思春期ブロッカー
バスケットボールでしっかり汗をかいたミグは、施設のシャワーでそれを流すとき、右膝に痛みを感じた。反射的に足を引かせたその傷は、どうやら試合の最中に出来た傷だった。
また傷つくっちまった。
特に感慨も無く痛みを堪えてシャワーを浴び終えたミグは、すぐに着替えて濡れた髪のまま体育館横の駐車場にとめてある自分の家の車に飛び乗った。
「ただいまー」
「ミグ、また怪我しているじゃないか」
元気に助手席に乗るミグの膝を見た父親は、見かねてダッシュボードから絆創膏を出す。
「へっへー、ありがとー」
「まったく……」
周囲を確認して車は走り出す。
「ミグ、スポーツは面白いか?」
「うん、体を動かすって気持ちいいからさ」
「そうか……」
郊外を抜けた車は繫華街へと入っていく。帰宅中の車で道は混んでいた。
「ミグ、そのままの方がいいか?」
「そのままって?」
「男の子たちと一緒にスポーツするのがだよ」
「うん、そっちの方が面白いね。女の子相手じゃ相手にならなくって。このままが面白いかなぁ」
街のディスプレイをぼんやりと眺めながら、今日のスポーツでの疲れを体から吐き出すように言った。
「そうか」
シャワーの水気とミグの熱気で曇り始めた車内のガラスが、うっすらと曇り始める。そのような中、ミグは小さく寝息を立て始めた。
そのミグを見て父親は嘆息する。
相談、するか……。
その日の夜、食事を終えたミグが寝静まった後、ミグの両親はダイニングテーブルで晩酌をしながら話し合っていた。
「ミグはどうやら今のまま、男性的でいたいようだ」
「そうですか。心配はしていたんですけどね」
小さいグラスに注がれたウイスキーを父親はストレートで口に含む。母親は少しだけ冷やしたエールビールを飲んでいた。
「近いうちに教師に相談に行こう。そのほうが良いかもしれない」
「ええ。その方が、あの子にとっても幸せでしょう」
三日後、面談の約束を取り付けて、ミグの両親は彼女の担当教師と話をする事になった。ただ複雑な問題だったので、教頭のランサーマルが立ち会う事になった。今は立派な飴色の皮のソファーに四人は腰を下ろしている。
「私は、この学校で教頭を請け負っております、ランサーマルと言います」
「教頭、こちらが先日お話ししたミグさんのご両親です」
三人は同時に頭を下げた。
「それで、話を伺いましたところ、お子さんは女性でありながら、男性でありたいと」
「はい。話をしましたが娘もそれを望んでいるようです」
「お子さんは確か十一歳だと伺いましたが」
「はい、十一になったばかりです」
「そうですね……」
顎を指で挟んでしばらく考えたランサーマルは、一つ頷く。
「それでは、思春期ブロッカー、GnRHアゴニストの投与をお勧めします」
「それはどのような治療ですか?」
ミグの母親が問う。
「第二次性徴を一時的に遅らせることが出来ます。そして本人がまだ男性的でいたい、という意思があれば性転換などを行うという手もあります。なにせ成熟してしまって性転換するより、体へのダメージは少ないでしょうから」
「そのような方法があるのですね……」
拳を口にもっていき、少し俯いて考えた父親は意を決した。
「わかりました、それでいきましょう」
「ただし、思春期ブロッカーの使用期間は、確か二年程が限度です。それまでにお子さんの性別を確定しましょう」
「ええ、わかりました」
両親は担任から出されたコーヒーを啜る。この後も少し詳しい話を聞き、彼らは帰りがけに病院の予約を入れた。
「電話でも話は伺いましたが、GnRHアゴニストの投与を、お子様になさりたいと」
奇しくもアールス病院のワイス・ラーズがミグの担当医となった。フーリエの祖父バングの担当でもある。
「はい、この子は男性的でありたいと言ってましたので、まだ選択の余地を残しておきたいのです」
診察椅子に座るミグの肩を母親は持つ。
ミグは何となくでしか話の内容が分からなかったが、母親が言っている事に間違いはないので首肯する。
「分かりました、お子さんも納得されているようですし、御両親の承諾のサインを頂いて早速、投与いたしましょう」
「はい、少々お待ちください。パートナーを呼んで参りますので」
そう言って母親は吊るし戸を引いて、ロビーで待っている父親を呼んだ。
「では、こちらの内容に同意していただき、サインをお願いいたします」
書類には数々の専門用語が羅列してあり、両親は細部まで把握出来なかったが、教頭から教えられた生半可な知識と絡み合わせサインした。
「了承しました。では少し検査をした後、投与いたしましょう」
その日、ミグは初めてのGnRHアゴニスト投与を行った。
ミグのGnRHアゴニスト投与から、およそ三ヶ月後。フーリエはアベイダと共にアールス病院に来ていた。そこのロビーで、たまたまGnRHアゴニストの追加投与の為に来ていたミグと会った。
「フーリエじゃん。あ、そちらはフーリエのお父さん?」
「あ、ミグ! うん、そう」
アベイダは爽やかな笑顔を見せる。
「初めまして。フーリエのお友達?」
「はい、ミグと言います」
ミグは小さく会釈し、フーリエの隣に座る。
「フーリエ、どうしたの? なにか調子悪いの?」
「ううん、おじいちゃんの診察の付き添い」
「おじいさん、体調悪いの?」
「うん、ちょっと悪いみたい」
まだ白血病の怖さを知らなかったフーリエだったが、両親から心配ない、と言われていたので、それを信じ込んでいた。
「ミグは?」
「うん、定期的な通院。このままでいたいって言ったから、この病院に通っているんだけど」
その言葉にアベイダは怪訝な顔を向ける。
「どんな薬を使っているんだい?」
「何とかアゴニストって薬です」
「アゴニスト……。それって多分、思春期ブロッカーってやつじゃないかな」
「ああ、なんかそう言ってました」
「そうか……」
顎に手をやったアベイダは、しばらく視線を落としてミグに告げる。
「今やっている投薬は、君の将来の事についてだから、よく考えて選択した方が良い。後で後悔することにならないように」
「あ、はい。何となく話は聞いてます。大丈夫です、多分」
「そうか、だと良いけど」
その時、C診察室からバングが出てきた。
「どうだった、おじいちゃん」
「うん、まあまあってところだ」
口調が父と娘が似ているところに、アベイダは思わず笑みをこぼした。
「フーリエのお友達かね」
「はい、ミグ・インガスといいます」
『ミグ・インガスさん、C診察室にお入りください』
医師からのアナウンスがロビーに響く。
「じゃあ行ってくる、またね」
「うん、また」
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