10

「……サヨナラ」

 立ち去ろうとする私を白珪が追いかける。

「どうしてだめなんだ。 休憩と書いてあるぞ。金ならある」

「冗談じゃない、馬鹿にしないでよ!」

「冗談は言ってないし馬鹿にするなんてとんでもない。俺は咲菜子に――」

 肩に置かれた手を、反射的にはたき落とした。

「触んないでよ!」

「あ、咲菜子っ」

 走り出した私の耳に彼の狼狽うろたえた声が届いたが、振り返らず全速力で人通りの多い商店街へと向かった。

――なんで私ばっかこんな目に遭うのよ。もぉやだ!

「咲菜子!」

「何よ、もう!」

「危ない――」

 彼の声と同時にスキール音、迫りくるの気配――それらを感じた瞬間、全身に衝撃が走った。

「……ぅう」

 目を開けたが覆い被さる白珪が邪魔で何も見えない。車が走り去る音が聞こえた。

「ちょっ……重い」

 手を押し当てて距離を取ると、額から血を流す白珪の顔があった。

「無事か」

「血っ……怪我して……!」

「静かに。咲菜子は手を出すな。呪いや祟りなんて、もらうもんじゃない」

 そう言った彼の顔は先程喫茶店で見せた柔和な笑顔ではなかった。

「お、おおおおおおおねえちゃ……」

 まただ。黒いモヤモヤした霊体が現れ、こちらを見ている。

「失せろ、名もなきクロケブリよ」

 むくりと起き上がり、白珪が立ち塞がった。額を拭い、血で汚れた手をかざすと、クロケブリと呼ばれた黒いモヤモヤは明らかに怯えたように唸った。

「ぐっ、ギ……うううううぅうぅ」

「我が呪われし血によってなんじを深淵に送り返す」

 何が行われているのか私にはわからなかった。ただ、白珪が手をかざした空間がぐにゃりと歪み、そこに闇が見えた。あれは五歳の時に見た漆黒の闇だ。闇がクロケブリを呑み込もうとしている。

「ここはお前達の世界ではない。さあ、帰れ」

 苦しみ喘ぐ声で、クロケブリは言葉を発した。

「たすけて、おねえちゃん」

「やめて!」

 言うが早いか、私は白珪の腕にしがみついた。

「邪魔をするな。こいつは君を殺そうと――」

 白珪は驚いて手を握り込んだ。その隙にクロケブリはスーッと空気に溶け込むようにして姿を消した。

「殺さないで!」

「咲菜子、こいつらはもう死んでいる。行き場を失った魂の残滓が集まっただけだ。わかっているだろう」

 白珪が諌めるも、私は譲らなかった。

「でも、妹なの。お願い!」

「全く……」

 白珪は小さく舌打ちし、クロケブリがいた場所を睨んだ。

「ああいうのは意思を保てない霊の集まりだ。人だけじゃなく動物や猫なんかも混じってる。黒っぽい煙のように見えるからクロケブリ――フミナはそう呼んでいる」

「けど、お姉ちゃんて言った……」

「よく人を惑わすようなことを囁くんだよ。つけ入る隙を与えると危険だぞ。それより、怪我はないか」

 やれやれという仕草をしながらこちらを向いた彼の方こそ血まみれだった。額と鼻、口から血が出ている。見れば胸からも出血しており、骨が露出していた。

――そうだ、さっき車に……!

「あっ、あああ、大変……! 待って、今救急車を」

 一一九番に通報しようとする私の腕を掴み、白珪は切迫した様子で「咲菜子に怪我は?」と言った。

「大丈夫、こんな傷大したことないから落ち着いて」

 助かるとは思えないほどの大怪我に見える。とにかく今は彼を落ち着かせようと私は必死だった。

「いかん」

「え?」

 怪我人とは思えない勢いで、彼は私を肩にかかえた。胸の傷口からドバッと血が噴出する。

「ちょちょちょ、ちょっと、何するの! そんな大怪我で動いたら……」

「ここに入る」

 そう言って彼が私を連れ込んだのは、派手な電飾看板を掲げたホテルだった。

「何考えてるの? 病院行かなきゃ死んじゃうわよ!」

「いいからおとなしくしていろ。すぐに終わる」

「そんなにラブホ行きたいの? 命の方が大事でしょ普通!」

「咲菜子を死なせはしない」

「死にかけてるのはあなたでしょーっ!」

 噛み合わない言い合いをしている間に白珪はさっさと入室した。

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