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ジーナにとって、それは初めて外国旅行というだけではなく、初めての飛行機の旅なのだった。空港でさえ、映画でしか見たことがない。ジーナには、自分以外の誰もが旅慣れているように見えて、荷物検査ひとつにも、やたらに緊張してしまった。ドレスアップしすぎて、まさに新婚さんになっているところも、気がひけた。
飛行機で席についた時、スチュワーデスがやってきてキャサリンに話しかけ、キャサリンは「ハォドゥドゥドゥ。この飛行機はワンダフル。とても、乗り心地のよいこと」とお利口に答えた。ジーナは娘の度胸のよさに内心驚きながら、当り前のような顔で微笑んだ。そして、通路をはさんだ席の客がジュースをこぼしたのを見たら、だんだんと落ち着いてきた。
空港、飛行機、そして異国の空港、大きなホテル、すべて、初めての経験だった。生涯のご馳走を一日で食べたようで、まるで、夢の中だった。自分は今までカプセルのような小さな場所にいてあくせく生きてきたけれど、その外には別の大きな世界があり、そこにはいろんな人々がいて、みんな、なんと逞しく生きていることかと思った。
初日のディナーはホテルの大きなダイニングルームで取ることにした。
風を送るために、古い飛行機のプロペラのような羽根が天井でゆっくりと回り、葉巻の青い煙がためらいながら漂っていた。白い制服を着たマナーのよいウェイター達が何人もいて、キッチンとテーブルの間を、てきぱきと行き来していた。
まるで昔の映画の一場面のようだった。
「パーフェクト」
ジーナは感激に、何度も信じられないと首を振りながら、自分にそう言った。
ジョンはウェイターの扱い方を知っているようだった。キャサリンはロンドンならあと六ヶ月は待たなければ着られない白いサマードレスがよく似合い、自分の娘ながら本当に愛らしいと思った。
この「今」の幸せをあの村の人々に見せたいと思った。元の夫に、元の親友に、村の皆に。
ジョンは赤ワイン、サラダ、ステーキ、それにグリーンアスパラガス、キャサリンにはフレンチフライをつけ加えた。
「アスパラガスですって」
ジーナは大袈裟に眉をひそめた。「ねえ、それいくらなの」ジーナはメニューを顔に近づけて、値段を捜した。
アスパラガスはイギリスではとてつもなく高いのだ。
「心配するなって」
ジョンは笑って、皮カバーのついた大きなメニューをその手から取りあげた。
「まかせておけって。今夜は、きみがレストラン中のアスパラガスを食べたって、払えるだけのお金は持っているんだから」
彼はグレーの上着の胸のあたりを叩いてみせた。
「今夜は、食べたいだけ食べるといい」
「そんなに食べたら、身体がグリーン色になってしまうわ」
「グリーン色は大好きさ」
ジョンがウインクをしながら、笑った。私のハズバンドはなんてハンサムな人なのだろうと思った。この旅の途中で会った人々、ホテルの客、ボーイ、みんなみんな親切だった。今夜は、みんなが優しくよい人で、世界中がすばらしい場所のように思えた。
ジーナは幸せすぎて顔ではたえず微笑んでいたが、その陰で、不気味な恐ろしさも感じていた。こんなことって、続くはずがない。この次に、待っているのは何なのだろうか。今、鏡に自分の顔を写したら、どんな表情なのだろうと思った。たぶん、怯えているはずだ。
いいえ。私は幸せに慣れていないから不安に感じるけれど、普通の人はこんなふうには感じないことだろう。心配症は直さなくてはいけない。楽しめる時は、楽しむことにしましょう。ジーナは迷いを吹っ切って、重いクリスタルグラスの水を飲んだ。
ジーナはダイニングルームの窓側の席に、男性がひとりで座っているのに気がついた。歳は四十にはならないだろう。ダーク・ボガートを若くしたような容貌で、さっきから、外の庭ばかりをじっと見ている。大きなガラス窓の向うには、蛍光ライトに照らされたカラフルな庭が見える。中でも、作りものかと思われるほどのピンク色をした花が、他を圧倒して、はしゃいでいる。
そして、窓ガラスには、それと対照的に、ボガードの沈んだ姿が写っている。
「あの窓側にいる人、イギリス人かしらね」
ジーナはあの人よと目玉を動かして、ジョンに聞いた。
「そう思うけど」
「ひとりで何をやっているのかしら」
「何をやっているって、当然ながら、ぼく達と同じに、食事がくるのを待っているのさ」
「そんなことじゃなく。ねえ、見てよ。ひとりで夕食だなんて、さみしいと思わない」
ジーナは寂しい顔を作って、目をしばたいてみせた。
「ねえ、あの人をここに招待しない?」
「招待?」
ジョンはとんでもないというように頭を振った。「ほうっておけよ。彼に興味があるというのなら話は別だけど」
「やめてよ、何を言うの」
ジーナが睨んだ。
「私は今夜幸せすぎるから、寂しそうな人を見て、何かよいことがしたいと思っただけよ」
「彼はね、家族から解放されて、ほっとしているんだよ。ひとりでゆっくり食べられて、幸せだと思っているんだ」
「誰がひとりで食べたいものですか」
「ぼくには、男の気持ちがわかるからね」
「なぜ」
「男だから、男がわかるのさ」
「それじゃ、あなたもそうなの?」
「何が」
「ひとりで食べたい?」
「ぼくは別さ」
「彼だって、ひとりでは食べたくないはずよ」
「あの様子じゃ、違うな」
「じゃ、賭ける?私、行って聞いてくるから」
「何を言いだすと思ったら。ひとりにしておいてやれよ」
ジョンは早くも、二本目のワインを注文した。キャサリンはフレンチフライにケチャップをたっぷりつけて食べ始めた。フレンチフライを食べているのか、ケチャップを食べているのかわからない。
「ケチャップをそんなにつけないで」
ジーナが注意した。
「いいじゃないか」
ジョンが言うやいなや、キャサリンは白いドレスの胸に赤いケチャップを落としてしまった。それで、ジーナはキャサリンを連れて、レディズルームへ行き、染みを洗い落とした。それでも、少し跡が残った。母娘が席に戻ると、ステーキとアスパラガスが待っていましたとばかりに、運ばれてきた。
「ママがゆっくり食べられるように、時間をあげようね。キャサリンは、もう大きいのだから」
ジョンが言うと、キャサリンは神妙な顔で「アイム、ビッグガール」と言って、大きくこくりとした。
ジーナはステーキを切るのには少々てこずったが、アスパラガスはとても新鮮で、目を閉じて味わった。
ジョンが突然、立ちあがった。白いナプキンが膝から足元に落ちた。
「キャサリンがいないぞ」
「キャサリンはあなたのほうに…」
ジーナがテーブルクロスの裾を引っぱり、下を覗いてみた。キャサリンは一分前には、そこに座って、人形の髪を梳いたり、話しかけたりしていたのだった。けれど、今はそのスポットには、嘘みたいに、誰もいない。
「オー・ジーザス・クライスト」
ジーナがすぐに立ちあがることはできなかったのは、リウマチだけのせいではない。気ばかり焦って、腰が笑ったようになってしまったのだった。
「おお、あそこ」
ほら、あっち。ジョンが指さしたほうを見ると、キャサリンとあの孤独なボガードが手をつないでこちらに向かって来るではないか。彼は椅子にすわっていた時よりずっと背が高く、百八十センチはあると思われる。のっぽボガードと小さなキャサリンがにこにこと他のテーブルの間を通って、ふたりのところまでやって来た。
「はじめまして。フィル・マーチンといいます」
ボガードが丁寧に頭を下げた。
「もし、これからぼくが言うことを聞いても、きっと信じてもらえないでしょう。でも、やってみます。この小さなレディがぼくのところに来て、ひとりで寂しくないかと訊いてくれたんです。それで正直に、とても寂しいと答えました。実際のところ、ぼくはあそこのテーブルでひとり、とても惨めな思をしていたのです。すると、このレディは、自分達のテーブルへ来ないかと誘ってくれました。両親はきっと喜んで迎えるだろうと。それで、ぼくはありがたくそのお招きをお受けして、ここにやって来たというわけです。それはともかくとして、ぼくは、今まで、こんなお嬢さんにお目にかかったことがありません。なんて、愛らしくて、頭のよい」
「マイ・リトル・エンバサダー」
ジーナが小さな大使を抱きしめた。
「それは、どうも。さあ、どうぞ、どうぞ」
ジョンが椅子を引っぱり、グラスを持ってこさせるために、ウェイターに手をあげた。
ジーナは大きく笑い、ジョンの耳に顔を近づけてささやいた。
「ほら、さみしがっていたじゃない」
フィルはカナダ人のビジネスマンだった。
フィルはこの旅行がふたりのハネムーンだと知ると、極上のシャンパンを持ってこさせた。男達はコンピュータがいかに世界を侵略しつつあるかという話で意気投合した。ジョンが気前よくまたワインを注文し、フィルも競うように追加した。
フィルはバンクーバーの古い家に住んでいるという。
「古いって、どのくらい古いんですか」とジョンが聞いた。
「三十五年、いや、それ以上かもしれない」
フィルは、家の築歴を知るには、トイレの水槽の内側を見るといいそうです、というような話をした。
「シャラップ」
おだまりなさい、とジーナが叫んだ。
ふたりの男性は驚いて、先生に怒られた小生徒みたいな顔をした。
「三十五年なんて、どこが古いのよ。うちの村では、一番新しい家だって、八十年だわ」
ジーナが人差し指を立てた。
一瞬おいて、あははは、とフィルが笑った。
「ジーナはおもしろい人だ。こういう人を奥さんにもらうと、いつまでも、年を取らないでしょう」
「本当です。ちょくちょく心臓発作を起こしそうにはなりますが」
とジョンが言った。
「まったくうらやましいことだ。ぼくも、こういうワイフがほしかったなあ。お譲りいただけませんか。いくらでも出します」
「いくら出されても、だめですよ」
とジョンがジーナにウインクした。
「ようやく手にいれた大事なワイフですからね、一生、連れ添います」
「プリーズ」
「ノーウェイ」
「シャラップ」
とジーナが言った。「ふたりとも何を言っているの。飲みすぎたみたいね」
ジーナがテーブルクロスをめくると、キャサリンがジョンの足によりかかって、熊のぬいぐるみのように眠っていた。そろそろ部屋に引き上げることにしましょう。ジーナが目配せをした。
一家は、スイートルームに泊まっていた。
キャサリンをパジャマに着替えさせ、ベッドにいれてら、いよいよハネムーンの夜が始まるのだ。ジョンはホテルのバーで飲み、それから地下にあるダンスホールに行こうねと話し合っていた。ジーナはロンドンに来てから、ダンスになど行ったことはなかったが、昔は村祭りの青年ダンス大会で賞にはいったことがあった。今では足がついていかないからうまくは踊れないと思うけれど、でも、ダンスホールの雰囲気を味わいたい。
ジーナは髪にブラッシをあて、赤い口紅を塗った。ちょっと濃い目の新しい色だ。そして、鏡に向かって微笑んだ。
さあ、今夜の準備ができました。
「ジョン」
ジーナが優しくジョンの名前を呼んだ。けれど、彼ときたらベッドスプレッドをめくってその下にもぐったまま、気持ちよさそうに寝ている。
「ジョン」
今度は、大き目の声で呼んでみた。
反応が全くない。魂さえも、深く眠っている。ああ、どんなに疲れているのだろう。
ジョンがこの二週間、どれほど忙しく、睡眠も充分に取っていないことはよく知っている。でも、今夜は記念すべきハネムーンの第一夜なのだ。ジーナはどうすべきものかと部屋をあちこち歩き回った。やはり、こんなふうに終らせてしまいたくはない。思い出を残したい。
それで、とにかく、少し待つことにした。テレビでも見ようかと、チャンネルをひねった。ジョン・ウェインのでている西部劇をやっていた。アパッチが声をあげて幌馬車を追いかけている。ハネムーンの夜に、西部劇なんか見たくない。ジーナは寝室に戻って、ジョンを揺すってみた。まるで、電池が切れたおもちゃ。充電されて、動き出すまでには、時間がかりそうだ。
時計はまだ十時前を指している。
ハネムーンの夜だというのに、何もすることがないわ。ジーナは白い天井を見て、溜め息をついた。
そうだわ、ひとりでバーに行ってみようかな。
ジーナに、そんな考えが浮かんだ。
そうよ。彼が起きていたら、きっとそうしなさいって勧めたはずだわ。そうね。少し飲んで、戻ってくる頃には、ジョンは元気を取り戻しているはず。そうしたら、ふたりでダンスに行く。
ジーナは大きな木製のキーホールダーのついたエル字型の鍵を、鍵穴にいれて、鍵をかけた。ちゃんとかぎがかかったかどうか、大きなノブを二、三度回して確かめた。このホテルはいかめしく古式で、なんでも大きくできている。
エレベーターを使って、グランドフロアまで下りた。そこに、バーがあるとホテルの案内書に書いてあり、エレベーターの中にはバー内部の写真がはってあった。
バーの入口で中を覗きこむと、半分ほど埋まっているようだ。男性ばかりの姿が目につく。急に心細くなり、部屋に戻ろうかなと躊躇ったけれど、部屋でジョンが起きるのを待つことを思うと、退屈すぎる。タイクツよりも、勇気を出してはいるほうを選んだ。ホテルのバーなのだから、危険なことはないだろう。それに、何かあったら、大声を出せばよい。
ジーナは胃に緊張を感じながら席について、スコッチアンドソーダを注文した。飲み物は早すぎるくらい早く届いて、すぐに空になってしまった。ホテルのバーに慣れていないのが、ばれてしまう。もう少し、ゆっくり飲めばよかったが、氷が大きすぎて、もともとあまりはいっていなかったのだ。もう一杯頼もうかなと考える。それとも、帰ろうか。
その時、入口に誰か見たことのある大男が立っているのに気がついた。あの、フィル・マーチンだった。彼もすぐにジーナに気がついて、まっすぐその席にやって来た。
「ハロー。こんな所でひとり、何をしているんですか」
フィル・マーテンはテーブルに両肘をついて、秘密を探るみたいにささやいた。
「ジョンはどこ?」
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