10

ジョンは手配してあった小型の白いレンタカーを運転していた。次の目的地はモンバサである。ジーナは車が揺れるたびに、身体中に傷みを感じていた。手や足だけではなく、リウマチが腰まできたのかもしれない。そのことも、気を滅入らせた。もう、何をどうしてよいのか、わからない。身体には、もう考えるエネルギーが残っていなかった。


ジーナはあれから何時間も口をきいていなかった。キャサリンがひとりでよく喋り、歌い、食べ、よく眠った。

いたるところに歯ブラシのようなパームツリー、熱帯の植物、それに無邪気に手を振る子供達。でも、ジーナの感情は麻酔にかかったかのようで、何にも反応しなくなっていた。


「あれが、ホテル」

ジョンが指をさした。

パームツリーの向こうに灰色の建物が見えた。

ジョンはこのモンバサのホテルについて、説明してくれていた。そこには太陽がさんさんと輝くビーチがあって、信じられないほど美しい、と。


でも、目の前に現れたのは、何ということのない四角い灰色のコンクリートの箱なのだった。これが、彼が自慢していたホテルなの?

やっぱりね、とジーナはどっと疲れを覚えた。悪いことが始まると、次から次へと重なり、悪いほうへ悪いほうへところがり落ちる。それが、また始まったのかもしれない。


財布は幸い見つかったが、何か大切なものを失ってしまった。傷ついた部分だけさっと忘れて、前の続きしようなんて、無理なのだ。ジーナは、すっかり疲れてしまっていた。

ジョンは車をとめて、チェックインの手続きをするために、キャサリンを連れて、ホテルの玄関に向かった。ジーナは車からゆっくり下りて、痛い手足や腰を伸ばした。


サングラスをかけて見ると、灰色の建物はふたつの部分から成っていて、その間にやはりコンクリートでできているらしい半円形のアーチがかかっていた。身体が車の冷房で冷えてしまっていたから、このまますぐ建物の中にははいりたくなかった。

ジーナはゆっくりと歩いて、アーチをくぐってみた。


アーチの向こうはビーチだった。

白い砂浜が続くホワイトビーチだった。

光が溢れている。見たこともない大量の光だ。ロンドン中の光が、実は、ここに集まっていたのかと思うくらい。


光って、本当に明るいんだ。当り前のことを考えながら、ジーナはなぜかぼんやりしてしまい、しばし空洞筒のようにそこに立っていた。

それから白い砂を上を歩いて、真ん中あたりに来て座った。車の冷房で冷えた体には、熱い砂が、気持ちがいい。ここのまま倒れて、眠ってしまいたかった。

周りには、誰もいなかった。


青い海。透明な水に青いインクを落としたような、そんな海の色。

青い空。皺ひとつない、青い大きな布のような空。

椰子の木はそのきりんのように長い首を白い砂浜の上に這うように延ばし、地平線を眺めている。


そこにあったのは、まさに、あの絵だった。

あの海辺の安宿にはって眺めていた写真。

夫の浮気を知った翌日、荷物を詰め、海辺の村に行った。安宿で、壁の写真を見ながら、毎日毎日泣いて暮した。いた。自分がこの世で一番不幸せな人間だと思って、すべてを恨んだ。何もかも、嫌いになった。


もう泣く涙がないくらい泣いたと思っても、次の瞬間には、また涙が溢れた。泣くのにさんざん疲れて、二度と泣くものかと誓いをたてこともあった。でも、それは守られなくて、その後、何十回と泣いてしまった。その時、いつも涙でぼやけていたホワイトビーチが、くっきりと目の前にあった。


ここは、天国なのかなあ。私はもう死んでしまったのかしら、ジーナは一瞬、そう思った。そんなはずはない。朝、ジョンとひどい喧嘩をしたけれど、死んではいない。


今まで、あんなに興奮したジョンは見たことがないと思った。

お金はおそろしい。

ジョンは、財布を失くしたことで、あんなに取り乱してしまった。いつもは自分を見せない彼が、ささいなことで、自分を失ってしまった。金額は大きいけれど、これまで歩いてきた人生の問題から比べたら、大きな問題ではない。そんなことでジョンがあんな醜態を見せるなんて、それは、かわいいと思える余裕のある人がいるかもしれないれど、私は逆上してしまった。

私は、切れてしまうことがあるから。

もし、ジョンがどこまでも旅を続けると言い張ってくれなかったら・・・・・・。ああ、あぶないところだった。


彼は、どうして、旅を続けたかったのかしら。・・・・・・それは、私をここに、連れて来たかったから。

ジーナは自分で質問して、自分で答えた。今、答えはすらすらと出た。


ジョンの名前を白い砂の上に書いた。JOHNと。太く書いても、白い砂は小さな溝だけ残し、さらさらと消えていく・・・・・・ JOHN・・・・・・胃を絞るようない愛しい思いが湧きあがってきた。 

ジーナは、はっとして、頭をあげた。


ジョンは喧嘩の最中にも、「これでおしまい」だとか、「ぼくは出ていく」とか、それに近いことも言っていない。いつも「ぼく」ではなく、「ぼく達」と言った。「ぼく達は旅を続ける」、と言った。

そう、私をここに連れてこようと、必死だったのだわ。


愛しい思いが胸を通り鼻までこみあげてきて、ツーンと痛くなった。

その時、身体のどこかに、何かあるものが蘇るのを感じた。それは、もう春は二度と来ないのだと諦めるほどに長かった冬のある日、道に乾いたスポットを見つけた時のようなうれしくてたまらない何か。


シアワセって、こういう時のことなのかしら。

ジーナは青い空を見あげた。

故郷はどっちの方向かしら。

考えれば、故郷を出てからたった七年にしかならないのに、村でのことは、遥か遠いことのように思える。


「ジーナ」

ジョンのあの声が聞こえた。

振り返ると、彼はアーチのところで、両手を車のワイパーのように振っている。子供みたい。私の愛しい人。

ああ、泣いてしまう。でも、ここには駆けこむキッチンがない。浴室もない。でも、いい。ジーナはもうどこへも逃げたりはしない。


ジーナは砂に手をついて立ちあがった。

目薬をさした時みたいに目が涙でいっぱいで、彼の姿が見えない。

急いで、涙を拭った。でも、涙は壊れた水道管みたいで、止まることを知らない。

彼が陽炎のように揺れて見えた。そこまで行けば、彼を抱きしめることができるというのは、夢みたいだ。

 もしかして、私はもう地上にはいなくて、ここは天国なのかもしれない。


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