5 山の怪③

「咲菜子、起きなさい」

 初めて聞く声だった。低いけれど耳に心地良い、優しい声――もう少しこの声を聞いていたい。そう思った咲菜子はわざと目を開けなかった。

「起きなさい」

「おーい、咲菜子」

「狸寝入りだろ、起きろ」

 何度か声をかけられたのち、パチンと頬をぶたれた。

「うぅ、痛い」

 目を開けると、若い男の顔が真上にあった。父よりも若い、だけど大人と呼ぶには少しあどけなさの残る青年だった。膝枕をした状態のまま、彼は言った。

「起きないから、ぶった」

 憮然としたその顔に咲菜子は釘付けになった。

 すっと通った鼻筋に涼し気な切れ長の目、薄い唇――端正な顔立ちの美青年だった。白筒袖に濃紺の袴を纏った彼は、咲菜子を無言でみつめ返した。その双眸は金色だった。

「イケメンだ……!」

 好きな俳優がテレビに映る度に母が発する言葉が口から出た。

「なん……だって?」

「かっこいいって言ったんだよ」

――イケメンに会ったって言ったら、お母さん羨ましがるかな……あ、でもそしたら山に行ったことバレちゃう。

 そんなことを考えながら起き上がった。

 咲菜子とイケメンの彼がいたのは、今にも倒れそうな木造の堂宇どううだった。外に出て建物の周りをぐるりと一周してから咲菜子は男に訊いた。

「何、ここ。ちっちゃい神社?」

「そんなにいいもんじゃないが、まあ、そんなところだ」

「お賽銭箱とか、おっきい鈴はないの?」

「ないよ。そんなものがあっても、ここには誰も来ない」

「じゃあ、倉庫とか物置? でも、中には何にもないね」

「ああ、そうだな」

 五歳児の質問に淡々と答え、彼は再び咲菜子の顔を覗き込んできた。

「どこか痛いところはないか?」

「お兄さんがぶったとこが痛いよう」

「起きない咲菜子が悪いんだ。それ以外は?」

「どこも痛くない」

「……フム。それなら問題ないか……しかし、邪気が感じられる。から何かされなかったか?」

「あれって、あの浴衣の子? えーと、お祭り行こうって言われて……」

「それだけか? 何か受け取らなかっただろうな」

「飴くれたから食べた」

 その言葉に彼は眉間に皺を寄せた。

「なんと……咲菜子、君は本当に彼女の血を引く者なのか? それにしてはうつけだなあ……」

「うつけって何、悪口? お兄さんイケメンだから許すけど、悪口は言ったらだめなんだよ。てゆーか、なんで咲菜子の名前知ってるの?」

 減らず口を叩く咲菜子の腹に、彼は突然拳を突き立てた。

「ぐっ。うえうっ、ぅおえええええ……!」

 咲菜子は嘔吐した。

「うっぷ、ぶああっ……わーっ!」

 酷いことをされたことよりも、自分の口から出てきたものに驚愕した。

 それまでも自分が吐いたものを見たことは何度かあったが、そのどれとも似ていなかった。

 大量の泥だった。酷い悪臭がした。

 信じられない思いで吐瀉物を見ていると、そこから何かが這い出してきた。

「わああっ、む、むむ、虫っ!」

 ぴょんぴょんと跳ねて逃げるそれは、茂みに向かっていた。しかし、姿を隠す前に男の足によって踏み潰された。

「うわぁ……」

 尻餅をついて竦み上がる咲菜子に、彼は右手の中指と人差し指を交差させニッと笑ってみせた。

「エンガチョ」

 彼は足を上げたが、そこには何もなかった。

「消えちゃった……?」

 まるで手品のように、悪臭を放つ汚泥のような吐瀉物も正体のわからない虫も、煙のように消え去った。

「お、お兄さん、だあれ? 村の人?」

「……今は違う」

「前はそうだったってこと?」

「うーん……まあ、昔な。なりそこなったが」

 昔、という言葉はそぐわない気がした。彼は大人ではあるがとても若かった。

「山には入るなと言われなかったか?」

「言われた。どーしよ、叱られる……」

「叱られないよ。みんな心配している。早くお帰り」

「道わかんない」

「大丈夫」

 彼は咲菜子の手を引いて堂宇から少し歩いた。

「その首飾り、咲希さきのものだろう?」

「え。う、うん。もらったの」

 咲希は母の名前だ。

「山の神様がくれたんだって、これからは咲菜を守ってくれるって、お母さんが……」

 その話を聞いて彼は一瞬険しい表情を見せたが、すぐに笑顔に戻り「そうか」と言って咲菜子の頭を撫でた。

 父や母、祖母のように近しいもの以外からそうされるのは苦手な咲菜子だったが、不思議と不快感や嫌悪感を感じなかった。なんとなく照れ臭くなり、咲菜子は別の話題を振った。

 「お兄さん、そんなカッコで寒くないの?」

 白い息を吐きながら見上げると、彼は静かに微笑んだだけで何も答えなかった。

 金の瞳が薄暗い森の中で煌めく様を、ずっと見ていたい。咲菜子は思った。

――本当にキレイな人だ……。

 見惚れる咲菜子の傍らで、彼はそこにあった木から葉を一枚取り息を吹きかけた。すると、ザアッと強い風が吹き抜けた。葉は矢のように飛んでいき、そこに道ができた。咲菜子は手品か魔法でも見たように目を丸くした。

「ここから真っ直ぐ進むと村に戻れる。もう来たらだめだぞ。けがれに近づくのはやめなさい。ケガレ……咲菜子にわかるかな」

 言葉の意味はよくわからなかったが、良くないものを指していることはわかった。

――きっと、あの浴衣の女の子のことだ。

「あの子、私のものをちょうだいって言ってた。飴と取り替えっこだって。でもさ、名前とかお母さんとか赤ちゃんとか……無理ばっか言うんだよ。だから、だめって言ったの。怒ってるかな……」

「咲菜子は大丈夫だ。憑いていた悪いものは俺が取り除いたからな。それより……いや、とにかく今は帰りなさい。あまりここに長居すべきじゃない」

 さあ帰れと促す彼に「お兄さんは、ずっとここにいるの?」と訊くと、金目の青年は頷いた。

「フミナによろしくな」

「え、フミナって……ねえ、また会える?」

 彼は答えず、ただ微笑んだ。どこか寂しげなその笑顔を見た咲菜子はなぜかとても悲しくなった。

 涙の雫が地面に落ちる前に、咲菜子はまた意識を失った。

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