第5話 令嬢の憂鬱 ③
目が覚めたベアトリスは、そおっと部屋の扉を開いた。変幻は解かれている。外に出ても大丈夫だ。ちょうど通りかかったメイドと目が合い、ベアトリスはぴくっと両肩を跳ねらせた。
「奥様、疲れはとれましたか?」
「え?……ええ……」
「旦那様はお出かけになりました。今日はゆっくり休んでくださいませ」
「そう……なの?」
ベアトリスは胸をなでおろす。アンソニーと会わずにいられるなら気楽だ。変幻に怯えなくてすむ。
「お食事は部屋にお持ちしましょうか?」
「え?……そうね」
「湯浴みをしたければ、お申しつけください。わたしたちがお手伝いをいたします」
にっこりと微笑んだメイドに、ベアトリスは首を横に振る。
「ひとりで、できるわ。……わたくし、公爵令嬢と言っても名ばかりだったから」
ベアトリスは小さく笑った。
「ひとりの方が気楽なの。手伝いはいらないわ」
「……そうですか。奥様のしたいようになさいませ」
「え……?」
横暴なことを言ったのに、メイドは満面の笑みになる。
「旦那様から、奥様の好きなようにするように言われています。ご用件があれば、いつでも言ってくださいませ」
メイドは頭を下げた。
ベアトリスはポカーンとする。
(……おかしいわ。屋敷の人、全員が優しい)
ベアトリスに対してそっけない態度ではない。むしろ、気を使われているようだ。アンソニーの命令だからだろうか。
(もしかしたら、アンソニー様は、わたくしを嫌ってくれたのかしら……?)
それは勘違いだったと、 ベアトリスが知るのは、3日後の朝だった。
部屋に引きこもっていたベアトリスだったが、3日経つ頃には、すっかり屋敷に慣れていた。思いのほか、メイドの対応が心地よかったのだ。彼女たちと話をしたくて、猫に変幻してもいいようにフリルのついたメイドキャップを被って、部屋の外に出るほどだ。アンソニーが不在だったこともあり、ベアトリスは肩の力を抜いて、屋敷内を歩き回っていた。
「奥様、朝食の用意ができました。ダイニングルームにお越しください」
「わかったわ」
食事はダイニングルームで食べることに慣れていた。今朝もいそいそとメイドキャップを被り、メイドの案内でダイニングルームに行く。
(今日のご飯は何かしら?)
にこにこ顔でダイニングルームにたどり着いたベアトリスだったが。
「おはよう、ヴィー。今日も君は愛らしいね」
これでもかというほど砂糖を言葉にまぶしたアンソニーがいた。
眩しい笑顔まで向けてきて、ベアトリスは硬直する。彼があまりに神々しくて意識が飛びそうだ。ベアトリスは気合いで口を引き結び、席についた。メイドが粛々と食事を運んでくれる。
「帰っていらしたのですね……」
「所用が終わったからな」
「……そうですか。ご苦労様です」
「労わってくれるのかい?」
「っ……お仕事されてきたら、当然のことですわ」
ツンと澄まして、アンソニーに言ったのは、頭がむずむずしてきたからだ。
ひげの前に、耳が出そうだ。
内心冷や汗をかきながら、ベアトリスはアンソニーに冷たい態度をとる。
「わたくしに気を使わなくて結構。ご機嫌とりなど必要ありませんわ」
「そうか? 君を見ていると愛しい気持ちがおさえきれないんだ。だから、口が勝手に思いを伝えてしまうんだよ」
掴んだフォークを落としそうになって、ベアトリスは慌てて姿勢を正す。
「……か、甘言など耳にいれたくありませんわ」
「そうか。なら、冷たくしようか?」
「……! えぇ、ぜひ、そうしてくださいまし」
嬉しくて彼の方を向くと、凍てつく瞳とぶつかった。ぞくぞくと寒気が背骨を伝う。アンソニーの視線で、心臓が貫かれるよう。
(なにこれ……さっきまでと全然違う……)
しばらく視線を交わしていたが、ベアトリスは耐えきれなくなり彼から顔をそむけた。震えた手でパンをちぎる。
目をそらしたというのに、ずっと監視されているような恐怖がこみあげた。
「あっ……」
ちぎったパンが手から滑り白い皿から落ちてしまう。無作法して落ち込んでいると、アンソニーの武骨な手がパンを拾った。
「新しいパンを」
「かしこまりました」
アンソニーがメイドに新しいパンを用意するように伝えた。
再び目が合ったとき、彼は柔らかくまなじりをさげた。穏やかな雰囲気にほっとする。
「ヴィー。冷たくするのは俺も耐えられない。やめよう?」
諭すように言われてしまった。正直言うと、とっても怖かった。
ベアトリスはしゅんとうなだれながら、こくりと頷く。
アンソニーは破顔して、ベアトリスを見た。
とくん、と心臓が弾み、ベアトリスの鼻がむずむずしだす。
はっとしてベアトリスは急いで食事をする。ナプキンで口を拭うと、席をたった。
「せっかくですが、パンはまた後でにしてください」
つかつかと歩きだすと、腕をとられ引き寄せられる。目の前に端正な顔があって、ベアトリスは硬直した。
「ヴィー。俺は君のことが知りたいんだ。君ともっと会話がしたい。どうすれば君は振り向いてくれるんだ?」
哀願する声に、ベアトリスは同様する。鼻がむずむずする。
「お離しくださいっ」
ベアトリスは腕を振り払おうとするが、すごい力で拘束されて振りほどけない。決して離すものかと腕を拘束するくせに視線は哀愁を帯びている。
ベアトリスは泣きたくなった。耳もむずむずする。
「お離しください……」
「嫌だ」
「離して……」
目を伏せてか細い声で言うと、そっと手が離される。解放されたことに驚き、彼を見てひゅっと息を飲んだ。
アンソニーはくつくつ喉を震わせて笑っていた。とても愉快そうに。
「俺をてこずらせて、困った子だ……」
近づく彼に目を見張る。
アンソニーの口元には微笑が浮かび、表情は穏やかだ。それなのに、なぜ頭で警笛が鳴るのだろう。
足が地面に縫い付けられたように動かない。真っ直ぐ射ぬいてくる双眸から目をそらせない。
こつり。
足音が止まり、アンソニーはにやりと笑った。ぞっとする。心臓が搾られるような感じがして呼吸がうまくできない。
「……ヴィー」
含みのある声で呼ばれ、体が震えた。彼の指先がベアトリスの頬のラインをなぞっていく。指が顔の形を覚えるように、ゆっくりと。
「ヴィー」
声が心を捕らえようとする。優しく甘く。身を任せたくなる音階。
ベアトリスは瞳を潤ませて、はっと短い息を吐いた。
「ヴィーは何色が好きなんだ?」
「え……?」
不意の質問の意図が分からなくて見上げると、アンソニーの指先はベアトリスの黒い髪の毛を弄んでいた。いつまでも待つような態度をされて、早々に観念する。
「ピンク色が好きですが……」
「ピンク色か。君らしい可愛い色だな」
ベアトリスは目を伏せた。
「二十四にもなって若い子の色を好むなんてはしたないですわ」
年相応のシックな色合いを好むべきだろう。でも、絵本で見た花嫁の姿が忘れられない。花嫁はピンク色を着て、幸せそうに微笑んでいたのだ。
「そんなことはない。きっと可愛らしい装いになる。今度、生地を選んでドレスを仕立てよう」
「え……?」
「ヴィーが好きな生地を選べばいい。どれを着ても君なら似合うだろうな」
アンソニーは愛しそうに微笑み、ベアトリスの髪の毛に口づけを落とす。
鼻がむずむずする。お尻も頭も。
ベアトリスはさっと扇子を取り出し、顔をそらした。
「……なぜ、そのようなことばかり……わたくしはアンソニー様がわかりかねますわ」
会ったばかりだというのに、なぜ彼はこんなことを。
ベアトリスが疑問を口にすると、彼はくくっと笑った。
「俺はヴィーを甘やかして、甘やかしたいだけなんだ。君には笑ってほしい」
そう言って、彼は口の中でほどけて甘い余韻を舌に残すお菓子のような笑顔を見せた。
鼻と頭とお尻がむずむずして、ぽんっとベアトリスの体は一部、黒猫になった。
メイドキャップの中では、耳が窮屈そうに動きたがっている。白いヒゲも扇子から、ちょっとはみ出ているかもしれない。尻尾はスカートを押し上げピンと張っていた。
(そんなことを言われたら……)
ベアトリスは顔を赤らめ、口をすぼめる。
答えに詰まっていると、アンソニーは嬉しそうに笑って小さく息を吐く。
「そろそろ仕事の時間だから行ってくる。早く帰ってくるから、待っててくれ」
無言でいると、アンソニーは柔らかく笑みを漏らして部屋から出ていってしまった。
部屋の扉が閉まるとベアトリスは腰から砕けて、座り込んでしまう。
どくどくと心臓は高鳴り、目をきつく結ぶ。
(そんなこと、おっしゃらないでください……お慕いしてしまいそうです……)
会ったばかりの人なのに。
そう思うのに、ベアトリスの心臓は早鐘を打っていた。
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