4 山の怪②
母と別れた数時間後、咲菜子は村を囲むようにそびえ立つ山の一角にいた。
あの会話の後、咲希の体調が急変したのだ。村の産科で診てもらったが、彼女はそのまま大きな病院に搬送された。まだ幼かった咲菜子に状況は理解できず、赤ちゃんが生まれそうだから病院に行ったのだと思っていた。母子共に危険な状態だとは夢にも思わず、赤ちゃんに会えるんだと胸を弾ませていた。
父が駆けつけることになったが到着までは祖母が病院で付き添うことになり、咲菜子は祖母の弟夫婦に預けられた。
その二人が目を離した隙に、山に入った。
庭で飼い犬のコロと戯れていると、ピンク色のゴムボールが目の前を横切ったのだ。誰かがついているわけでもないのにポンポンと弾みながら、ボールは庭から出て行ってしまった。
閉められていた庭木戸が開いていたことも、ボールが山道を下から上へ移動する不自然さも、村にボールで遊ぶような年齢の子どもがいないことも、コロが低い声で唸り震えていることも、五歳の少女には気にならなかった。引き寄せられるようにボールを追いかけて、気がつくと山に足を踏み入れてしまっていた。
集落の裏手には、人の手が入っていない自然そのままの森林が存在していた。
静かで人の気配がしない、昼間なのに薄暗い場所だった。子ども心になんとなく怖いと感じて引き返そうとした。その時にそれが現れたのだ。
「ねえ、遊ばん?」
山の中で声をかけられ振り向くと、自分と同じくらいの背丈の女の子が茂みの中に立っていた。浴衣姿のその子は笑顔で言った。
「遊ぼ?」
「あ……えっと、私」
人見知りする咲菜子に、彼女はすっと手を差し出して「これあげる」と言った。
「え?」
反射的に右手を出して受け取ると、手のひらには桃色の飴玉があった。
「食べりい。おいしいよ」
「あ、ありがとう……」
「あっちでさ、お祭りありよるんよ。一緒に行かん?」
女の子が指差した方向は、鬱蒼とした森林だった。
「りんご飴とかイカ焼きもあってさ、金魚すくいもできるけん、楽しいよ。行こっ」
そう言うと女の子は咲菜子の左手を握った。
――お祭りかあ……だから浴衣着てるんだ。
もらった飴玉を口に放り入れ、手を引かれるままついていくことにした。その子が話す祭りの様子はとても魅力的だった。
飴の味は、とても不味かった。なんだか泥を食べているような、変な味がした。だから口の中で溶かさず飲み込んだ。
*
「急ご。
彼女は迷うことなく山の中を進んでいく。
――どうしよう、怒られる。行っちゃいけないとこだし……でも、村の子がお祭りがあるって言ってるし――この子、村の子、だよね……?
「あ、あのっ、お母さんが心配するから、暗くなる前には帰れるよね? 咲菜、いい子にしてないと。お姉ちゃんになるの。お母さん、赤ちゃんが生まれるの。お母さんが帰ってくるまでに戻んなきゃ……」
「サナっていうん?」
「え、えーと……うん」
「いい名前やね、サナ。お母さん、きっと優しいっちゃろうねえ」
祖母や村の人と同じ方言は咲菜子を安心させた。ただ、ここにきてやっと違和感に気づいた。自分はダウンジャケットにニット帽、ムートンのブーツといった真冬の出で立ちなのに対して、彼女は薄い木綿の浴衣一枚だけしか着ておらず、裸足に草履なのだ。
「ね、寒くないの?」
女の子は答えない。手を握ったまま進んでいく。
「お祭り、まだ着かないの?」
答えない。歩いていく。
「あの……名前、何ていうの?」
ここでぴたりと足を止めて彼女は振り返った。顔はさっき会った時と同じく笑顔だった。
「取り替えっこせん?」
「え?」
「さっき、飴あげたやろ? それとサナのもん、取り替えっこ」
「私のものって?」
「名前とか着とるもん、それから……お母さんとか赤ちゃん、全部」
「え……?」
ぞくりとして、彼女の手を振り払い
「だめだよ、お母さんは咲菜のお母さんだもん。名前だって、赤ちゃんも、だめだよ!」
手が伸びてきて咲菜子の頭を掴んだ。顔と顔が近づく。
「ちょうだい」
彼女の目には光がなかった。
白目部分まで真っ暗で、ぽっかりと穴が開いているように見えた。漆黒の闇が迫る。呑み込まれる、そう思った。
「ギッ」
動物の鳴き声に似た悲鳴が聞こえた瞬間、咲菜子は気を失った。
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