2 いつもと違う朝②

 通勤電車に滑り込んだ咲菜子はできるだけ人の邪魔にならない場所に立ち、イヤホンを耳に押し込んだ。耳を塞いで目を閉じて、駅につくまで我慢する。これが日課だ。生き辛いこの世界で、これが咲菜子の渡世術だった。

『あんたは不気味で、他人を不幸にする人間なの』

『みーんな咲菜子のことキモいって言ってるよ』

『全部あんたのせい。消えてよ!』

『お前が死ねば良かったんだ!』

 子どもの頃に投げつけられた言葉が、時を越えて何度でも咲菜子の心を抉る。言葉の呪縛は今も解けていない。自分がいると、誰もが顔を顰める。迷惑がかかる――そう思い込んでいる。

 目や耳から入り込む情報を遮断するのには、もう一つ理由があった。

――毎朝毎朝、なんだって満員電車に乗るんだろう……死んでまで。

 周囲の人間には見えないに一瞥をくれて、咲菜子はまた目を閉じた。

――目立たないように、上手くやるんだ。そうすれば一日が終わる。

「ハァ」

 電車に揺られる間、咲菜子は胸元のペンダントを握っていた。不安を感じたり、つらいことや怖いことがあると無意識にこの赤いガラス玉のペンダントヘッドを握り締めるのが習慣になっている。そうすると、不思議と心が落ち着くのだ。

――さっきはそんな余裕もなくしちゃってた……イケメンに話しかけられたけど、正直何言ってるのかわかんなかったし。でも、お礼くらいいえば良かった。落ち着かせようとしてくれてたのに……昔、助けてくれた人に似てた……気がする。

 職場の最寄り駅に到着し、思考は途切れた。雑踏の中、俯いたまま会社へと急いだ。


                *


――あのニュース、何か関係あるのかな、昔の事件と……。

 思案しつつ洗面台の鏡に映る自分を見ると、前髪が汗で額に張りついていつもよりも醜かった。

――いけない。せめて身だしなみくらいはちゃんとしてないと、また不気味とかキモいとか言われる。

「あ」

 前髪を直す咲菜子は、鏡に映ったものに思わず声を上げた。

 背後に、立っている。

 長い髪の女だ。血色の失せた肌は、生きた人間のものではない。

――死んだ人の魂の残滓ざんし……つまり幽霊。

 落ちくぼんだ目がこちらを見ている。

「見える?」

 女は言った。嬉しそうに、口角を上げて。

「見えるの? 見えないの? ねえ」

――こんなもんが見えるから、私は……。

「あーっ、もうこんな時間だ。遅刻遅刻!」

 大げさに叫び、咲菜子はトイレを飛び出した。

――ヤバい、バレたかな。いつもはもっと上手くやるのに。

 廊下を突っ走りエレベーターに乗り込もうとした瞬間、柔らかい壁にぶつかった。

「相変わらずおてんばだなあ、咲菜子」

 顔を上げると、端正な顔が見下ろしていた。エレベーターの中にいたのは数十分前に喫茶店にいたダークスーツの男だった。彼の胸部に顔をうずめた状態で咲菜子は呆けてしまった。

――なんかいい匂いする……てか、私の顔の位置に胸があるってどゆこと? 背ぇ高過ぎない?

「場所を変えよう。さっきの喫茶店はどうだ?」

「え、あ、あの……私会社に行かないといけないんです」

「会社には連絡を入れておいた。どこかでゆっくり話そう」

 ニッコリ笑う男に、咲菜子は今度は唖然とした。

「勝手なことをして悪かったが、どうか怒らないでくれ。割と緊急事態なんだ」

「緊急……? てか、なんで私の名前――それに、あなた……」

「ああ、俺の名前か。昔は名乗ることも許されていなかったからね」

 嬉々として名乗ろうとした男の言葉を遮り咲菜子は言った。

「身長何センチあんの?」

「へ?」

 会話が成立しないままエレベーターのドアが閉まり、男の間抜けな顔は見えなくなった。

――高身長の金色の目をしたイケメン…そんな人、私の記憶の中には一人しかいない。だけど、何か変だ。さっきの人がもしあの人だったら……。

 しばらく思案顔でその場に立ち尽くしていた咲菜子だったが、上の階に行ったエレベーターが降下してきたので逃げるように立ち去った。

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