第26話 傷を抉るモノ

「助け、助けてえっ!」


 こちらに誰かが走って来る。


 砂ぼこりで良く見えないが、長身の女のようだ。

 だがその後ろから追っているのは、大蛇のような姿をしていた。


 徐々にその化け物の全貌が明らかになって来る。


 ギラついた赤い瞳、鋭い牙、そして緋色の長い胴体。


 巨大なコブラのような見た目をしていた。


 クイーンコブラ、そうウィンドウに表示されている。


「なっ……!?」


 俺が驚いたのはその巨大さでも迫力でもなかった。


 そのレベルだ。俺やスミでは、とても相手にならないようなレベル。


 俺はともかく、いまや攻略ギルドの一員でもあるスミですら相手にならない。

 本来ボスは集団で戦うのが基本だ。


 だが人数がいればいいと言うものでもない。一人一人のレベルやスキルが無ければ、かえって足手まといになってしまう。


 スミは前線で戦うトッププレイヤーだ。つまり普通のプレイヤーよりもレベルは高く、強力なスキルもあるはずだ。


 だがきっと相手にならないだろう。それほどまでに歴然とした差があった。


 負けイベント。プレイヤー側が、負けることを前提として設定されてあるモンスターだ。


 戦えば死ぬ、ということだ。

 この化け物こそが、このフィールドがトラップである証拠になる。


「キラ君! 助けに行こう!」


 助ける? 無理だ。意味もなく死にに行くようなものだ。


 それにスミだって震えているじゃないか。本当は戦っても勝てない、助けられないと理解しているんじゃないのか?


「なんで脱出できないのよ!?」


 逃げている長身の髪の長い女の手には、レアアイテムである脱出のお札が握られていた。


 だが脱出のお札が、その効力を発揮する様子はない。


 その女のウィンドウをよく見てみると、スキルを使用するのに必要なMPが枯渇していた。


 基本的にMPはスキルを使用するときにしか使わない。


 だが一部アイテムはMPを消費して発動するものがある。脱出のお札もその一部アイテムの一つで、MPを消費して効果を発揮する。


 おそらく女は、クイーンコブラから逃げる道中にスキルを使い、MPを使い切ってしまったのだろう。


 仲間といたのか、それとも一人で落ちたのかは分からない。それでも今分かる情報では、彼女は一人で走って逃げている。


 もう少しすれば捕まってしまいそうだ。


「キラ君早く!」


 スミが俺の腕を引っ張る。その表情には焦りがにじみ出ていた。


 どうする? いや、無理だろ。普通に考えて、勝てない相手に突っ込んでいくのは自殺と変わりない。


 俺は完全無欠のヒーローじゃない。助けられない物ばかりだ。そしてそれはスミだって同じだ。無理なものは無理なんだ。


 それに、あの脱出のお札さえあれば、スミと一緒にこの場所から抜け出すことができる。


「キラ君……!?」


 気づけば、スミの手を掴んでいた。


 スミは目を大きく見開き、俺のしている行動が、理解できないというような表情をしている。


 俺は今から最低なことをする。


「ごめん、スミ」


 俺はスミの腕に、シビレダケの毒を塗ったナイフで切りつける。


 ダメージは大して与えられないが、スミに状態異常が付与される。ダメージを与えるのが目的じゃない、動けなくするための毒だ。


「何、を」


 痺れて動けない状態になったスミを抱える。


 俺はどうしようもなかった。もしかしたら助けられたかもしれない。もしかしたらどうにかできたかもしれない。


 そんな可能性をドブに捨てて、今みっともなく逃げている。

 ナイフを握って戦うことから逃げたのだ。


「何で? 何で!? 助けられるかも、しれないのに!」


 スミが暴れる。状態異常のはずのスミを抑えるのに、俺は必死だった。


 逃げている女の方を見ずに走り続ける。決して振り返らない。


 振り返ってしまえば、罪悪感に押しつぶされそうになってしまうだろうから。


「ああ……! あの人倒れて、ああ、噛まれた! もう動けなくなってる! 止めて、誰か止めてっ!」


 スミが叫ぶ。


 俺はできる事なら耳をふさぎたかった。全ての情報を遮断して、独りよがりの世界にこもってしまいたかった。


 すると途中から、次第に暴れるスミの力が弱くなっていった。


 完全にスミが暴れなくなったところで、ようやく俺は足を止めた。


 スミを下ろし、ゆっくりと後ろを振り返る。


 だがそこには何もなかった。


 クイーンコブラの巨体も、逃げ惑う女も、そこには一切何もなかった。ただ視界の悪いフィールドが、目に映っているだけだった。


 あの女がクイーンコブラを倒せるはずがない。


 ならば、あの女がどうなったのかなんて考えなくても分かってしまう。


 クイーンコブラは女を喰った後、俺たちを探しているのだろうか。トラップに引っかかったエサである俺たちを。


 スミとは目を合わせず、俺は引き返していった。


 もし女が死んだのなら、そのアイテムが周囲に散らばっているかもしれない。それを回収しに行く。


 見つからないかもしれないと思っていたが、案外それはすぐに見つかった。


 女の死体の傍には、アイテムが散乱してた。リスポーンが機能しないため、所持していたアイテムがあたりに散乱するのだ。


 女の死体は、下腹部が削り取られていた。


 脱出のお札を拾いあげる。相当強く握りしめられていたのか、しわしわになっていた。


 これで二人でこの場所から脱出することができる。


「キラ君」


 俺はビクッと体を震わせる。


 きっと幻滅されるだろうな。だがそうなっても仕方ないことをした。


 俺は知らない人を助けられる可能性よりも、知り合いの人を確実に助ける方法を選んだのだ。


 いや、もはやこれすらも言い訳になるのだろう。


 俺はただ怖かっただけだ。限りなく低い可能性に挑戦することを諦めただけだ。


 目の前が暗くなる。


「どうして逃げたの?」


 仕方ないだろ。勝てるわけ無かったんだ。


 それに俺やスミが戦ったって、無駄に死ぬだけだ。


 声が出ない。


「どうして逃げたの?」


 俺は結局、何も変わっていないんだ。


 レグが俺を庇って死んだ時から、根っこの部分は何も変わっていない。


 俺の目の前で、女の死体がこちらを見ている。

 その目に光は無い。


 空虚で真っ黒なその瞳が、俺を覗き込んでいた。


 途端に猛烈な吐き気が襲ってきた。


「うっぷ、う、おぇええ、ぉえあ」


 吐き気はあるのに、何も吐くことは無い。


 当たり前だ。食べ物も飲み物も、この世界のものはただのデータに過ぎない。実際に食べている訳でも飲んでいる訳でもない。


 だから嗚咽だけが身体の現象として現れる。


「俺は、誰かを犠牲にすることでしか誰かを助けられないんだ。俺は、誰かの犠牲の上に生かしてもらっているだけなんだッ!」


 気分が悪い。人を殺した。にした。


 最悪の気分だ。


「ごめん。私が冷静になれてなかった。勝てるわけもない敵と戦って、無駄死にするのを君が防いでくれた。今、ようやく頭が冷えてきた。あの場で誰よりも冷静だったのは君だよ」


 違うんだ。違うんだよ。


 俺は冷静にこの判断をした訳じゃないんだ。


 ただ、俺は戦って死ぬのが怖かったんだ。自分の命が惜しくなっただけなんだよ。


 だから俺を許さないでくれ。憎んで恨んで嫌ってくれ。


 優しさが、俺にとって一番傷を抉るものだった。


 静寂によって、徐々に実感が湧いてくる。

 俺はその時、初めて人を殺したのだということを。


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