今日 お兄ちゃんも辞めます

菊池昭仁

第1話

 妹の京香とは8才歳が離れていた。

 俺が中学1年の時、京香は5歳の幼稚園児だった。

 京香はいつも俺の後を追いかけてついて来た。


 「お兄ちゃーん、京香も一緒に行くーっ」と。



 おふくろと三人で柳津の花火大会に出掛けた帰り、京香は疲れた様子だった。


 「兄ちゃんがおんぶしてやるか?」

 

 京香は黙って頷くと、俺の背中に乗った。

 すぐに背中から京香の寝息が聴こえて来た。

 俺は京香の兄というより、父親になったような気でいた。

 

 

 そして今、俺は京香と居酒屋で酒を飲んでいた。


 「この居酒屋はいいな? 海鼠なまこ酢が置いてある」

 「兄ちゃん、海鼠好きだもんね?」

 「小さい海鼠酢はたまに見かけるが、これだけ大きい物はめずらしい」

 「ここはね、何を食べても美味しいんだよ。病院の人たちとよく来るんだ」

 「そうか」


 俺は結婚して35才になっていた。娘は今、5才になっていた。

 娘の優香は京香の幼い頃にそっくりだった。京香は27歳になっていた。

 地元の短大を卒業して、東京の大学病院の庶務課に就職をしていた。

 おふくろの話だと付き合っている男はいるようだったが、京香は俺に男の話はしない。

 京香が高校生の時、社会人の23歳の男と付き合っていたことがある。その時それを俺に咎められたからである。


 「ソイツをここに連れて来い。殺してやるから」


 妹は俺の娘のような存在だった。

 東京の原宿を歩いていると、芸能プロダクションのスカウトマンによく声を掛けられる程のルックスをしていた。

 俺はそんな妹が自慢だった。

 

 「ビール、お替りするよな?」

 「うん」


 俺はホール係を呼び、生ビールをオーダーした。


 

 生ビールが運ばれて来た時、俺はさりげなく京香に尋ねた。


 「付き合っている男はいないのか?」

 「ママから聞いたの?」

 「まあな?」

 「いるけどまだ先のことは考えてはいないんだ」

 「結婚出来ない男と付き合っているのか?」

 「そういうわけじゃないけど、なんとなくね?」


 京香は話をはぐらかすようにビールを飲んだ。

 俺はそれ以上追求することはしなかった。京香はもう大人だからだ。

 ただ京香にはしあわせになって欲しかった。ただそれだけのことだった。





 秋晴れの東京競馬場は開催日ではなかったので、比較的のんびりとしていた。

 三上悟は馬券を手に、屋外に出てターフビジョンを食い入るように見詰めていた。

 

 「5-9、5-9だぞゆたか、お前を軸に馬単うまたんの一本勝負にしたんだから頼んだぞ!」

 「悟、お前いくら賭けたんだ?」

 「50万」

 「お前バカか? しかも馬単に50万だなんて! ここはせめて馬連うまれんだろう?」

 「昨日、闇カジノで儲けたカネを全部このメインレースに注ぎ込んだ。

 大丈夫、武豊たけゆたかは鉄板だ、間違いなくぶっちぎりの1着でゴールする! 何しろオッズは豊が1.2倍、そしてアンカツが3.5倍だからな? 後はみんな8倍以上だ。競馬はギャンブルじゃない、投資だ。確率論ではなく統計学なんだよ。心配すんな、豊は必ずやってくれる。

 何しろ天才ジョッキー武豊様だぞ、馬単で勝負しなくてどうする?

 馬単だと4.8倍だから、240万円にはなるはずだ」

 「悟、お前、競馬に絶対はないという名言を忘れたのか?

 馬券で生活しているヤツに、俺は出会ったことがない。

 せいぜい賭けても1万円だ。お前には家族がいるんだぞ。それを競馬に50万だなんて。

 競馬はお遊び、レジャーなんだ。わかるよな? 悟。

 あの浪速なにわの巨匠、藤本義一ぎいちですら言っていた、「僕はね、競馬の年間収支は20万円のプラスですわ、これはホンマ凄いことですよ」とな?

 それなのにお前は馬単に50万を平気で賭けてしまう。バカなのか大物なのか。 明日、俺と一緒に心療内科に行こう。悟、お前はギャンブル依存症だ」

 「雨宮、お前も一緒に祈ってくれ。50万円が240万円になるように。

 頼んだぞ豊! そしてアンカツ!」



 ファンファーレが鳴った。

 スターターがスタート台に上がり、大きく旗を振った。


 ゲートが開き、16頭が一斉にスタートした。

 中京競馬場、1,200m三歳未勝利ダートコース。三上は祈った。


 「5-9、5-9、神様、豊様」



 第4コーナーまでは混迷を極めていたが、直線になると5番の武豊が馬群から楽々と抜け出し、独走態勢になった。


 「いいぞ豊! そのままそのまま!」

 「いけるな悟! このまま行けー! 豊ーっ、アンカツ!」


 アンカツも他の馬を引き離し、馬群を抜けてやって来た。役者は揃った。

 だがそこで思いもよらぬアクシデントが起こった。

 断然の一番人気だった武豊の騎乗した馬が、ゴール手前200mから馬脚が衰え始めたのである。

 そこへ迫り来る9番のアンカツ。


 そしてゴール、頭の上げ下げでアンカツが1着、豊は2着に沈んでしまった。

 馬単は「9-5」になってしまった。



 「悟・・・」

 「武豊のバカ野郎・・・。何でゴール直前でアンカツに刺されんだよ!」


 悟は芝生にヘタリ込んでしまった。



 「50万円が消えた・・・」

 「悟、お前はもう競馬は辞めろ。競馬だけじゃない、パチンコも闇カジノからも足を洗うんだ。

 明日、病院へ行こう。なっ、悟」

 「雨宮、ロクデナシって、なんでロクデナシって言うか知ってるか?」

 「ラッキーセブンになれないからか?「6じゃなし」が訛ったからか?」

 「そうじゃねえよ、「ろく」とは「りく」なんだ。陸には真面目、誠実という意味がある。

 つまりロクデナシとは「陸でなし」のことなんだ。

 真面目でも誠実でもない人間のことをロクデナシというんだよ。雨宮、俺みたいな人間のことを言うんだよ。

 俺はどうしようもないロクデナシだよ」

 「悟・・・」


 三上はそう言って、たった1枚の50万円のハズレ馬券をビリビリに千切ると、それを競馬場の空に向かって投げつけた。

 東京競馬場の秋風が、それを空高く舞い上げて行った。


 

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今日 お兄ちゃんも辞めます 菊池昭仁 @landfall0810

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