今日は帰り道にある喫茶店に寄ることにした。失職したことも新興宗教の勧誘がしつこかったことも若くして亡くなった可哀相な女の子のことも頭から追い出して、香り高いコーヒーから立ち上がる湯気を眺め何も考えずにぼーっとしたい。

 私はいつもカウンター席の一番端に座ることにしている。大抵の店のカウンターは一人当たりのスペースが狭く窮屈だが、この店はゆったりと空間を保ってあるため他人と肩と肩が触れたり目が合って気まずい思いをすることがない。ここで頭を空っぽにしてコーヒーを飲むのが私のお気に入りの時間なのだ。

「あ……」

 いつものコーヒーと日替わりのケーキを注文して意気揚々と席へと向かったが、目当ての席には

先客がいた。この店に通い始めてもう半年になるけれど、初めて見る男性客だった。

 座っていてもわかるスタイルの良さについ釘付けになる。シンプルな

 すらりと長い脚はシューズのつま先まで美しい。横顔の額から鼻筋のラインが美しい。緩やかなウェーブのかかった黒髪もまた艷やかで美しい。残念なのは、少し長い前髪で目の部分が隠れてしまっていることだ。瞳もきっと美しいはずだ。

 いや待って。私、この数秒間に何回美しいって思った?

 苦笑しながら別の席に座った。

 あの席に座れないのは残念だけどイケメン拝めたし、ま、いっか。

 しかしこの男性、綺麗すぎてなんだか違和感があった。

 無機――生命を有さない、陶器の置き物だとか絵画のような印象を覚えたのだ。

 まるで、幽霊……みたいな。

 でもまあ、イケメンだからいっか。実際のところ、生きていようがいまいが関わらなければ問題はない。

 のんきにコーヒーから立ち上がる湯気を吸い込み香りを楽しんで、一口目を口に含んだ。いつもと同じ、おいしいコーヒーに安心する。次はケーキだ。今日のケーキはオレンジピール入りのパウンドケーキだ。甘酸っぱいオレンジの香りが鼻孔びこうをくすぐる。口に運ぶとしっとりとした優しい甘さが口内に広がる。

「んー……おいし」

 思わず声に出してしまう。

 幸せだ。霊が見えたって彼らの声が聞こえたって、この時間が私を癒してくれる。

 そんなささやかな幸せを噛み締めているところに、またも霊は現れた。

「はあ……」

 一言に霊といっても、それぞれ違う。声だけで姿が見えない霊、生きているように見える霊、死んだ時の状態を留めている霊――十人十色というのだろうか、本当、いろんな霊がいる。

 今ここに現れたのは黒いきりもやのように漂う、形のあやふやなものだった。

 残留思念っていうのかな。強い気持ちの残滓ざんしが、消えずに漂っている感じ。

 私はいつものように無視することにして、目を逸らした。霊になんか邪魔されたくなかった。

 だけど、うまくやり過ごせなかった。

 急に耳鳴りがしてきた。カップを持つ手が震える。冷や汗とも脂汗ともつかぬものが背筋を伝い、指先から体が冷えていくのがわかる。

 モヤモヤした霊体は何もしてこない。曖昧な輪郭で目も口もないのに、こっちを見てる。笑ってる……そう感じた。

 落ち着こう、落ち着こうと自分に言い聞かせても、動悸と息苦しさが襲う。

――たすけて、誰か。

 耳に水が入った時のような閉塞感に苛まれていると、耳元で誰かが囁いた。

「息をして」

「え……?」

 涙目のまま振り返ると、傍らに一人の男性が立っていた。私のお気に入りの席に座っていた男の人だった。

「ゆっくり、吸って吐いて。繰り返して」

 彼は私の横について、深呼吸するように促した。

 普段なら他人に距離を詰められるとそれだけでストレスを感じるのに、全く不快に思わなかった。むしろ、体がじんわりと温まっていくような心地良さが私を包む。

 隣で自分に視線を注ぐ男の顔を、私はまじまじとみつめた。艶のある黒髪に健康的な肌、すっと通った鼻筋に薄い唇、長い睫毛に切れ長の瞳――私の考える美男の条件を揃えた容姿だ。サングラス越しではあるが、切れ長の瞳と目が合った。

「イケメンだ……!」

 思ったことが声に出てしまった。

「あ、すす、すみませ、えっと……」

 慌てて取り繕うと彼は「変わってないな」と微笑んだ。

「え?」

「前も同じことを言われた」

 以前……? 会ったことがあるの?

「思ったよりも元気そうで安心したよ。約束どおり迎えに来たよ。きれいになったな、咲菜子」

――私の名前、知ってる……?

 ますますパニックに陥ったが、ここでスマートフォンが鳴って我に返った。

「あの、え~と……そのっ、し、失礼します!」

 口癖になっているフィラーを連発しながら席を立ち、私は店を飛び出した。

「なんなの、いったい……」

 路上で独りごちた。

 あんなイケメン、会ったら絶対覚えてる。忘れるはずない。

 いや、それよりも気になるのはあのモヤモヤの霊体だ。ああいうのは何度か見たことがある。ほうっておけば自然と消えていく残留思念、みたいなものだと思う。でもさっきのあれは、あきらかに私に何かしようとしていた気がする。

――死んだ人の気持ちなんてわからない。生きてる人の本心だってわからないことが多いんだもん。

 深く考えるのはやめにして、私は帰路についた。

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