8
フィルとバーで別れて、部屋に戻ると、ジョンの鼾が聞えた。彼の鼾は洞穴を抜ける風みたいで、とてもこっけいだった。
こんなに疲れているのだもの、ジーナはジョンの頬を撫でた。今夜は、そっとしておいてあげよう。ジーナは束ねた髪を下ろし、キャサリンの部屋に行った。まるでエンジェルのような寝顔だ。こんな可愛くて、健康な子供を授けてくれた神様に感謝した。
彼の頬に軽くキスをして、ライトを消した。
何が起きているのかわかるまでに、しばらく時間がかかった。
ここは、ホテルで、そう、アフリカのケニアにいるのだったわ。
ジーナは首を掻いた。今、何時なの?
その騒々しい物音は、ジョンがたてているのだった。彼は気が狂ったみたいに、引き出しを次から次とあけている。
「ジョン、何をしているの?」
スーツケースもひっかき回したらしく、衣類が床のあちらこちらに散らばっている。
「ジョン、何を捜しているの?」
ジーナはベッドから下りて、ジョンの腕をゆすった。
「ねっ、ジョン、どうしたというの?」
彼は青い顔で、額には神経質な皺を寄せ、ジーナは背中に寒気を感じ、ネグリジェの襟を引っぱり、あごを隠した。
「何かあったの?」
ジーナはおそるおそる聞いた。あまりにうまく行きすぎていたので、悪いことが起きるのではないかという予感はあったのだ。
「財布を盗まれた。全財産、ぜんぶ、はいっている」
彼の白眼には赤い筋が走っていて、こわいほどだった。ジーナは一歩退いた。
「そんなことないでしょ。置き忘れただけよ。昨夜、寝る前、どこに置いたのか思いだしてみてちょうだい」
ジーナは息を大きく吸い、自分を落ち着かせてから、ゆっくりと尋ねた。
「枕の下。自分の枕の下にいれた」
ジョンが怒ったように言った。
「そこには、ないの?」
「ない。あったら、こんなこと、しているか」
ジョンがいらいらしながら言った。突然冷水をかけられた衝撃が走り、ジーナの顔が一瞬凍った。でも、言い方なんかにこだわっている場合ではないと自分に言い聞かせた。
「どうして。そこにいれたのなら、そこにあるはずでしょう。きっと別のところにおいたんだわ」
ジーナは枕の下、引き出し、スーツケース、バスルームを調べてみた。調べる箇所が狭くなるにつれ、心臓の音がだんだん大きくなっていった。
「別の所になんか、あるわけないさ」
とジョンが叫んだ。「昨日、財布のことが気になったから、上着から出して、わざと枕の下にいれたんだ。それは百パーセント確かなことなんだ」
「でもね、ジョン」
ジーナは右手で左の頬を掻きながら、寝室に戻って来た。「誰かがこの部屋に侵入して、あなたの枕の下から財布を盗んでいくなんて、不可能。そうでしょう」
「きっとその道のプロなんだ」
「枕の下に手をいれたら、誰だって気がつくはずよ」
「だから、達人の仕業だって言ってるだろう」
「でも、誰かが部屋にはいって来たら、私、絶対に気がつくもの」
「今朝、こっちが部屋中をかき回して、大きな音をたてていたのに、きみは気がついたというのかい。ぐうぐう寝ていたじゃないか」
えっ。
ジョンの言い方はさらに冷たくて、ジーナは親指の爪を痛いほど噛んだ。
「音は聞えていたような気がするけど、夢かと思っていたんだわ」
「ということは、誰かがはいって来ても、気がつかないということなんだよ」
「いいえ、誰かがはいって来たら、私は気がつきます」
「ぼくはね、気がつかない可能性があるということを言っているんだよ。わかんないかな」
ジーナは手で口をおおって首を振った。彼ってこんなに執拗な人だったのかしら。
「とにかく、財布がなくなった。それは、ゆるぎのない事実だ」
「あなたは、昨夜ずい分酔っていたから、きっと置き違えた。そうは考えらない?」
「何回も言っているように、枕の下に置いた。それは百パーセント確実なんだ。いや、百二十パーセントはっきりしている」
「そんなに自信があるのなら、なぜ引き出しやスーツケースの中をかき回していたの?」
「うるさい。今、いろいろ考えているんだから、静かにしてくれないか」
「うるさい」という言葉がジーナの心臓をぐさりと切った。
「ところで、昨夜、部屋に戻って来た時は、きみが鍵をかけたよな」
「も、もちろん。ああ、あのう、あの後でちょっとバーに行ったけれど、行く時も、帰った時も、ちゃんと鍵はかけました」
ジーナは言訳をする子供のようにどもった。
「ひとりで、バーへ行ったというのか」
「ええ、少しだけよ」
ジョンの目が険しかった。その目つきは好きではない。
「だって、いくら起こしても、あなたが起きないんですもの」
「あはっ、そうか。わかったぞ」
ジョンがぱちんと指を鳴らした。
「きみがバーに行った時、鍵をかけ忘れた。その間に、泥棒がはいって来て、財布を盗んで行った。そういうことだな」
「ジョン、あなたは責任をすり替えているわ。私がドアに鍵をかけて出かけたのは、百パーセント以上確かです。この手で何度も引っぱって、確かめてみたのだから」
「確かめたと思っているだけじゃないのかい」
「私のせいにするわけね。この手のせいにするわけね」
ジーナはリウマチの手を撫でて、涙ぐみそうになった。
「だけど、それでなければ、納得のいく説明が考えられない。きみがバーに行って、鍵があいている時に、泥棒がはいって来た」
「私の責任にしないでほしいわ。本当に鍵をかけたのだから」
「きみは、時々、軽率なことをするからね。わかっているのかい」
「何を言い出すの?」
「昨夜だって、子供をなくするところだったんだぞ。キャサリンがフィルのところに行ったのに、気がつかなかったじゃないか」
「あなたは大袈裟よ。それに、キャサリンのおかげで、フィルと知り合えてよかったって言ってたじゃない」
「これと、それとは、別の話さ」
「おっちょこちょいなのは、あなた自身よ。クレジットカードを二回もなくしたりして。覚えている?」
「きみときたら、まったく、小さなことだけは覚えているんだから」
「でも、クレジットカードをなくしたのは、本当のことでしょ」
「きみは責任逃れをしようとしている」
「責任のがれって、どっちのことかしら」
「そもそも、きみがバーに行かなかったら、何も起こらなかったんだ。わかるかい」
「何ですって。バーに行こうと最初に言ったのは、あなたですよ。それが眠りこけてしまって。昨夜がとんな夜だったのかわかっていて?普通の夜ではなかったのよ」
「よくわかっているよ。ぼくが、計画を立てんだから。だから、この旅を続けるためにも、財布が必要だと言っているんだよ。ところで、どのくらいバーにいたんだ?」
「・・・・二時間ばかりかしら」
「さっきは少しと言わなかったか。二時間は少しではないよ。もっと正確に言ってほしいものだ。二時間も、バーで何をしていたというんだ?そんなに飲むのが好きだとは知らなかった」
「たくさん飲だわけじゃないのよ。フィルに会ったわ」
「フィルって、誰」
「フィル・マーチンに決まっているじゃないの」
「彼とバーで会う約束をした覚えはないぞ」
「私がたまたまバーにいて、彼がたまたまはいって来た。それだけよ」
「彼はレストランで充分すぎるほど飲んだはずだ」
「彼は眠られなかったのよ。今、人生の危機にいて、悩んでいるんだわ」
「待てよ。レストランでの彼は陽気でよく笑い、悩んでいる様子なんか、これっぽっちもなかったじゃないか」
ジョンは「これっぽっち」を強調して、親指と人差し指を合わせて見せた。
「寂しい人がみんな、人前で、寂しい顔をしているわけじゃないわ。実際のところ、彼は惨めなくらい、混乱している。自殺を考えたりしているくらい」
「彼が、そう言ったのか。なるほど。そうやって、女の同情を引こうとしているんだ。ああ、汚い手だ」
「あなたったら、何を考えているの? 彼は妻に去られて、それを克服できていないのよ。なんでこんなことを今説明しなくっちゃならないのかわからないわ」
「わかったぞ。彼はきみに近づこうと、意図的に、ぼくらのテーブルにやって来たんだ。キャサリンを小道具にして。なんかおかしいと思っていた。なんて奴だ。人が寝ている間に、人のワイフをたぶらかすなんて。奴と話をしなくてはならない。ジーナ、奴の部屋の番号は何番だ」
「あなた、何を言い出すの?彼は誰もたぶらかしてなんかいません」
「うるさい。黙って、部屋の番号を教えろ。教えなければ、フロントに電話して聞くぞ」
「もし、本気で言っているのなら、あなた、気が違っているわ」
「気が違っている?このおれが、気違いだと言うのか?」
「あなた、落ち着いて」
「今、気違いと言っただろ。キャサリン、キャサリンを起こせ。キャサリン、おまえの父親は気違いだぞ」
「あなた、やめて」
ジーナが叫んだ。
「もううちに帰りましょう。こんな旅、そもそも無理だったのよ。もっと現実的であるべきだったわ。来るべきじゃなかったのよ」
「帰るって、どこに帰るというんだ」
「ロンドンに決まっているでしょう」
「いいや、ロンドンには帰らない。もうあそこに住む場所はないんだ。僕たちは、この旅を最後まで続ける」
「時々、あなたが何を考えているのだか、わからなくなるわ」
ジーナは床に散らばっている衣服を拾いあげた。
「時間までにチェックアウトしないと、余計なお金を取られるって聞いたわ。チェックアウトって、何時なの」
「ぼく達は、この旅を続けるんだ。どんなことをしても」
「お金がないと、旅は続けられないのよ。わかっている?」
「会社に頼んで、もう一度前借りを頼むさ」
「いったいどのくらい借金があるのか、知っている?これ以上借りたら、もう一生かかっても、返せないわ」
「一生かかったって、いいじゃないか。ぼく達は、どんなことをしたって、この旅は続けるんだ」
「あなたが旅を続けたいのなら、勝手にするといいわ。でも、私はキャサリンを連れて帰りますから。あなたは、ひとりで、好きなところへ行ってください」
「もうロンドンに住む所はないと言っているだろ。それとも、昨夜、ハンサム男に出会い、もう新しい住処を見つけたとでも言うのかい」
ジーナはジョンに衣服を投げつけて、バスルームに走った。
ジーナはバスタブの端に腰をかけて、泣いていた。泣きすぎて、頭が朦朧とし、芯がずきずきした。
ジョンったら、理由もなしに私を責めた。それは、本当は私を尊敬していないからだ。 フィリップに嫉妬するなんて、言語道断。どうして、あんなひどい台詞が言えるのだろうか。 結局、愛していないということだわ。愛していたら、こんな態度はできないはず。溜め息をついて、立ち上がり、鏡を見ると、寝起きの上、鼻が赤く腫れ上がって、我ながら、醜かった。
メラニーがロンドンのアパートを見つけて、訪ねて来たことがあった。メラニーはジーナが若くも美しくもないのを見て、驚いたようだった。帰りしなに、こう言った。
「言っておくけれど、長くは続かないわね」
ジーナ自身もそう思った。
いつか、こんな日が来ると知っていた。けれど、流産を経て、キャサリンが生まれ、貧しいけれど懸命で、幸せだった六年の間の日々、でも、いつも心のどこかで恐れていた。その日がついに、来てしまったのだ。
ジーナは「ジョン」という字を鏡に書いた。お風呂にはいっている時でも、よくする癖だ。彼のはにかんだような優しい顔が浮かんできて、胸の下に痛みを感じた。離婚が決まった時、早く知らせようと傘もささずに駆けてきた時の赤い顔。
ジーナは涙をこらえながら、彼の名前を拳で消した。
昨日は人生で最高の日、今日は最低の日。なんて、皮肉なんだろう。そんなことはとうにわかっていたはずなのに、今、ようやく気がついたような気がする。
人生は皮肉の繰り返し、・・・・・・でも、それが人生というものなのだろう。
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