〈未来選択者〉は誰?

夕白颯汰

私は「選択」するんだ。

 ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ――――。

 

 目覚まし時計の音が私の耳に刺さった。

 

 小刻みな機械の音はいやにやかましく、深いまどろみの中から私は急激に引き戻される。

 

 一瞬の浮遊感。

 ゆっくりと瞼を開くと、白い天井がぼんやりと映った。

 

 まだ意識は不明瞭で、体を動かす気にはなれない。

 数秒、いや数分のあいだ天井を眺めていたら、チュンチュン、と小鳥の声が聞こえてきた。

 無音の部屋で耳を澄ますと、車の行き交いや人の会話が微かに感じられた。

 

 寝返りをうち再び目を瞑ろうとしたとき、ミィィーーンというひときわ大きな音が、ガラスを突き抜けて届いた。

 それに追随するかのように、他の鳴き声も遅れて重なる。

 同じようなリズム、高さで鳴いている。

 

 静寂は去ってしまった。こうなっては最早、安眠は得られない。

 

 はぁっ、とため息を漏らしゆっくりと起き上がる。

 目覚まし時計を手に取ると、七時過ぎを示していた。寝坊ではないが、母に小言を言われる前に起きて学校に行く支度をしなくてはならない。

 

 ……えっと、昨日は塾があって、休日だったから――

 今日は七月十四日、月曜日だ。憂鬱な一週間がまた始まる。

 ベッドから降り歩いて、姿見の前で止まる。鏡の中の自分と目が合った。

 

 半ば閉じた瞳には、光が見当たらない。

 背中まである黒髪は無秩序にうねっていて、顔にはまるで生気がない。

 

 やっぱり、私って…………。

 

 負の方向に進みかけた思考をぶんぶんと頭を振って追いやり、一気に服を脱ぐ。

 クローゼットを開けると、そこには夏用の制服と、少ない私服と、いくつもの使われていないハンガーがあった。

 取り出した制服が放つ柔軟剤の香りに、顔をしかめる。

 シャツに腕を通しスカートのフックを掛け、赤のリボンを絞める。

 

 鏡に映る制服姿の私は、どこにでもいる無個性な少女だった。

 運動ができるわけでもさして頭がいいわけでもなく、特技をもつでもなく、人気者でもない。

 クラスで埋もれていることも、避けられていることも自覚はある。

 みんなのように学校生活や友達との会話を楽しめていないのは、日々感じている。

 だがそうと分かっていても、私の足、いや口は一向に動こうとしない。ある日から、固くなって地面に張り付いてしまった。

 

 理由など知るはずもない。知っているのなら、こんな気分になることはない。

 俯いて目をそらす。紺のカーテンで覆われた窓からは、眩い陽光が溢れ出ている。

 少しめくると、外の明るさに目がくらんだ。まだ眠い目をこすり見ると、家の前の道路では人が行き交っていた。

 色とりどりのランドセルを背負った小学生、スマホ片手に歩く詰め襟の高校生、親と手を繋ぐ幼児、立ち止まった老人たち。

 そして、話に花を咲かせている中学生の集団。向こうが私を見てくることはないはずなのに、すぐにカーテンを閉めて隠れる。

 

 いまの私はみんなにどう思われるんだろうか。誰かの気に障らないだろうか。誰かの怒りに触れてしまわないだろうか。

 私はただ、そんなことを考えていた。

 

 今いちど時計を見ると、もう七時半になっている。朝食を食べていかないと母が怒るので、早く済ませよう。

 ブラシで大まかに髪を梳き、リボンを整え、最後に鏡で確認する。

 化粧っ気はなく、スカートの長さも規則通り。入学した頃から、一切の変化がない。

 

 ――染みひとつ、皺ひとつない制服の私は、何も記入されぬまま放置された白紙のようだった。

 

 翻って教科書の詰まったカバンを掴み、部屋を出る。薄暗い部屋に自己嫌悪を置き去りにして、私は階下に向かった。

 


◆ ◆ ◆

 


一階では母がちょうど朝食をつくっていた。


「おはよう、遅いわよ」

「……うん」

「もう朝ご飯できるから、早く食べて学校行きなさい。あと髪をなんとかしなさい」


 それに返事はせず、テーブル左奥の席につく。

 母が私の前においた皿には、目玉焼きとハムとトマト、焼いたクロワッサン、そして苺が載っていた。

 麦の香りを漂わせるクロワッサンを口に入れようとしたとき、階段から大きなあくびが聞こえた。


「ふぁぁああ……、おはよー……」

「遅いわよ! いい加減七時に起きなさい!」

「はぁーい」


 気だるげな返事をしたのは、今年で小学五年生の弟だった。

 私と同じように髪がボサボサになっていて、それを治すことも顔を洗うこともなく椅子を引いた。

 そこに母が朝食を置く。


「ぃただきまーす」


 ようやく朝の仕事が終わった母は、タオルで手を拭きながら言った。


「お母さんもう仕事行かなきゃいけないから、食べ終わったらお皿洗っといて。あなたお姉ちゃんなんだから、二人分やってあげなさいよ!」


 平日の朝、いつも言われることだ。

 我が家の父は本社に出向することが多く、家を出るのが早い。いっぽう母は都内のスタジオで働いており、撮影は午前中に集中するため私達と同じぐらいの時間帯に出発しなければならない。そんな理由があって、私はよく家事を頼まれる。


 ――でも今日は、私にだってやることはあるのに。


 日々、姉だからという理由で何もかも押し付けられる。頼まれたこと全てに責任を負う。

 母はそれが当然であると思っているようだ。

 だからこそ、私は「選択」することができない。母が忙しくしているのは家族のためだと知っているのに頼みを断ったら、どんな顔をさせてしまうのか。優しさのない子だと見放されてしまうのではないか。

 それだけが怖くて、反発の言葉が出てきても抑え込み、言われたこと全てに従っている。

 私は家庭という場において、自分の行動、言葉を「選択」してはならない。

 私の気持ちなど、介在する余地はないのだ。

 

 そう言い聞かせ、僅かな反発はクロワッサンと一緒に飲み込んで、


「分かった」


 とだけ応えた。




 母が家を出て、少ししてから弟も学校に行った。

 中学校の始業は八時半なので、私はもう少しだけゆっくりできる。

 学校の準備も終わったし何をしようか、と少し考えてから、いつも通り音楽を聞くことにした。

 テーブルに置きっぱなしだったスマホを開いて、イヤホンを挿し込む。

 プレイリストの一番上の曲を選択しようとして、指を止める。


 ……今日はいつもと違うのにしよう。好きな曲じゃなくて、朝の気分に合う曲がいい。


 そう思い、何度かスクロールして見つけた曲を再生する。

 両耳から、柔らかなピアノの音色が流れ込んできた。遅れて、女性の澄んだ声が重なる。

 イヤホンをつけたまま、私はソファに転がり目を閉じた。そして、緩やかな音の流れに身を任せた。

 

 この時間だけは、誰にも侵されることのない私の時間だった。



 

 気づけば八時になっていた。

 未練を断ち切って音楽を止め、カバンを背負う。

 履き慣れたスニーカーの紐を結び、ドアに手をかける。強く押すと、隙間から強い風が吹き込み、同時に猛烈な熱波が私を襲った。


「あつ……」


 雲一つない空が、そこには広がっていた。

 燦々と照る太陽、それを受け止める道端の木々。あたりに響くは、重なり合った蛙鳴蝉噪。

 それは夏の風景に違いなく、私は一瞬くらっとした。

 

 家の鍵を締め日なたへ出ると、容赦ない陽光が私の肌を刺した。

 湿度の高い熱気を纏いながら学校に続く道を一歩ずつ進む。

 歩行者用の道は人ふたり分ほどでかなり狭く、ガードレールを挟んだ向こうの道路では多くの車が行き交っている。

 信号で立ち止まり、バス停に並ぶ人々を見たとき、ふと思った。

 

 この街は何も変わっていない、と。

 

 本当は、変わっていないのは自分だと気づかずに。

 あたりを眺めながら歩いていると、不意に、いくつかの嬌声が聞こえた。

 

 前方を見ると、五人組の小学生がこちらに向かってきている。

 彼らは道いっぱいに広がりながら、甲高い声で喋っていた。

 

 狭い歩道に避けられるスペースはなく、このままではぶつかってしまう。

 

 距離は縮まっていく。

 

 私の脳には二つの「選択肢」が浮かんでいた。

 ひとつ。何もせず直進して、あっちが避けてくれるのを待つ。

 ふたつ。私が道路から出て歩く。

 

 もし一つ目を選んで私が近づいていったら、彼らはどう感じるだろうか。

 おこがましい中学生だと思われる? ぶつかって顔をしかめられる?

 答えは出ず、選択も定まらないで、小学生らとの距離は五メートルとなった。

 彼らが私に気づいている様子はない。

 

 ――お姉ちゃんなんだから!

 

 そこで、母の声が蘇った。

 

 ……ああ、私は彼らより年上だ。ならば道やものと言わず、何もかもを譲ってあげなければならないんだ。

 距離が一メートルになったところで、私はガードレールの隙間から車道に飛び出した。


 ファァァァァァン!!!


「えっ」


 そのとき、背中からとてつもない大きさでクラクションが響き、口を開いたまま振り返ると、そこには――。

 私は驚きと恐怖のあまりに腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 

 幸いその車は交差点を曲がるために速度を落としていたようで、私から車一台ほどのところで止まった。


「おい、なにやってんだ! 急に飛び出してくるな!」

「す…………、す、すみません!!」


 窓から顔を出して怒号を上げる運転手の顔には、明確に不快感が表れていた。

 すぐに立ち上がり勢いよく頭を下げ、歩道に飛び戻る。

 運転手は私を見下ろしながら一度舌打ちをし、すぐに急発進して交差点に消えていった。

 それを呆然と見送り後ろを見ると、小学生の集団がかなり離れたところにいた。

 その場に立ち尽くしていると、彼らの背中は段々と小さくなっていき、やがて見えなくなった。

 

 彼らは、車にぶつかりそうになった私を見ても声を上げなかった。

 地面にへたり込んだ私に駆け寄ることもなかった。感謝や身を案じる言葉をかけることすらなかった。

 

 誰一人として。

 

 私の胸に残ったものは、運転手の苛立った顔のみだ。誰の役にも立ちはしなかった。

 

 ――ならば私は、何のためにあの「選択」をした?



 

 心臓の大きな拍動は止んだが、陰鬱とした気分は消えなかった。

 俯きながら私は通学路を進む。

 

 小さい坂道を上り、ガソリンスタンドを通り過ぎ、コンビニの角を曲がる。

 ひときわ広い道が現れた。ここまで来たら、あとは真っ直ぐ進むだけだ。

 左右にはいくつかの店が軒を連ねている。だが八時過ぎということもあって、ほとんどが閉まっている。

 

 校門まで続いている大路には、紺色の制服を着た男女がまばらにいた。

 シーンとしたこの道に響くのは彼らの話し声。


「あっれ、そういえば今日保体あったっけ? やばい体操着忘れたわ」

「ねね、放課後新しくできたドーナツの店行かない? 友だちが言ってたんだけど――」

「昨日十二時までアニメ見てたんだけどさ、やっぱり前話したアレが――」


 私は道の端っこを歩いている。その隣には、ずっと前から誰もいない。

 

 なんで私は、みんなのように今を楽しめないんだろう?

 

 それはずっと繰り返されてきた問いだ。

 

 私は心が弱い。

 自分の気持ちを強く伝えることができない。相手と意見をぶつけ合うことができない。

 嫌な気持ちをしていたとしても、相手が救われるならそれでいいと思う。

 それもある種の優しさなんじゃないだろうか。

 

 私が「選択」しなくなったのはいつからだっけ。

 環境が大きく変わる中学校に入ったとき? いや、そんな最近のことではない。

 小学校? もっと前?

 自分のことなのに、いつの間にか分からなくなってしまった。

 

 答えの出ない思考に行き詰まって、ふと顔を上げると、前方に私と同じように一人で歩く背中があった。

 

 茶色っぽい髪を後ろでひとつに結わえた、赤色の髪飾りが目立つ少女だ。

 私は彼女を知っていた。いまクラスで、隣の席同士だから。

 彼女はひとり座って俯いている私によく話しかけてくれる。初めて名前を呼ばれたときはかなり驚き、なんで私? と思ったが、お互いのことを伝え合ううちに彼女が打算でやってるんじゃないということに気づき、時々私から話しかけられるようになった。

 彼女との他愛ない会話は楽しい。言葉が弾んでいるというか、圧がないというか、とにかく嫌な気分にならないのだ。

 彼女との関係を友達と言えるのかは分からないけれど、そうだったらいい。

 

 そんなことを思える人は初めてだった。

 

 名前を呼ぼうと口を開いたが、しかし、声は出なかった。


「――」

「あーーっ、おはよー!」


 私の真横を、大きな声を上げ手を振りながら誰かが通り過ぎた。

 女子生徒は彼女のもとに駆け寄り、その背中に飛びついた。


「わっ!」

「ふふふー」


 振り返った彼女の目が見開かれ、その口は仕方がないと言うかのように緩む。


「もう、びっくりするじゃん! 朝から元気だねー」

「もちろんですとも。もうすぐ夏休みだよ〜!」


 二人になった彼女たちは、横に並んで歩き出した。

 立ち止まった私からみるみるうちに離れていく。


「あ……」


 彼女は後ろにいた私に気づかなかった。

 前へと伸ばした右手を行き場もなく漂わせ、だらんと下ろす。

 追いかけるという「選択」は、できなかった。

 

 私はいっつも……。

 

 心のなかでため息をつき、一つの影とともに歩き出した。


 


 数分歩くと、校舎が見えてきた。

 その白い壁面が太陽の光を跳ね返して眩しい。

 

 腕時計が指すのは八時二十分。あと十分で始業だ。

 いつもより時間がかかってしまった。このままでは遅れると思い足を速める。

 灰色の地面を見ながら歩いていると、突然視界に柱が現れた。


「っ!?」


 とっさに身を引いたため、頭を打ち付ける惨事にはならなかったが、驚きのあまり足がふらついた。

 見ると、眼の前に電柱がある。そこら辺に立っている普通の電柱だ。

 

 それだけでは、私が前を見ていなかったというだけで何も変なことはない。

 だがその光景は、あまりにも違和感があった。


「これ……道…………?」


 電柱が立っているところから、左へと細い道が別れていた。

 幅はひとりが通れるぐらいで狭い。両側の塀にはツタが這っており、地面からは大量の雑草が腰の高さまで伸びている。

 森に続いているのかと思える、緑の多い荒れた道だ。

 奥の方は生い茂る木々で塞がれ見えない。

 

 こんなところに、道があっただろうか……?

 

 毎日のようにここを通っているのだから、いくら細いとはいえ存在は知っているはずだ。

 目を細め訝しむが、校舎から予鈴の音が響き思考は中断された。

 不思議に思いながら、私は学校へと走った。



 


 担任のHRを聞き流し、窮屈な授業が始まる。

 一時間目は英語だった。


「それじゃあ、四人一組で班をつくってくださーい。〈アメリカの暮らし〉について調べて次回の授業で発表します」


 机を合わせ、教室がガヤガヤとなる。


「班長誰やる?」

「ほらお前やれよ」

「えー、めんどくせ。やってくんない?」

「わたし英語苦手なんだけど」

「俺も。お前しかいない、英語得意だろ」

「ちっ、わかったよ」

「四つあるけどどれ調べる?」

「俺は食事」

「うん、言うと思ったわ」

「教育ってなに調べりゃいいんだよ」

「日本との違いとか? 自分たちで掃除しないって言うし」

「へぇ、意外と面白そうじゃん。それにしよ」

「え、わたしやりたい」

「ならじゃんけんといこう」

「いや女子に譲れよ」

「じゃーんけーん……」

「ぽんっ!」

「っしゃー! ありがたくいただきますわ」

「くぅ、そしたらわたしは文化で」


 三人は次々に話を進め、ここにきて私を見た。女子が表情を変えて口を開く。


「残ったやつ歴史だけど、いい?」


 いい? って言われてもな。もはやそれは圧でしかないよ。

 歴史とか調べ出したらキリないでしょ。しかも英語にしたとき大変なことになる。そもそも興味ないし。

 心のなかではそう思っていたが、三人の視線に耐えられず、こう応えた。


「……うん、私は何でも大丈夫だよ」


 無理に笑ってみせながら。




 

 一時間目が終わって、以降の授業も憂鬱な気分でやり過ごした。

 四時間目終了のチャイムが鳴り、生徒たちは席から離れ各々の食事場所へ向かう。

 

 食堂や他クラスに行くものが多いが、私は人の少ないところで食べたくて、いつも空き教室を使っている。

 自分で作った弁当を抱え、人の流れに逆らって階段を登り、誰も使っていない暗い教室に着いた。

 鍵のかかっていないドアに手をかけ引こうとしたとき、


「きゃはははっ」


 と、複数の笑い声が中から聞こえ、体が強張った。

 音を立てないようにドアを五センチほど開く。

 

 果たしてそこには、三人の女子生徒がいた。

 椅子を集めて向かい合って座り、足に弁当を置いて談笑しながら箸を動かしている。

 私はすぐにドアを閉じ隠れた。

 こうなっては、もうこの場所は使えない。一年生のときに見つけて以来毎日使っていたこの教室は、もう他人に奪われてしまった。

 

 新しい場所を探さなくてはならない。並んだ他の三教室には鍵がかかっているので駄目だ。いったい私に、どこに行けと言うのか。

 

 いつかこんな日が来ると、薄々思っていた。

 

 気づかれぬよう足音を殺して階段を下っていく。

 話しかけて一緒に使うという「選択」は、やはりできなかった。



 校内のあちこちを彷徨った私は、最後、屋上に向かっていた。

 図書館も、テラスも、中庭も、誰かに使われていた。

 

 ここが無理ならもう行くあてはない。

 どこか祈るような気持ちで、私は屋上のドアを開けた。

 

 そこには――今までで一番多くの人がいた。

 

 あぁ……。

 

 私が落ち着けるところは、もうこの学校にはなかった。

 

 どこに行こう。このままでは昼食を食べられない。今日だけでなく、卒業までずっと。

 途方に暮れていたところ、誰かに肩を叩かれた。


「どうしたの、立ち止まっちゃって」


 それは隣の席の子だった。彼女は私が抱えるものを見ると、


「あれ、まだお弁当食べてないの? なんかあった?」

「あ……いや。ただ、食べる場所がなくて……」

「えぇ、そうだったの! じゃ、もしよかったら私達と一緒に食べようよ!」

「へ……?」

「だいじょーぶ、友達もいるけどみんな優しいから」


 彼女は嬉しそうに、私を誘った。

 それは渡りに船だったが、私の口から出たのは、


「い、いいよ、私がいたら話しづらいだろうし」


 という断りの言葉だった。

 すると彼女は一瞬目を見開き、両手を後ろに回して、すこし俯いて言った。


「えっと、一緒に食べるのが嫌だって言うならそれでいいんだけど……、わたしたちのために、遠慮してくれなくてもいいんだよ?」


 ――遠慮。

 その単語は、何故か私の耳に引っかかった。

 だが結局、長い沈黙の末に、


「いや、いいよ」


 と応えた。地面を見つめながら。


「……そっか」


 彼女は呟き、顔を上げてニッと笑った。


「いつか一緒にね」


 そのいつかは、どれくらい先になるのだろうか。


「それじゃあ」


 私に向けて手を振った。


「う、うん」


 笑いかけられた理由が分からぬまま、私は翻って階段を降り始めた。

 途中で彼女を振り返ると、屋上にいる友人らのもとに走りだしたところだった。

 

 教室へと戻る私の中では、同じ問いが繰り返されていた。

 

 ――あの「選択」は、本当に正しかったの?



 六時間目。

 最後は学活の授業だ。

 教壇に立った担任が、クラス全員の顔を見渡しながら大きな声で言う。


「えー、お前らが今年の春に三年生になって三か月が経った。夏休みに入ったら、勉強が本格的に始まるだろうし、進路も考え始めていると思う。そこで今日の学活では、自分のやりたいこととやるべきことについて考えてもらいたい。今からプリントを配るから、それぞれ書いてみてくれ」


 前の席から、進路希望と目標に関する調査と書かれたプリントが回ってきた。


『一、あなたは中学校卒業後、どのような進路を考えていますか』


 下には選択肢がある。国公私立高校、専門学校、就職、その他。

 シャーペンで一番左の『高校』に丸をつける。


『二、以下は高校進学を考えている生徒のみ回答してください。あなたは進学先の高校が決まっていますか?』


 一つではないが、ある程度は決まっている。『決まっている』に丸。


『三、あなたはどんな理由でその高校を選びましたか?』


 そこで手が止まる。


 私は別に、自分で高校を調べて面白そうだったから、と決めたわけじゃない。母親が進学実績やら教育課程やらを見て指定してきたのだ。そこに私の希望は存在していない。

 私の「選択」ではないから答えられない。別に行きたい高校があったわけじゃないからいいんだけど。


『四、あなたは高校で何をしたいですか?』


 やりたいことなんてない。

 今の私は、中学生という立場を社会的に与えられたから、それをこなしているだけだ。きっと高校に入っても変わらない。


『五、あなたが希望する進路に進むためには、何が必要ですか?』


 分からないよ。私の進路は私のものじゃない。母のものだ。母が望んだ私になるための道だ。


『六、あなたは将来、どのようなことをしたいですか? 大学や就職後など大きな視点で考えてください』


 もう全く分からなくて、私は手で目元を覆った。

 私が今まで進んできた道は、全て誰かが整えてくれたものだ。母や、父や、塾や学校の教師が。

 

 彼らが進む先を薦めてくるのは、私を思ってのことだ。勉強ができるわけじじゃない私をなるべく良い未来に送り出すために頑張ってくれているのだ。

 だからただの中学生でしかない私が中途半端な気持ちで反対したって無駄だし、なにより迷惑だろう。

 それに、私がこんなことをしてみたい、なんて言ったら彼らはきっと嫌な顔をする。そんな確信がある。

 私の背中を押してくれた人たちのために、これからも誰かが決めてくれたよりよい道を進まなければならない。

 そう頭では分かっているのに――なんで。


『七、あなたは今までの進み方に満足していますか?』


 なんで、涙がこぼれるの?


 視界が雫で歪み、滴った一滴の雫は私の文字を滲ませた。

 一瞬、その手を強く握りしめる。プリントがクシャッと折れた。

 

 そこにはまだいくつもの問いがある。


『あなたは今までに、進路のためにどのような努力をしましたか?』

『進路選びで迷うことはありますか?』


 分からない。知らない。答えなんてない。


『どのような校風の高校に行きたいですか?』

『高校に何を求めますか?』

『進学実績を重視しますか?』

『部活動に力を入れたいですか?』


 分からない、分からない、分からない。

 私はなにも分からない!

 

 きっと私は、このまま「選択」することを放棄し続ける。自分の未来を掴み取ることを諦め続ける。周りの言葉に流され続ける。

 この十三年間、ずっとそうだったから、私はもう「選択」できない。一生、他人が決めた道を進んでいく。

 

 私に未来を聞かないで。私の意思を問わないで。

 

 私に、「選択」させないで――。



『あなたはこれから、どのように生きていきたいですか?』



「……っ」


 ハッとする。

 私が、どのように生きたいか。

 そんなことを考えるのは初めてだ。


 「生きる」ってなんだろう。

 中学生的な悩みに思い当たる。

 

 もしかして、分からないのは私だけ? みんなはもう答えを見つけてるの?

 思考がぐるぐると回り始める。脳裏をいくつもの光景が流れていく。


 私をお姉ちゃんと呼んだ母の顔。

 私が道を譲った小学生の顔。

 空き教室にいた女子の顔。

 迷惑だからと、遠慮したときの彼女の顔。

 

 朝起きたときの暗い顔。

 話しかけようとして諦めたときの顔。

 笑いながら応えたときの顔。




 

 ――私には分かった。それだけが分かった。

 


 


 あぁ、「生きる」ことは、「選択」することなんだ。


 正解かどうかはやっぱり分からないけれど、自分だけの答え。見つけるのにずいぶん時間がかかってしまった。

 眼の前の黒い雲は去った。

 

 私はペンを動かす。




 七月十五日、火曜日。

 

 私は今日も学校へ行く。

 今朝、母に頼まれた家事は時間がかかりそうだったので、弟と二人でこなした。

 

 途中、初学生の集団とすれ違ったが、車道に飛び出すことはなく、立ち止まって道を譲った。一番端っこの子が、私に小さく頭を下げていた。


 私が歩いている学校までの大通りは、同じ学校の生徒で溢れている。

 その中に、隣の席の彼女を見つける。

 昨日の友達と、楽しそうに笑い声を上げている。

 だが私は臆することなく、怖がることなく彼女の元へと駆け寄る。


「ねぇ、お、おはよう」

「わ、お……おはよう!」


 彼女は笑顔で返した。


「この子……たしか同じクラスの……」

「そうそう、私の隣の席。名前覚えてないとかひどいよ!」

「いや、その……、ごめん。名前、教えてくれる?」

「あ、私は――」

「分かった、今まであんまり話したことなかったけど、これから仲良くしよっ」

「……うん!」

「うぅ……うぉぉう」

「えっ、ちょっとなんで泣いてるの……?」

「うんうん、私は嬉しいよ……、いつも机でひとりにしてたのに、話しかけてきてくれて」


 私ともう一人の女子は、顔を見合わせる。たちまち頬がゆるみ、声を上げて笑う。


「ふふっ、なんであんたが泣くのさ」

「私のこと気遣っててくれたの、優しい……」

「えー、なんで二人とも笑う! いいじゃない、なんか嬉しいの、こう、子どもを見守るお母さんみたいな気分で……」

「「お母さん……」」


 私は吹き出し、二人もあははと笑い出した。



 彼女たちと言葉をかわしながら歩いていると、ふと気づいた。

 別れ道がある。昨日電柱にぶつかりそうになったところだ。

 草が生い茂った見た目は何も変わっていない。

 私が立ち止まったのを見て、彼女が怪訝そうに声を掛ける。


「ど、どうしたの? 暑さにやられた?」

「いや今日の気温二十五度」


 二人の言葉は右から左へと流れた。

 何も応えず、私はただ道を見つめる。

 

 ――決めた。


「ごめん、ちょっと用ある!」

「え? ちょ、どこ行くの!?」

「用って今から!? 何すんの!?」


 二人をおいて、私は別れ道に走り込んだ。

 地面はコンクリートではなく土で、柔らかい感触が私を押し返す。

 長く伸びた草が私の両腕に触れる。

 数秒走ったところで息が上がったが、木々がつくる影の下に入ると、暑さが嘘のように霧散した。

 

 そこから先は、重なり合う木で太陽の光がほとんど遮られていて少し暗い。

 だが湿っぽさはなく、緑の香りが満ちており清々しい。

 

 静寂のなか、不意にザザーン……という波の音が聞こえた気がした。

 道の先は見えないが、引き寄せられるように私は奥へと走っていく。

 

 なんでこんなことをしているのか、自分でもよく分からない。

 確かなのは、何かに呼ばれた気がしたということだけだ。

 おそらくもうすぐチャイムが鳴る。このまま走っていけば、私は遅刻になるだろう。

 

 でも、私は足を止めない。

 

 別に遅刻したっていい。学校よりも大事な何かがあるのなら。それを見つけられそうなら。

 

 視界がひらけ、前にはきらきらと輝く一面の青が広がった。

 そこでようやく私は止まる。

 遠くからチャイムの音が響いた。

 だけど、聞こえない。聞こえているのは分かっているのに。

 私の耳には波の音だけが届いている。

 打ち寄せては引く、自由な波の音が。

 

 今日、初めての遅刻をしたけど、後悔はない。

 

 私は海に向かって叫びたかった。

 はっきりと、大きな声で、心からの言葉で。

 

 

 これが、私の『選択』だ――と。

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