無題
高宮朱里
……朝か。
部屋にある時計は、午前五時半を指していた。まだ日は昇っておらず、あたりは暗い。昨日の夜に雨が降ったからか、どんよりと湿った空気が漂っていた。
昨晩はなかなか寝付けず、浅い眠りを繰り返していたうえに、休日だというのに早い時間に目覚めてしまった。寝不足の頭がとてつもなく痛い。変に目が冴えてしまい、もう一度は寝られそうになかった。
親は昨日の夜から出張に行っていて、家の周りは畑と荒れ地ばかり。誰の気配もない。完璧な静寂に耳鳴りがしそうだった。
大音量で音楽をかけてやろうかと思った。大声で叫んでやろうかとも思った。あまりに、この静けさが寂しかったから。
……今日から私は、何をして過ごせばいいのだろう。なぜか今頃になって、涙が出てきそうだった。
すると、部屋の窓をノックする音が沈黙を破った。
「……!」
……あぁ、なつかしいな。こうやって君はいつも、私を外の世界に連れていってくれた。
反射的に窓に駆け寄る。カーテンを開けた。
「……実果」
ギターケースを背負った実果が、膝に手をついて肩で息をしていた。
私に気づくと、疲れた顔で、でもなぜかすごく嬉しそうに笑った。
……まったく、どんな顔して会えばいいんだ。なんだかおかしくなって笑ってしまい、そのまま窓を開けた。
冷たい、雨上がりの澄んだ空気が部屋に入りこんでくる。
実果も気が抜けたように笑っていた。
「昨日の夜、新曲作ってきたの。だから聴いて」
実果は部屋に入ると、窓を背にして座り、ギターをかまえた。
やわらかな音色が静かな部屋を満たす。
そのまま実果が歌いだした。久しぶりに聴いた、けっして上手くはないけど、素朴であたたかい歌声。
メロディーラインも判然としないのに、優しくも刺すような歌詞が、すっと心に入りこんできた。
……あぁ。私の好きな、実果の曲だ。
日が昇りだした。実果の背後から、朝日が差しこむ。窓の外の草木に降りた露が、光を反射して輝く。
このうえなく幸せそうにギターを弾いて歌う実果を眺めながら、私は心が溶かされていくのを感じた。
早瀬実果
昨日の夜、家に帰ってから一晩中、ひたすらに曲をつくり続けた。
感情が湧き出て止まらない。次から次へとアイデアが浮かぶ。頭に体が追いつかない。こんな感覚は初めてだった。
眠い。疲れた。もう限界だ。体が悲鳴をあげても、やめられなかった。ひたすらに良い曲を、心が必死に求めていた。
世界中の誰にもわたしの曲が届いていないなら……せめて朱里だけには、わたしの曲を聴いて欲しい。その願いを曲に乗せた。
これが、わたしの曲だ。
最後のサビに入る。すると、朱里が目を閉じて、小さく口ずさんでいるのが聴こえた。
……届いた。
涙が簡単にこぼれ落ちた。曲が届くのって、こんなにも嬉しいことだったんだ。わたしの夢は、最初からこの瞬間だったんだ。
漠然とあがくように始めたことだったけど、曲を作ってきてよかったと思えた。
わたしの曲を大好きだと思えた。
……大切な友達との関係を、繋ぎとめることができたんだから。
高宮朱里
最後の一音が部屋の中に響いて、余韻がしばらく残っていた。
朝起きたとき心に巣くっていた憂鬱な気分は、いつの間にかきれいに消え去っていた。
しばらく二人とも黙りこんでいた。
伝えたいことはたくさんあった。でも、私は感謝も感想も伝える前に思わず、
「もう一回弾いて。次は私が歌いたい」
はやる気持ちのまま、身を乗り出していた。
実果が実果の曲を貶めたとき、私は言いようのない哀しみを感じた。それと同じように、私は今まで自分の歌と向き合うことから逃げて、ずっと実果を、私の歌を認めてくれた人を悲しませていたのかもしれない。
自分の歌に心から自信を持てるようになるには時間がかかるだろう。だけどこれだけは、いま私が歌う理由になる。
実果の曲は、私が一番上手く歌える。
私の歌で、実果の曲を届けなければいけないんだ。
そんな歌を歌える自分でいられたことを、誇らしく思う。
赤い目をした実果は、くしゃっと笑って小さく「いいよ」と呟いた。
実果がギターを弾く。私が歌う。冬の朝の空気を音が満たす。
世界に二人だけのようだった。
いつの間にか二人の間にできていた、大きな空白が埋まっていくようだった。
曲が終わり、実果がまっすぐ私の目を見つめて言った。
「……これからも、せめて朱里だけには、私の曲を聴き続けてほしい」
「もちろん。私も、実果の曲をずっと歌わせてほしい。それに、私だけじゃなくて、世界中の人に実果の曲が……いや、私たちの歌が届いてほしいって思う」
私たちは春の頃を、最初の気持ちを思い出した。
「これからも歌い続けよう。二人で」
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