす”とは創成古語表現で、”あなたに光を与える”という意味。そして”光を与える”とは、彼女の一族に長く伝わる古くからの愛の表現方法だ。


 俺が得意とする創成古語と、彼女の一族に伝わる愛の表現を絡めた告白。この場では及第点ではなかろうか。


「…………ちょっと、クサすぎます」

 

 ぼそっと囁くように、ぶっきらぼうにも聞こえるような言葉。

 しかもそれだけ言うと、彼女は顔を隠すように俺の胸に伏せてしまった。

 悶えるように体が左右に揺れる。


 感触は意外にも悪くなさそうだが、流石に奇をてらい過ぎたか。

 正直自覚している。いくらなんでもクサすぎだ。キザ男でもあるまいし、俺にはあまりにも似合わない。だから――。


「――――アワン」


 名を呼ぶと、そろそろと顔があがる。

 顔は薄暗さの中でもはっきりと分かるほどに真っ赤となり、先ほどの言葉に彼女がどれだけの勇気を振り絞ったのか、また俺の言葉を受けてどれだけ恥ずかしかったのか、如実に伝えてきた。


 今にも雫がこぼれそうなほどに潤んだ瞳を見つめる。

 吸い込まれそうな透き通った視線に、俺は自身の視線を重ねた。




「愛してる」




 愛の言葉には、あまりにもありふれた表現。使い古された言葉。

 だが俺程度の男には、これくらいがお似合いだろう。

 心から嬉しそうな笑顔を浮かべる女に、俺はそう思った。

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