第4話 令嬢の憂鬱 ②

 ベアトリスは慌てて、アンソニーの手を払いのけ「気を使わなくて結構」と、言い切った。アンソニーの翡翠色の瞳が驚きで丸くなる。


(……ちょっと、冷たすぎたかしら……)


 罪悪感が胸に広がって、ベアトリスはうつむいた。


(傲慢な女だと思われたかしら……? でも、その方が、きっといいわよね。白い結婚になれば、変幻することも隠し通せるわ……)


 とにかくバレたくない一心で、嫌われたかったベアトリスだったが、彼女はアンソニーがただの色男ではないことを知らなかった。アンソニーの瞳が、意外なほど爛々と輝き出し、ベアトリスは仰天する。


(え? ……なに……?)


 背骨にぞわりと悪寒を感じて、ベアトリスは逃げ腰になる。

 アンソニーの形の良い唇が、ベアトリスの心を見透かしたように薄い笑みをいた。

 その瞬間、いばらに絡み取られたように体が動かなくなった。

 隙をつかれ、アンソニーはベアトリスの手の甲にキスを落とす。知らない唇の感触に驚いて、ベアトリスの鼻がむずむずしだす。


(へ……変幻しそう……)


 慌てて彼の手を振りほどいて、アンソニーと距離をとる。だが、アンソニーは気にしていない。むしろ、前より嬉しそうだ。


(なんなのこの人は……)


 すべての計算が狂ってしまい、ベアトリスは絶句していた。


「これからどうぞ宜しく、俺の奥様」


 妻として扱われ、いよいよ鼻がむずむずしだす。

 ベアトリスはとっさに彼から視線をそらし、スカートのポケットから扇子を取り出した。


(早く!  早くしないと!)


 慌てて扇子を開いた瞬間、ベアトリスの鼻がぽんっと黒くなる。ギリギリ間に合った。


 黒い鼻はひくひく動き、白く長いヒゲは張りつめていた。油断すると扇子からはみ出そうだ。

 楽しげに顔を近づけてくるアンソニーから逃げ、ベアトリスは彼を睨み付ける。


「わたくし、疲れておりますの。失礼いたします」

「そうですか。なら、部屋までお送りしましょう」

「結構です……使用人に聞きますから」


 ベアトリスの顔をアンソニーが覗きこむ。吐息がかかりそうなほど彼の顔が近づいてきた。


「俺たちは夫婦になるのですから、送らせてください」


 甘ったるく、扇情的に絡みついてくる声で囁かれた。お尻までむずむずしてくる。


(まずいわ……尻尾まで出てきそう……)


 ベアトリスは彼の肩を軽く押して、精一杯、冷ややかな視線を送る。


「気まぐれな優しさなどいりませんわ。わたくしのことは放っておいてください」


 ツンと澄ました態度をとったというのに、アンソニーの目が異様に煌めきだす。どこか恍惚とした瞳を見て、お尻のむずむずが酷くなる。


「つれないな……そこがまたいい」


 ぽそりと呟かれた言葉の意味を考えている間に、腰に手を回された。

 びくっと体を跳ねさせた瞬間、ぽんっと、ベアトリスのお尻から猫の尻尾がでてくる。

 尻尾がツンとスカートを持ち上げた。ベアトリスは冷や汗がとまらなくなる。


「……これは?」


 アンソニーが持ち上がったスカートに気づき、ベアトリスは気合いで尻尾をぴんと張った。


「……そ、その昔に流行りましたドレスのデザインなのです!  裾をお尻で持ち上げたら、スカートが短くなって歩きやすいんですのよ。そんなことも知らないのですか?」


 吐き捨てるように言うと、アンソニーはくくくっと喉の奥を震わせた。


「不勉強で申し訳ありません。このデザインいいですね。実に官能的だ」


 するっと背骨を撫でられ、尻尾が動きそうになる。ベアトリスの顔は真っ赤になり、今度は頭までむずむずしだす。


(耳だけはダメぇっ!)


 もう限界だ。ベアトリスのスカートの端を片手で持ち上げ、彼の腕の中からするりと抜け出す。見事なターンをしながら、アンソニーを睨んだ。


「いくら夫婦になるとはいえ、不躾な態度は好みではありません。ごきげんよう」


 そして、彼が追いかけてくる前に部屋を出た。歩いていた使用人に声をかけて、自分の部屋を尋ねるとハイヒールを鳴らしながらダッシュする。


(早く……早く……!  あぁ、もぉ!  ヒールが高いわ!  折ってしまいたいっ)


 誰もいないことを祈りながら、教えられた部屋の扉を開いた。


 バタン!


 扉を閉めた瞬間、ぽんっと猫耳が出てしまった。ベアトリスはひっと短い悲鳴をあげ、周囲を見渡した。


(誰もいない……)


 一気に力が抜けて、ベアトリスはその場にへたりこんだ。両手を床につけまま、瞠目する。ベアトリスの耳はぴんと立ち、白いヒゲは頬に張り付いている。スカートの中では尻尾が垂れていた。


「噂と全然、違うわ……どういうことなの……」


 氷どころか、アンソニーは砂糖水だった。しかも水は一滴、後は砂糖という配合だ。


 結婚を諦め、異性に耐性のないベアトリスにとっては、アンソニーのしぐさに心が乱されてしまう。なにより彼は声がいい。ずっと聞いていたくなる誘惑に満ちている。


(もう……なんでこうなったの……っ)


 ベアトリスは泣きそうだった。

 そろそろと動き、背中を扉につける。両膝を抱え、変幻が解かれるのをじっと待つ。


(なかなか元に戻らないわ……)


 ベアトリスはきょろきょろと部屋を見渡した。


(あ……あの籠……)


 大きな籠がある。体がすっぽり入れそうだ。ベアトリスはピンと耳を立てて、いそいそと籠の中に入った。腰を落とし、だらんと白いひげを下げ、体育座りをした。


「ここ、落ち着くわ……」


 公爵家に居た時も、自分専用のスペースがあった。よく父親と並んで、籠に入っていたものだ。

 ベアトリスはようやく落ち着いて、黄金の瞳を細くする。

 ちょっと、うとうとしてきた。


 ベアトリスは籠に入ったまま、目をつぶって寝てしまった。

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