「お、お兄さん、だあれ? 村の人?」

「私はこの山の神だよ。つがいに会えることを楽しみにこの地を守っている。会えて嬉しいが、少々早すぎたな。まさか深淵しんえんから手を出してくるとは……私の力が衰え始めているのかもしれない。すまないことをした」

 番も深淵も知らない言葉だったが、キリスト教の幼稚園に通っていた私には〝神〟はお馴染みのものだった。

「かみ? お兄さん、神様なの?」

 彼は頷き、言った。

「咲菜子、お前は私の番となるべくこの世に生を受けたのだよ。だが、まだ幼すぎるな。大人になるまで待つとしよう」

「ふーん……? クリスマスにはプレゼント贈ってくれる?」

「聞いているか? 大人になったら迎えに行く。それまでにたくさん学んで賢くおなり」

「学んで……? やだー、おべんきょ嫌〜い」

「じゃあ何が好きなのだ?」

「食べること! 私ねえ、好き嫌いないんだぁ。何でももりもり食べれるのは凄いことなんだよ。お母さんに褒めてもらえるよ」

「そうかそうか……では、たんと食べて大きくおなり」

「わかった。お兄さんは? 私が大人になるまで何して待つの?」

「神としての務めを果たすつもりだ」

「え、ここで? 一人ぼっちで?」

 幼い私の問いに彼は頷いた。

「寂しくないの?」

「……寂しいよ」

 ここで会話が途切れた。

 彼に手を引かれて、堂宇から少し歩いた。

「山には入るなと言われなかったか?」

「言われた。どーしよ、叱られる……」

「叱られないよ。みんな心配している。早くお帰り」

「道わかんない」

「大丈夫」

 彼は微笑んで私の頭を撫でた。

 父や母、祖母のように近しい者以外からそうされるのは苦手だったが、不思議と不快感や嫌悪感を感じなかった。なんとなく照れ臭くなり、私は別の話題を振った。

 「お兄さん、そんなカッコで寒くないの?」

 白い息を吐きながら見上げると、彼は静かに微笑んだだけで何も答えなかった。

 金の瞳が薄暗い森の中で煌めく様を、ずっと見ていたい。そう思った。

――本当にキレイな人だ……。

 見惚れる私の傍らで、彼はそこにあった木から葉を一枚取り息を吹きかけた。すると、ザアッと強い風が吹き抜けた。葉は矢のように飛んでいき、そこに道ができた。雪が舞い上がってキラキラと輝いて、とても幻想的だった。

「ここから真っ直ぐ進むと村に戻れる。もう来たらだめだぞ。ここでなくとも、深淵はいつもお前のすぐ近くにある。安易にけがれに近づくのはやめなさい。ケガレ……咲菜子にわかるかな」

 言葉の意味はよくわからなかったが、良くないものを指していることはわかった。

――きっと、あの女の子のことだ。

「あの子、私のものをちょうだいって言ってた。飴と取り替えっこだって。でもさ、名前とかお母さんとか赤ちゃんとか……無理ばっか言うんだよ。だから、だめって言ったの。怒ってるかな……」

「咲菜子は大丈夫だ。とにかく今は帰りなさい。あまりここに長居すべきじゃない」

 さあ帰れと促し、金目の青年は最後にこう言った。

「フミナによろしくな」

「え、フミナって……ねえ、また会える?」

 彼は答えず、ただ微笑んだ。どこか寂しげなその笑顔を見て、なぜかとても悲しくなった。

 涙の雫が地面に落ちる前に、私はまた意識を失った。



 気がつくと、私は田んぼの真ん中に突っ立っていた。

 大勢が自分を呼ぶ声があちらこちらから聞こえてきたので「ここだよお」と返事をすると、村の大人達が喫驚と歓喜の声を上げながら駆け寄ってきた。

「良かった、本当に良かった……! 三日もどこに行っとったとね」

 祖母が一番に私を抱き締めてくれた。

「みっか……?」

「咲菜ちゃん、ごめんねえ……庭でコロと遊んどると思っとったとよ。お昼ご飯ができたけん呼びに行ったら、おらんごとなっとって……」

「まさか、裏の山には、山には行っとらんやろうね?」

 祖母の弟夫婦に交互に訊ねられ、私はまごついた。

「ご、ごめんなさい」

 途端、大人達の顔色が変わった。

「やけん、目ば離したらいかんて言うたやろうが!」

「あんたも同じやろうもん!」

 罵り合いを始めた弟夫婦を祖母が制止した。その顔は険しかったものの、声は落ち着いていた。

「他には? 怒らんけん、何があったか正直に言うてんしゃい」

「あ、ええと……女の子が、お祭り行こうって……でも、男の人が助けてくれたの。目が金色のイケメンさん。フミナによろしくって」

 それを聞いた祖母は一瞬はっと目を見開き、大きく息を吐いた。

 周りの村人達は一様に顔を引き攣らせ「こりゃ神隠しばい」「あの山に棲んどっとは人喰い鬼ばい」「ケガレばもらってきとるっちゃなかかね」「だけん山には入られんごとしとかないかんって……」と口々に私には理解できないことを言った。

 自分が何かとてつもないことをしでかした気がして、私は必死に謝った。

「おばあちゃん、ごめんなさい。もう二度としない。山にはもう行かないから、許して」

「いいんよ、咲菜子。ばあちゃんこそごめんね」

 叱られると思っていたのに、祖母は優しく抱き締めてくれた。

「お父さんとお母さんに言う?」

「言わんよ。言わんけん、安心しんしゃい」

 そこに祖母の弟が鳴動する携帯電話を持ってきた。

「フミナ姉ちゃん、電話……岳英たけひでくんから」

 岳英は父の名前だ。

 祖母が「もしもし」と応答した時、強い風が吹いた。何と言っているか聞き取れなかった。しかし、その表情から良くない報せだとわかった。

 その日、私は母と弟を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る