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ジョンとジーナが正式に結婚できた時、ふたりには、ロンドンで家が買えるほどの借金があった。普通のサラリーマンにはとても払いきれないような高額な慰謝料と養育費、それがメラニーの出した条件だった。


ジーナのわずかばかりの貯金も、ジョンの給料も、すべて借金の返済に回し、ジーナのパートの給料だけで食べていたので、家でころころ太っているのは、キャサリンだけだった。キャサリンは何かにつけキャッキャッとよく笑う子供で、一家の灯だった。四才にしてはのみこみが早く、いろいろな言葉を知っていて、「この子は、将来が楽しみだ」とジーナが働いている間、子守りをしてくれる下の部屋のインド人のシュシマ婆さんからからも言われていた。


そんなキャサリンには年相応の友達が必要で、そろそろ保育園にも入れたかった。それにはもう少し環境のよい所に引っ越ししなければならなかったし、今度は、できれば二部屋のアパートに移りたかった。しかし、いくら工面しても、絶対的に、お金が足りないのだ。その上、ジーナのリウマチの持病が悪化していた。タイプさえうまく打てないようになり、ボスからは新しい仕事を捜すように言われていた。


そんな時、ジョンが新しい仕事を見つけてきたのだった。けれど、その仕事先は、アフリカのスーダンという国だった。仕事はかなりきつい内容だったが、それはどこでも同じこと。彼が一番心配したのは、妻が何というかということだった。なにせジーナはイギリスから出たことがなかった。けれど、ジョンがその話をすると、彼女はあっさりと承諾したので、アフリカとアイルランドを間違えているのかと思ったくらいだった。


「遠い外国に住むのが、こわくないのかい。」

「ぜんぜん」

ジーナは肩をすぼめて、首をすくめた。

「私は小さな村から、たったひとりでロンドンに出て来たのよ。今は三人、何もこわくはないわ」



ある日、ジョンが夕食のテーブルで、後ろに蛙を隠して驚かせようとしている少年みたいに、笑った目をしていた。

「ジーナ、スーダンに行く途中、どこかへハネムーンに行こう」

「ハネムーンですって」

ジーナのフォークが口の前でとまり、グリーンピースが二つ三つこぼれた。

「でもね、お金がないでしょう」

ジーナは普通の顔をしてグリーンピースを口にいれようとしたけれど、手が自分の意志を無視してぶるぶると震えて、全部落ちてしまった。

「お金のことなんか、心配しなくていいから」

「でもね、ジョン、気持ちはうれしいけれど、これ以上、一ペニーも借金は増やしたくないのよ」

「お金より大切なものがあるさ。今度の会社からは、前借りできることがわかったんだよ。そんなもの、あちらで働き始めたら、すぐに返せるんだから。だから余計なことは心配しないで、どこへ行きたいか、それだけ教えてくれればいいんだ」

「でも・・・・・・」

「“でも”はなしさ。一生の思い出になるような旅をしよう。さあ、どこへ行きたいか、言ってみて」

「いろいろ行きたい所はあったけれど、急に聞かれたから、脳が驚いてしまって。何も浮かんでこないわ」


「じゃ、目を閉じてごらん。そうして、見える所を言ってごらん」

ジーナはちょっと緊張しながら目を閉じて、息を大きく吸った。あの憧れの風景が見えてきた。

「何が見える?」

「海岸」

「オッケー。続けて」

「明るくて、あったかーなビーチ」

ジーナはいつも太陽がさんさんと照り輝くビーチに行きたいと思っていた。いつかカレンダーの写真で見たような。それはかつて泊まったことのある、あの古い宿屋の壁にはってあった……。

「よし。まかせておいてくれ」

ジョンが硬い肉切れをようやく噛みきって、頷くようにしてのみこんだ。

「きみを、ぜったいがっかりさせないから」


数日後、ジョンは早くも計画を実行に移した。彼は会社から五千ポンド借り、それでケニア回りの切符とホテルを手配したのだった。

「オー・ロード」

ああ、神様、とジーナの声が震えた。

海岸とは言ったけれど、車で行ける範囲くらいたろうと考えていた。ケニアという国は、アフリカのどこかにあり、きりんや象がいる国。そのくらいしか知らない。自分がそんな国に、ハネムーンに行く日があるなんて、それは想像の外にあることだった。

「どこから、そんなアイデアが生まれたの?あなたが天才に思えてきたわ」

「言っただろう。一生に一度の最高の旅に連れて行くって」

「ケニアには、動物がたくさんいるんでしょう。でも、ビーチがあるなんて、知らなかった」

「あるんだよ。特別にきれいなのが。見てのお楽しみ」

ジョンはジーナの手を取って、切符を握らせた。

ジーナはそれを三秒だけ眺めて、逃げるチキンみたいにばたばたとキッチンに駆けこんだ。

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