大股で路地裏から大通り、アーケード商店街を突っ切ったところで振り返った。

 白珪は追いかけてこなかった。

 そのことにさらに腹が立った。

 プロポーズまがいのことを言っておきながら追いかけてこないとはどうゆうことなんだろう。

――別に、どーでもいいけど。だって私には博生という彼氏がいるし。九州の山奥で見知らぬ――わけではないけれど馴染みのない男……しかも中身は狼と結婚なんて考えられない。

 彼よりも私はが気になっているのは双子の姉・咲弥子のことだ。ショーウィンドウに映る私は私のままだ。咲弥子じゃない。次に会えたら訊きたい。博生に霊感があることを暴露したり顔を出して動画配信したり……あれはきっと咲弥子がやったんだ。どうしてそんなことしたのか、理由が知りたい。

 思案しながら歩いているとバッグの中のスマートフォンが鳴動した。表示されているのはまたしても知らない番号だった。

 恐る恐る[応答]をタップしてみる。

「……はい」

『もしもし、加賀利咲菜子さんの携帯で合ってますか?』

 若い男の声だった。

「……そ、そうですけど、どちら様ですか」

『突然すいません。覚えてないかもしれないけど、小学校で同じクラスだった香月礼人かつきらいとです」

 その名前に私は目を丸くした。

「香月……くんて、飼育委員だった香月くん?」

 電話の相手は『そうそう』と笑った。

「びっくりした……私の番号、どうやって?」

『今日病院でさ、加賀利のお父さんに会ったんだ。それでこの番号教えてもらった。お父さん入院してるの知ってる?』

 昨日、継母から聞いて知った……そう思いつつ相槌を打つ。

「あ、うん。てか病院て、香月くんもどっか悪いの?」

『いや、俺は仕事で行ったんだよ。てかさ、加賀利、こっちには帰ってこないの?』

「えっ?」

「いや……その、会いたいなって」

 何年も顔を合わせていない同級生の意外な発言に私は何と答えていいかわからなかった。

 香月くんとは特別仲が良かったわけじゃない。私達を結びつけているのは――……。

「お父さんのお見舞いがてら、近いうちに一度帰ろうとは思ってるけど……」

 そう言いながら、自分の言葉に物凄い違和感を感じた。帰ろうだなんて、本当は一ミリも思っていない。だってあそこは私の帰る場所じゃない。他に帰る場所があるわけではないけれど。

 私の思いとは裏腹に、電話の向こうの香月くんは明るく弾んだ声を出した。

「マジ! 帰って来る時連絡くれよ。絶対、約束、なっ」

「う、うん」

 暗い思い出がなければときめくような会話だ。そう思った。

――継母がいるあの家には帰りたくない。お父さんにだって別に会いたいと思わない。香月くんだって……会って何を話すっていうんだろう。

 黙っていると香月くんの方から話題を変えた。

『高校卒業してからは東京で就職して一人暮らししてるってお父さんから聞いたけど、元気してる?』

「あー……うん、まあね。元気だよ」

――職を転々とし、働かない男を養い、日々心霊現象に頭を悩ませてはいるけど……元気は元気。嘘は言ってない。

『そっかあ、俺はさー……ジジッ……から、電話がザー……』

 突然、雑音が混じりだした。

「あれっ……香月くん? 聞こえる?」

『聞こえてるよ』

 返ってきた声は香月くんのものではなかった。、

『ザザザー……おねー……ちゃん、ク……クク……もしもし? 加賀利? あれ、聞いてる?』

 少女だ。少女の声と香月くんの声が交互に重なり合う?

「や、やめて……」

『加賀利、大丈夫? 俺達ザザッ……おねえちゃ……キャッハハハハ! クあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……おい、加賀利……』

 少女の声は途中から奇妙な声に変わった。地の底から響くような、獣の慟哭のようなぞっとする声だった。

『ぉねえ……ちゃん、お姉ちゃん……』

「……っ」

 息を呑んで身じろぎした拍子に、スマートフォンが手から滑り落ちた。拾おうとしたけれど悪寒に体が凍りつく。背後に、誰かいる。

「後ろの正面だーあれ」

「ひっ……」

 振り向くと、そこにはあの黒っぽいモヤモヤが揺らめいていた。水の中に墨汁を垂らした時にできる蠢く模様――墨流しを思わせた。

「お……ね、エ……ちゃン、お姉ちゃん……」

 苦しそうな少女の声だった。それに混じって動物が吠える声、男女の判別のつかない数多あまたの呻き声が「お姉ちゃん」と繰り返す。

 自分をお姉ちゃんと呼ぶ者を、私は一人だけ知っている。

「さ、ゆ……さゆングッ」

「呼ぶな」

 突然、背後から抱きすくめられ、大きな手で口を塞がれた。

「名は呼ぶな」

 声と気配で白珪だとわかった。「ンーッ、ンンンンー!」

「おとなしくしていろ。こちらが反応しなければじきに消える。知ってるだろう」

 白珪の言った通り、輪郭の曖昧なそれは不明瞭な言葉を繰り返し、揺らめくだけだった。言葉を発しないでいると、空気に溶けるようにして見えなくなった。

「……ヨシ」

 白珪が拘束を緩めた瞬間、私は自分の臍の辺りでがっしりと組まれた彼の指を一本掴み、思い切り引き剥がす。

「ぎえっ」

 情けない悲鳴とバキャッと骨が折れた音がした。そう、屈強な男性でも指の骨は結構容易に折れるのだ。高校生の時、護身術を習っておいて良かったと心から思った。間髪を入れずに今度は足の甲を勢いよく踏みつける。

「ぐおぉっ」

 相手が痛みで悶絶している隙に、私は逃げた――否、そう試みたのだが、その場にへたり込んでしまった。足に力が入らない。恐怖で全身が硬直して少しも進めなかった。本当、自分が情けない。

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