アパートから出るとすぐ、昨日現れた黒いモヤモヤの霊体がいた。

「お…………ちゃ……」

 たくさんの人間や動物の声が入り混じった奇妙な声で何か言いながら、それは近づいてきた。

「いやっ」

 思わず悲鳴を上げ、私は駆け出した。

 しばらく走って振り返り、モヤモヤが追ってきていないことを確認して、喫茶店へ入った。


「やっぱり来たね」

 思ったとおり、私のお気に入りの席に座った彼が笑顔で出迎えた。いつから待っていたのか彼の手元には空になったコーヒーカップがある。

「訊きたいことがあるって顔をしているな」

「……山程ね。ちょっと待ってて」

 コーヒーを二つ注文して戻り、勧められるまま彼の隣の席に座った。

「やあ、ありがとう。コーヒーには昔から目がなくてね。といっても、最初はカッコつけて飲んでいただけなんだが」

 彼は淹れたてのコーヒーに感嘆の声を上げ無邪気に笑った。

 〝昔〟という言葉は、なんだかそぐわない気がする。彼はとても若く見える。少なくとも二十代だと思う。しかしそれでは計算が合わない。

「まず教えてほしいのは、あなたがどこの誰かってこと」

 おいしそうにコーヒーを啜る彼はやはり、五歳の時に山で私を助け、神を名乗った人物そのものだ。だけどおかしい。彼、年を取っていない。十五年前も彼は今と同じ二十歳そこそこの青年だった。瓜二つの親子という線も考えてみたけれど、そういうレベルじゃない。五歳の時の記憶だとしても、全くの同一人物にしか見えないのだ。見た目の問題だけではない。彼はあの時の人だ――そう感じる。

「……山での出来事は全部思い出したのかい?」

 カップに口をつけたまま、彼は視線を私に移した。その瞳は十五年前に見たものと同じ、金色だ。

「え、と……言いつけを破って立ち入り禁止の山に入った。そして冬なのに浴衣姿の女の子にお祭りに誘われてついていってしまって……その後のことはよくわからない。気がつくとぼろぼろのお堂にあなたといた。それで、あなたが村に帰してくれた。違う?」

「……概ね合ってるよ」

 カップに残ったコーヒーをみつめながら物憂げに彼は言った。状況が違えば写真に撮って後で見返したいくらい、彼は綺麗だ。浮かない顔をしていても美しい人は美しい――なんだか不公平だと思った。

「概ねって? 私は自分の身に起きたことは全て知りたい。あの後、霊が見えたり声が聞こえるようになったの。原因は、浴衣の女の子? あれは悪霊とか怨霊だったの? それとも、自分のこと神様だっていうあなたのせい?」

 店内にいる人に聞こえないように小声で詰め寄る私に彼は「全て知りたい?」と眉を動かした。

「君が望むなら教えるよ。俺は、今のままでいいと思っていた。咲菜子は何も知らずに普通の人間として生きて、寿命を全うして死ぬのがいいと」

「何それ……意味がわからない。何も知らずにってどういうこと? それに、あの時あなたは私が大人になるまで待つ、迎えに行くって言ったのよ。あれはどういうつもりだったの?」

「言ったとおり、迎えに来たよ。俺は約束を守る男なんだ」

 もう一つ疑問が湧いた。

「あなた、違う。だって、十五年前に山で会った人は自分のこと〝私〟って言ってたもの。あなたは〝俺〟って言ってる」

「ああ……たしかにあの時とは多少違う人格になってるかもしれん。以前会った時は今よりも神っぽかっただろう? だから、ああいう芸当もできたんだよなあ」

「神っぽ……芸当?」

 わけのわからないことばかり言うこの人物が途端に詐欺師か何かに思えてきた。

「もういい、あなたが誰でも気にしない。十五年前のことはおばあちゃんに訊けばわかるもの」

 そう言いながら私は席を立った。

「咲菜子?」

 驚いて伸ばした彼の手を振り払い、私は声を低くして言った。

「何が目的か知らないけど、私に関わらない方がいいよ。私は周りの人を不幸にするメンヘラ女なの」

「めんへらって何だ? 咲菜子、自分に起こったことを全部知りたいんだろう? 君が望むなら教える。ただ、それによって君はきっと傷つく。俺はそれが怖いんだ」

「怖くなんか――」

 言葉の途中で、私は息を呑んだ。視線を感じて目をやると、店の窓ガラスに映る自分だったのだ。ただ、それは私ではない。私の姿をした別人だ。震える私に〝私〟がにっこりと笑う。

「久しぶり、咲菜子」

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