5

フィル・マーチンも眠られなくて、バーに下りてきたのだった。

「そうですよね。寝るには、まだ早すぎますものねえ」

とジーナが頷いた。

「そういうことではないんです。実はね、もうずうっと眠られないんです」

フィルが広い額を掻いた。


「仕事のプレッシャーですか?」

「・・・・・・」

「そうなのでしょう」

「ええ、まあ」

フィルは言葉を濁して、眉をひそめたまま遠くを見、何か落ち着かない様子で、身体を揺すった。

「なにか、お困りのことでもおありなんですか」

「困ること…・・ね」

フィルは溜め息をついてから、笑った。ダイニングでの彼とは別人のようだ。

「困ることばかりです」


彼の表情は誰も行かない雑木林の湿りすぎた土みたいに暗い。なにか、昔の自分を感じる、とジーナは思った。

「もしよかったら、話してみませんか。お力にはなれないでしょうけど、話せば気が楽になるかもしれませんから」

「ありがとう。あのう、」

フィルが頭に手をやった。

「時間はおありなんですか」

「時間は、たっぷりとありますよ」

とジーナが笑った。


「ジョンときたら、昨日までとても忙しかったから、眠りこんでしまって。でも、起きたら、ダンスに行くんです」

「ダンスですか。それは、いいなあ」

「ジョンとダンスなんて、初めて。私、若い時、村のダンスコンテストで入賞したこともあるんですけれど。今は足が悪いし、昔みたいには踊れないのはわかっていますが、でも、踊ってみたいの」

彼は唇をひきしめて、何かを捜すように、天井を見あげた。

「今夜、ぼくがどれほどおふたりのことを羨ましく思っていたか、ご存知ないでしょう」

ジーナは二、三度瞬きをして、右手を頬にもっていった。

「ああ、ご家族が恋しいのですね」

「それなら、いいのですけど」

「ご家族はおありなんでしょう。テーブルでご家族のことを思われていたんでしょう」

「イエスとノーと両方です」

「イエスとノー」

ジーナが繰り返した。

「イエス、妻のことを思っていました。でも、妻はもういないんです。ぼくには、家族なんて、ありません」

フィルの右手の指には、結婚指輪がはめられていた。


「ごめんなさい。奥様、亡くなられたのですか」

「いやいや」

フィルが急いで首を横に振った。口のすみに辛そうな笑いが見えた。

「生きています。元気です」

ウェイターが注文を取りにきたので、話はそこで中断した。フィルはジーナにブランディでよいかと聞いてから、ふたり分を注文した。ジーナ達は飲み物がくるまで、たわいのない話を続けた。でも、ジーナは相槌をうちながら、頭の中では、さっきの話の続きを考えていた。フィルの妻に何があったのだろう。


ようやくブランディがくると、フィルはグラスを手で包み、緩く振ってから、目線の上あたりに掲げて、ライトにかざした。

「この色、エーゲ海のようだ。ソフィアがそう言ったことがある」

「奥様の名前ですね。ソフィアって、詩的な方なのですね」

「そうかもしれない。彼女はアルコールは全くだめなんだけど、ブランディのゆったりした色が好きだと言っていた。こんなふうに光を通すと、海になると」

「芸術家。絵描きさんか何かですか」

「彼女はダンサーです。クラシックのバレリーナです」

「すてきですねえ。奥様のダンス、よく、見に行かれるんですか」

「最近は、行っていません」

「お仕事が」

「忙しいからじゃない。来てくれるなと言われたからです」

フィルが言葉を遮って、怒ったように言った。


「僕たち、別居しているんです」

彼が苦い薬のようにブランディを飲んで、息を吐いた。

「そうよね。別居くらい、誰でもしますよね」

「別れ話は、ソフィアから言い出したことなんです。ぼくは、別れて暮したくはなかった」

フィルが憑かれたような瞳で言った。その時の絵が見えているらしい。


ソフィアは十才年下で、フィルがここで強く反対すると、すべてを投げ捨てて走り去ってしまうだろう。だから、ここで理解を示せば、彼女は一度は出ていっても、戻ってきてくれるかもしれないと考えたのだった。その可能性にかけて、内心はいやいやながらも、同意した。それが一年前。しかし、ここ数ヶ月は、留守番電話にメッセージを残しても、返事すらくれなくなってしまった。


それが、数週間ほど前、スーパーの駐車場で、ばったりソフィアに出会ったのだった。ソフィアはジーンズにポニーテールで、自分と暮していた時より若く、幸せそうに見えた。 彼女は両手で紙袋を抱いていた。手伝おうかと言うと手をさしだすと、「いいの」とまるで逃れるように、身体を回した。

「紙袋の中に、ビール缶がはいっていた」

フィルは「考える人」の像みたいに、下を向いた。


ジーナは頷きながら、次の言葉を待った。どうして話がここでとまってしまったのかとちらりと考えたが、先が知りたくて、「それで」とさし水をいれた。

「さっき言いましたけど、覚えていますか。ソフィアはアルコールがだめなんです」

「ああ」

ジーナはテーブルの上の水滴を紙ナプキンで拭いた。

「女性だって、ビールは飲みますよ。パーティとか、女友達のためかもしれませんでしょう」

彼は頭を振って、自分にはわかっている。ソフィアにはもう愛する相手がいるのだ。自分の所には、二度と、戻ってこないだろうと言った。


「ぼくの何が悪かったのだろうと考えるんです。あんなにうまくいっていて、幸せだったのに。どうして、これほど嫌われてしまったのだろうって。ぼくのどこが悪かったんですか。それを考え始めるととても惨めで、頭が混乱して、どうしてよいのかわからなくなる」

「あなたがそんなことで悩まれているなんて、考えてもみませでしたわ。フィルさんなら、もててお困りになるくらいだと」

「もてたことなんか、ないですよ」

彼は両手で毛を引っぱった。その目は狂ったように、テーブルの一点を見つめている。

「私には、フィルさんの今の気持ちがよくわかります」

こんな時はどんな言葉も空しいのだろうなと思いながら、ジーナは言った。


「もうちょっとの辛抱ですよ。ソフィアさんが戻ってきても、戻らなくても、フィルさんは大丈夫。もっとよい道が見えてきますよ。大丈夫。このことはね、フィルさんがより大きな幸せを得るための過程なんです。そう考えてみてください」

「とても、そんなふうには考えられない」

彼が首を横に振った。

「いいですか。この世の中には、幸運な人間と不幸な人間がいるんです。幸運な人間はますます幸運をつかみ、不幸な者は、ますます不幸になっていく。そういう仕組みなんだ。ぼくは不幸に属し、あなたは幸運に属する。ぼくがどんなにがんばって生きていたところで、心から笑える日が二度とやって来るとは思えない。そして、いつまで、この孤独に耐えられるのか、自信がないんです。それが、とても恐怖です」


「そのことは、よくわかります」

ジーナは小声で言って、目を伏せた。

「神というものが存在するのなら、そして神がこのぼくを少しでも思ってくれているのなら、願いはただひとつ、早くあちらへ連れて行ってほしいということです。そうでないと、自分で・・・」

「だめよ、フィル」

ジーナが彼の手を掴んだ。

「こんなことを言っても、わかってもらえないかもしれないけれど、今は、とにかく時間を耐えて、流れにまかせることよ。逆らっても仕方がないことがあるの。人生には、最悪だと思ったことが、最大の幸運に変わることがあるあるのよ。今は無理かもしれないけれど、いつか私の言っている意味がわかる日がきます。フィル、あなたは、ぜったい大丈夫ですから」

「ぼくが大丈夫」

フィルの口元には、皮肉とも、悲しいともとれる笑いが浮かんでいた。

「でも、どうしてそんなことが簡単に言えるなんですか。そんなことが、わかるんですか。無責任なことを言われると、正直言って、怒りさえ感じます。ぼくが仕事の後ひとりになって、どんなに辛い時間を過ごしているのか、わかりますか。もう、一日も生きられないと思うこともある。いや、一時間を生きるのも、とても辛いんです。どうすることもできなくて、ただただ部屋の中を、気違いみたいに、あちこち歩き回るんです。たぶん、気が違っているんだと思います」

「わかりますよ」

「どうして生まれてきたんだろう。何のために生きているんだろう。ぼくはたぶん死という河の傍にいて、その流れを見ているところなんだ。濁流にのまれそうだ」

「ええ」

「ぼくは、いつも誰かを捜している。ひとりでは生きられそうにない。でも、その誰かは、たぶん、この世界ではどこにもいない、と気がついたのです。ぼくは死ぬまで、ずうっとひとりなんだろう」


 ジーナの瞳から涙が流れた。

「ああ」と自分の涙に驚いて、その涙を拭い、笑った。

 涙には、出てくるのがわかる涙と、思いがけなく出てしまう不意の涙があるけれど、こちらは後者だった。ジーナは、泣くつもりはなかった。けれど、記憶のほうが先に触発されて、飛び出てきてしまったようだ。


「私もね、そこにいたんです。以前、本当に、同じことを考えていたんですよ。死ねたら、どんなに楽だろうって、何度も思いました。いったい、何のために、生まれてきたのだろうって」

フィルがジーナの顔を見た。ジーナはそうよ、そうなのよと頷いた。私も同じだった。


「ジーナにも、そんな時があったの?」

「ええ」

「あなたはそんなに明るい。幸せな奥さんの典型的な人に見える。そんな経験を経てきたなんて、想像もできない」

「ジョンに会う前のことよ」

 ジーナは目を閉じて、唇を噛んだ。震えを抑えるために。

「ぼくはね、友達には、それとなく大事にしていたギターやCDをあげたりなどして、お別れをしているつもりなんです。そんなことをしながら、本気なのかどうか、自分でもわからない。今の暗いトンネルに通り抜けられたら、そんなことがあったというと思い出話になるんだろうな、なんて思う時もあるし。いや、絶対にトンネルの向こうには着かないという確信がある時もあるし。もしかしたら、誰かが察して、この腕をつかんでストップと言ってほしい、止めてほしいという気持ちがあるのかもしれない。こんな女々しいこと、ぼくは今まで誰にも言ったことがない。ジーナ、ぼくを止めてください。お願いだ」

 フィルが両指を組んで、その上に顔を伏せた。

 その頭髪はうす明りのライトの下で震えていて、ジーナは手をのせて、撫でてあげたいと思った。

ジーナはひとつ深呼吸をして、腕時計を見た。思い出がよみがえってきて、その重さに頬が冷たくなった。もし自分がフィルだったら・・・・・・。こんなに傷ついている人を、孤独な夜の中に残して帰るわけにはいかない。

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