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ジョンの声が聞こえた。誰かと話しているようだ。
ジーナは急いで髪をなでつけ、急いでトレイのドアをあけて外に出た。
居間にいた人物がフィルではなくて、ほっとした。
そこにいたのは、黒いスーツを着た大きなケニア人らしい男性だった。ホテルのマネージャーのようだ。ジョンは昨夜泥棒が部屋に侵入して、枕の下から財布を盗んでいったことを説明していた。
「わかりました、サー」
マネージャーは丁寧に答えた。
「昨夜、このホテルで、同じような被害がありましたか」
ジーナが口をはさんだ。
「いいえ、マダム」
彼は自信ありげに微笑んだ。
「ここは、とても安全なホテルです、マダム」
「でも、現に、財布が盗まれているんですよ。これは、ホテルの責任です。どうしてこのホテルは今だに、鍵が自動ではないんですか」
ジーナは横目でジョンの顔をうかがいながら言った。
「ご心配はいりません」
マネージャーがまた微笑んだ。
ジーナは仰天して、憤慨した。なぜ、こんな時「ご心配はいりません」などと言って、微笑むことができるのだろう。問題の重要性をわかっていない。
「このホテルでは、このセキュリティ面の欠陥に、まだ気がついておられないようですな」
ジョンが苦い顔で言い、ジーナが相槌を打った。
「おお、ご心配なく」
マネージャーが自信たっぷりに言った。
「ご心配なく、ですって」
ジョンとジーナの声が重なり、ふたりは顔を見合わした。
「こんな時に、どうしてご心配なくなんて言えるんですか。他人の財布だからですか。被害を受けた側では、これが心配でなくて、何が心配ですか。まったく。時によっては、訴えることも考えますからね」
ジョンは天井を指さし、就職面接の後みたいに、赤い顔になって叫んだ。
マネージャーは「まあまあ」と両手をゆっくりひらひらさせ、 健康なピンクの歯茎を見せて、笑った。
「さあ、寝室のほうに参りましょう」
とマネージャーはどこまでも、落ち着いている。
この余裕と自信はどこからくるのだろう、とジーナも不思議でならない。
寝室に着くと、「それでは、ちよっと失礼」
マネージャーは片膝を床につけ、左手をベッドの上に置き、ううっと息を吐きながら、右手をマットレスの下にいれた。彼が腕を引き、手をあけると、その灰色っぽい手の平に、口を半開きにした黒い財布がのっていた。
二度とお目にかかれないだろうと半ば諦めていた、あの見慣れた財布がそこにあった。
「昨夜は、大分飲まれたようですね。こういうことは、あなたが、最初の人間というわけではありませんから。それでは、よい日をお過ごしください、サー」
マネージャーのひとり舞台だった。彼は最後の台詞を名優のように深く響く声で穏やかに言い、大きな扉を引き寄せ、かっくんとドアを閉めた。そのかっこ良さには、拍手が出てもいいくらいだ。
ジョンとジーナはチップを渡すのも忘れて、お互いの顔を見つめた。目玉が左右に動き、今目の前で何が起きたことを、すばやく繰り返した。ジーナが先に、目を反らした。
ジョンは財布をボールのように上に放りなげ、両手でキャッチした。
「それでは、荷造りをしなくてはね。それとも、食べるほうを先にするかい。お腹、すいただろ」
ジーナはまたバスルームに駆けこんだ。
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