【2】深淵から来た男

 十五年前の冬、私は母方の実家に滞在していた。母の里帰り出産のためだった。

 祖母の家は九州の山間やまあいにある小さな村にあった。年寄りばかりの限界集落だった。

 祖母は団子屋を経営しており、店ではこし餡入りの白玉団子〝白珪はっけいさま〟が人気だった。遠方から買いに来る客もいたようだ。村の人々はなぜか彼女のことをひい様と呼んでいた。なんでも、母方の先祖は神通力を持つ血筋で幾度となく災厄から村を救ったのだそうだが、祖母はごく普通の老人だった。私にとっては会う度に可愛がってくれる優しいおばあちゃん――それだけだった。

 祖母の家はやたら広く、泊まりに来てすぐは家の中を探検するのに夢中になっていたがそれにも飽きて集落を歩き回るのが私の日課となった。澄んだ小川に住む名前も知らない魚達、川に架かる石の橋、背の高い草、不思議な声で鳴く虫達――ビルの建ち並ぶで都会で暮らしていた私には全てが新鮮で面白く感じられた。

 村の人達は私を見かけると手を合わせて拝むような仕草を見せた。あまり居心地の良いものではなかった。

「気にしなくていいよ。ここの村の人にとっておばあちゃんは神様みたいなもんだから、孫のあなた達のこともそう思ってるだけ。お母さんも昔はああいう目で見られたのよ。霊力がまるでないってわかってからは普通になったけど」

 大きなお腹を撫でながら母の咲希さきが言った。

「れーりょく? それがあったら私もお姫様になれるの?」

「お姫様っていっても、アニメのプリンセスとは違うのよ。可愛いユニフォームは着ないし、戦う相手だって怨霊とか悪霊とか……夜中におトイレ行くのだって一人じゃ行けないのに、お化けの相手なんか無理でしょ」

「うーん……たしかにお化けはヤダなあ」

「普通が一番なのよ」

「ふうん……?」

 まもなく生まれてくる弟がいる母のお腹に頬ずりをして、私は目を閉じた。

「あー、早く赤ちゃんに会いたいなあ。私、いいお姉ちゃんになる。普通よりもいいお姉ちゃんだよ」

「フフ、あなた達ならきっとすごくいいお姉ちゃんになるわね」

 母は目を細めて頭を撫でてくれた。

「さ、遊んでおいで。山には行っちゃだめだからね。離れないでね、危ないから」

「うん!」

 それが母と交わした最後の会話になった。


 母と別れた後、私は村を囲むようにそびえ立つ山々の一角にいた。

 あの会話の後、母は体調が急変し、村の産科から大きな病院に搬送された。まだ幼かった私に状況は理解できず、赤ちゃんが生まれそうだから病院に行ったのだと思っていた。母子共に危険な状態だとは夢にも思わず、赤ちゃんに会えるんだと胸を弾ませていた。

 父が駆けつけることになったが到着までは祖母が病院で付き添うことになり、私は祖母の弟夫婦に預けられた。

 その二人が目を離した隙に、山に入った。

 庭で飼い犬のコロと戯れていると、ピンク色のゴムボールが目の前を横切ったのだ。誰かがついているわけでもないのにポンポンと弾みながら、ボールは庭から出て行ってしまった。

 閉まっていた庭木戸が開いていたこと、ボールが山道を下から上へ移動する不自然さ、村にボールで遊ぶような年齢の子どもがいないこと、コロが低い声で唸っていたこと、今思えば異常を知らせるサインはいくつもあったのだが、私は引き寄せられるようにボールを追いかけて、気がつくと山に足を踏み入れてしまっていた。

 集落の裏手には、人の手が入っていない自然そのままの森林が存在していた。

 静かで人の気配がしない、冬とはいえ朝なのに薄暗い場所だった。子ども心になんとなく怖いと感じて引き返そうとした。その時は現れた。

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