9 疫病神②

「えっ、さーちゃん? 早くない?」

 約束の時間よりも早く帰宅した咲菜子に、天ヶ瀬博夫あまがせひろおが笑顔で飛びついてきた。

――言えない。正体不明の男に退職届出されたとか、実は辞めたかったからこれでいいかもって思って自分からは何の連絡も入れてないとか!

「う、うん。今日は、ちょっとその、早く終わったの」

 咄嗟に嘘をついてしまい、咲菜子はまたため息をついた。恋人に格好の悪いところを見せたくなかったのだ。

――きっと今の私、可愛くない顔をしてる。私のこと可愛いだなんて言ってくれるのは、彼しかいないのに。

 彼の肩に顎を乗せて不細工を隠す。

――博夫との身長差は五センチだから抱き合うとこんな感じ……さっきの人だと私の顔の位置に胸が来るから、キスするの難しそう……。

「連絡してくれれば駅まで迎えに行ったのに~。荷物重かったでしょ」

 ヒョイと咲菜子の手からエコバッグを取り、彼は中身を覗いた。

「あっ、アイス。買ってきてくれたんだ」

「う、うん。昨日アイス食べたいって言ってたから」

「うわああ~、めっちゃ嬉しい。食べていい?」

「うん、いいよ。私、家のことやっちゃうから。博夫はゆっくりしてて」

「ありがと。あー、さーちゃんみたいな可愛い彼女がいて、俺って幸せ者~」

 にこにこしながらアイスキャンディを取り出し、博夫はベッドに腰を下ろした。

――博夫に失礼だよね、あんな奴と比べるなんて。

 咲菜子は心の中で博夫に詫びた。

 このアパートはワンルームなので、玄関を開けると部屋の全体が見渡せる。シングルベッドにローテーブル、小さなテレビ。ソファはない。咲菜子の衣類を収納している三段のプラスチックケースの上には博夫の私物が入ったボストンバッグが置かれている。短い廊下に小さなキッチン、浴室もトイレも狭い。

――でも、ここに帰れば私を待つ彼氏がいる。

 そう思うと、人生悪いことばかりじゃないと思えてきた。仕事はまた探せばいいし、自分には博夫がいる。毎日好きだと言ってくれて抱き締めてくれる、今までにないタイプの恋人だ。

「ヨシッ」

 気分を切り替え、咲菜子は家事に取りかかった。洗濯機を回し、トイレと浴室を掃除してからオムライス作り——その間、博夫はスマートフォンで動画を流しながらアイスキャンディを舐めていた。


               *


 二人の出会いは約半年前。ホリデーシーズンで浮き足立った十二月の街中で栄養ドリンクのサンプル配りのアルバイトをしていた時だった。ちらちらと雪が降る中、支給された蛍光色のジャンパーに短い白のスカート。凍えそうだった。さっさと割り当てられたドリンクを配って帰りたかった。

――寒過ぎて頭が痛い……霊はいいなあ、寒さとか感じないんだろうな。

 行き交う生者に紛れてうじゃうじゃと彷徨う死者の霊を横目に見ながら、ため息まじりの白い息を吐いた。

――なんか最近、生きるのが面倒になってきたなあ。別に死にたいとまでは思わないけど。

 虚ろな顔でドリンクを配っていると、ぐう、と腹が鳴った。

――仕方ない、働こう。生きてたらお腹すくし、食べるにはお金が要るんだ……。

「寒くない?」

 突然、生きた人間から声をかけられた。

「え」

「これあげる。風邪ひかないように、ね」

 カイロを差し出してくれたのは、同じドリンク配りの男性スタッフだった。

――優しい言葉なんて、いつぶりにかけて貰えただろう?

 記憶を辿っても思い出せなかった。カイロを受け取る時に触れた彼の手はとても温かかった。

「えっ……何、どしたの? 俺、余計なことしちゃったかな」

「ちが、違うんです。私……」

 涙がこんなに簡単に出てしまうなんて、恥ずかしくて死にそうだった。

「名前は?」

「加賀利…です。加賀利咲菜子」

「咲菜子ちゃんね。俺、天ヶ瀬博夫。さっさと終わらせてメシでも行かない?」

 彼の笑顔は優しく、どこかあどけなくて、人と接することに臆病になっていた咲菜子の心を溶かすには十分過ぎるほど温かかった


 それからの展開は、とても早かった。

 帰りに大手チェーンのファミリーレストランで夕食を取りながら、互いのことを話した。二人は同い年で同じアニメが好きだった。恋愛ドラマよりもミステリや刑事ドラマが好きことなど、共通点がたくさんみつかった。食事のあとは遅くまでゲームセンターで遊び、最終電車がなくなった。タクシー代がないと言う彼を咲菜子はアパートに泊まっていけと自ら提案した。断られたらどうしようという不安がなかったわけではないが、彼はきっと断らない――そう確信させるだけの熱量を博夫から感じていた。

 博夫は二つ返事で泊まることになった。咲菜子の部屋にはソファがない。だから、一緒に寝た。当然のように二人は体を重ねた。

――軽い……私ってこういう子だったんだ。

 そう思いながらも後悔はしなかった。人肌の温もりに飢えていたのだ。

 それから数ヶ月経った今、博夫は咲菜子の部屋に入り浸りだ。家族との折り合いが良くないとのことで、実家には時々荷物を取りに帰る程度だ。あまり立ち入らな方がいい気がして、咲菜子から詳しく訊くことはしなかった。彼に嫌われるのが怖かった。

 現在、博夫は働いていない。彼曰く、動画配信で稼いでいるということだが、それが仕事と呼べるものなのか、どのくらいの収入があるのか咲菜子は知らされていない。

――今度、家賃は折半しない? って言ってみようかな。光熱費や食費だって、一人の時より多くかかってるし……だけど、嫌な顔をされるのが怖い。こんな私と暮してくれる人なんてもう二度と出会えないかもしれない。

「おいし~。さーちゃんはホンット料理上手だよねえ」

 オムライスをぱくつく姿を見ると、やはり言えなかった。

 今のこの幸せを失いたくなかった。

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