「ねえ、遊ばん?」

 山の中で声をかけられ振り向くと、自分と同じくらいの背丈の女の子が茂みの中に立っていた。浴衣姿のその子は笑顔で言った。

「遊ぼ?」

「あ……えっと、私」

 人見知りする私に、彼女はすっと手を差し出して「これあげる」と言った。

「え?」

 反射的に右手を出して受け取ると、手のひらには桃色の飴玉があった。

「食べりい。おいしいよ」

「あ、ありがとう……」

「あっちでさ、お祭りありよるんよ。一緒に行かん?」

 女の子が指差した方向は、鬱蒼とした森林だった。

「りんご飴とかイカ焼きもあってさ、金魚すくいもできるけん、楽しいよ。行こっ」

 そう言うと女の子は私の手を握った。

――お祭りかあ……だから浴衣着てるんだ。

 もらった飴玉を口に放り入れ、手を引かれるままついていくことにした。

 祭りのことを考えると凄くワクワクした。

 飴はとても不味かった。例えようもない変な味がした。だから口の中で溶かさず飲み込んだ。


「急ご。はよせなお祭り終わってしまうよ」

 彼女は迷うことなく山の中を進んでいく。ぐいぐいと引っ張られているうちに私はなんだか不安になってきた。

――どうしよう、行きたいけど怒られるかも。山には行っちゃいけないって言われてるのに……でも、村の子がお祭りがあるって言ってるし――この子、村の子……だよね……?

「あ、あのっ、お母さんが心配するから、暗くなる前には帰れるよね? 私、いい子にしてないと。お姉ちゃんになるの。お母さん、赤ちゃんが生まれるの。お母さんが帰ってくるまでに戻んなきゃ……」

「名前は?」

「え?」

「名前、何ていうん?」

「え、えーと……」

「さやこ」

 そうだ、さやこ。咲弥子さやこ。そう答えた。

「いい名前やね。お母さん、きっと優しいっちゃろうねえ」

 祖母や村の人と同じ方言は私を安心させた。ただ、ここにきてやっと違和感に気づいた。自分はウールのコートにマフラーを巻き、頭には毛糸の帽子、ムートンのブーツといった真冬の出で立ちなのに対して、彼女は薄い木綿の浴衣一枚だけしか着ておらず、裸足に草履なのだ。

「ね、寒くないの?」

 女の子は答えない。手を握ったまま進んでいく。

「お祭り、まだ着かないの?」

 答えない。歩いていく。

「あの……名前、何ていうの?」

 ここでぴたりと足を止めて彼女は振り返った。顔はさっき会った時と同じく笑顔だった。

「取り替えっこせん?」

「え?」

「さっき、飴あげたやろ? それと咲弥子のもん、取り替えっこ」

「私のものって?」

「名前とか着とるもん、それから……お母さんとか赤ちゃん、全部」

「え……?」

 ぞくりとして、彼女の手を振り払い後退あとずさりした。

「だめだよ、お母さんは私のお母さんだもん。名前も赤ちゃんも、だめだよ!」

「だめだめ!」

 そう叫んだ。

 手が伸びてきて咲弥子の頭を掴んだ。顔と顔が近づく。

「ちょうだい」

 彼女の目には光がなかった。

 白目部分まで真っ暗で、ぽっかりと穴が開いているように見えた。漆黒の闇が迫る。呑み込まれる、そう思った。

「ギッ」

 動物の鳴き声に似た悲鳴が聞こえた瞬間、私は気を失った。

「咲菜子、起きなさい」

 初めて聞く声だった。低いけれど耳に心地良い、優しい声――もう少しこの声を聞いていたい。そう思った私はわざと目を開けなかった。

「起きなさい」

「おーい、咲菜子」

「狸寝入りだろ、起きろ」

 何度か声をかけられたのち、パチンと頬をぶたれた。

「うぅ、痛い」

 目を開けると、若い男の顔が真上にあった。父よりも若い、だけど大人と呼ぶには少しあどけなさの残る青年だった。膝枕をした状態のまま、彼は言った。

「起きないから、ぶった」

 憮然としたその顔に私は釘付けになった。

 すっと通った鼻筋に涼し気な切れ長の目、薄い唇――端正な顔立ちの美青年だった。白筒袖に濃紺の袴を纏った彼は私を無言でみつめ返した。その双眸は金色だった。

「イケメンだ……!」

 好きな俳優がテレビに映る度に母が発する言葉が口から出た。

「なん……だって?」

「かっこいいって言ったんだよ」

――イケメンに会ったって言ったら、お母さん羨ましがるかな……あ、でもそしたら山に行ったことバレちゃうなあ。

 そんなことを考えながら起き上がった。

 そこは今にも倒れそうな木造の堂宇どううだった。

「何ここ。ボロっちいの」

 外に出て建物の周りをぐるりと一周してから、男に訊いた。

「ちっちゃい神社?」

「そんなにいいもんじゃないが、まあ、そんなところだ」

「お賽銭箱とか、おっきい鈴はないの?」

「ないよ。そんなものがあっても、ここには誰も来ない」

 五歳児の質問に淡々と答え、彼は再び私の顔を覗き込んできた。

「どこか痛いところはないか?」

「お兄さんがぶったとこが痛いよ」

「起きない咲菜子が悪いんだ。それ以外は?」

「どこも痛くない」

「……フム。それなら問題ないか……しかし、邪気が感じられる。から何かされなかったか?」

「あれって、あの浴衣の子? えーと、お祭り行こうって言われて……」

「それだけか? 何か受け取らなかっただろうな」

「飴くれたから食べた」

 その言葉に彼は眉間に皺を寄せた。

「なんと……咲菜子、お前は本当にあの家の血を引く者なのか? それにしてはうつけだなあ……」

「うつけって何、悪口? お兄さんイケメンだから許すけど、悪口は言ったらだめなんだよ。てゆーか、なんで咲菜子の名前知ってるの?」

 減らず口を叩く私の腹に、彼は突然拳を突き立てた。

「ぐっ。うえうっ、ぅおえええええ……!」

 思い切り嘔吐した。

「うっぷ、ぶああっ……わーっ!」

 酷いことをされたことよりも、自分の口から出てきたものに驚愕した。

 それまでも自分が吐いたものを見たことは何度かあったが、そのどれとも似ていなかった。

 大量の泥だった。酷い悪臭がした。

 信じられない思いで吐瀉物を見ていると、そこから何かが這い出してきた。

「わああっ、む、むむ、虫っ!」

 ぴょんぴょんと跳ねて逃げるそれは、茂みに向かっていた。しかし、姿を隠す前に男の足によって踏み潰された。

「うわぁ……」

 尻餅をついて竦み上がる私に、彼は右手の中指と人差し指を交差させニッと笑ってみせた。

「エンガチョ」

 彼は足を上げた。そこには何もなかった。

「消えちゃった……?」

 まるで手品のように、悪臭を放つ汚泥のような吐瀉物も正体のわからない虫も、煙のように消え去った。

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