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夫のジョンがアパートのドアを早めに数回ノックした。ジーナが娘のキャサリンを抱いて、中からドアを開けるまでに、少し時間がかかった。ジーナにはリウマチがあるので、子供を抱き上げたり、びっこを引きながら歩いたりするのに、時間がかかるのだ。焦っている時には、特に。

「ダダ」

とキャサリンが母の手の中から、泳ぐように身体を伸ばして、お人形のような両手をさしだした。


「オー、マイ・ポンプキン」

ジョンはふたりを抱いて、ジーナの唇にキスをした。顔は雨で濡れていて唇もとても冷たかったけれど、痛いほど情熱的で、ジーナは驚いて目を開いた。戦地から帰還した兵隊さんのようなキスだわ。

「ジョン、ずぶ濡れよ。傘はどうしたの?今朝は持って出かけたでしょ」

ジーナは少し顔を赤くしながら、笑って言った。

「そうだよ」

ジョンは後ろからたたんだままの黒い傘を、手品みたいに出してみせた。

ジーナが首を振った。 使わなかったの?

ジョンも首を振った。 使わなかったさ。

「なぜ」

とジーナが首を傾げてみせた。

ジョンは思わせぶりにじらして、きみをからかうのは楽しいなといった表情の後で、真剣な顔になり、目をしばたいて床を見た。そして、思い橘田に顔を上げて、唇を引き締めた。


「弁護士から呼び出しがあったので、仕事の後、その事務所に寄ったのだよ」

弁護士の話題の時には、どんなに深刻な話が続くのか、ジーナはよく知っている。

「ちょっと待って。まず、その上着、脱がないと風邪ひくわよ。話はそれから」

ジーナはキャサリンを床に下ろし、頭を拭くタオルを取りに行こうとした。

「離婚が決まるよ」


ジョンのその言葉に、ジーナは襟首をつかまれたかのように、引き戻された。

不合格というのは冗談で、実は合格だったことを告げる審査員みたいに、ジョンが早口で言った。顔中が笑いで溢れている。

「何ですって」

「メラニーが話し合いに応じると言っているそうだ」

ジーナはお婆さんの持っていた古い財布みたいに、口を半開きにした。

先月だってジョンの法律上の妻は離婚にはゼッタイにノーノーで、解決する日が来そうには思えなかった。でも、その時がきたのだ。

だから、ジョンはバスから飛び降りると、ひらきにくい傘をあけるくらいなら、走ったほうがましだと、雨の中をアパートまで走って来たのだった。


「だから、正式に、きみにプロポーズできるよ」

 ジョンの顔が、午後の長い昼寝から起きたばかりのキャサリンの頬よりも赤いのは、雨が冷たかったせいばかりではなかった。

ジーナは茶色の瞳を大きくひらいたが、すぐに伏せて、二、三度瞬きした。

「キャサリンを見ていてください。お茶をいれてきますから」


ジーナは身体をゆすって、キッチンに行った。何といっていいのかわからない時、ジーナはいつもキッチンに逃げる。狭いキッチンは、自分に戻れる場所だ。

青いペンキが荒く塗られた細長いキッチンの、その四角い窓から、憂鬱を色にしたような空が見えた。それはヨークにある故郷を思い出させる。あの小さな村にいた時から、雨は好きではなかった。でも、雨は、幸運を運んでくれたことがある。そして、今日も、また。


ストーブの上にかけたばかりのケトルが、もうピピーッと音をたてている。水を足さなかったのかしらと振り返っても、ちゃんとランドリー店の窓から出ているような湯気があがっている。こんな時ばかり、早く湧くのね。

ジョンがキッチンを覗きこんだ。

「ジーナ、泣いているのかい」

ジーナは骨ばった背骨をみせたまま、拳で涙を拭いた。

「さぁ、お茶の用意ができましたよ」


ジョンがマンチェスターの家から姿を消した時、妻のメラニーは何が何だかわからず、もしかして誘拐されたのかもしれない、と疑ったくらいだった。けれど、十才になる双子の娘から、その朝、パパは出がけにふたりの寝室に来て、ふたりを抱きしめ、「こんなパパを許してほしい」と泣いていたという話を聞いた時、何かあるらしいと初めて気がついたのだった。


その彼がロンドンに行き、すでに女と一緒に住んでいるとわかった時、メラニーは荒れて、ディナーセットを床に叩きつけて割った。でも、それは先祖代々のほうではなく、ジョンの姉がくれた安くて趣味の悪いほうの食器だった。これは大嫌いで、前から叩き割りたいと思っていた。


探偵を雇って調べさせてみると、その一緒にいる女はそれほど美しくもなくリウマチ持ちで、それにジョンよりも三歳も年上の離婚暦があるとわかった。メラニーの高尚なプライドが深く傷つけられ、ヒステリー症状が起きてわめきたて、精神分析医にかからねばならなかった。医者の適切な指導と鬱の薬がなかったら、何年もふさぎこんでしまったかもしれない。


けれど、それから二ヶ月たったある日の朝、メラニーは内面から新しい力が湧いてくるのを感じて、毛布を払いのけた。薬が効いたのかもしれない。そうだ、ジョンをとことん罰するのだ、と戦う決心した。ジョンを苦しめることに、生きがいを見つけたのだった。そして、ベッドから起きて、勢いよくカーテンをあけた。

庭には、女主人の苦しみをよそに、さまざまな色の花が咲き乱れ、初夏がもうそばまで来ていたのに初めて気がついた。


ジョンはロンドンに来てから彼女と知り合ったと言ったけれど、そんな話は信じられなかった。彼が彼女をすでに知っていて、その女のために家庭を棄てたのだとしか考えられなかった。

メラニーとジョンの結婚は、初めにこそ、多少のいざこざはあったものの、それは誰でも通る道なはず。夫はしだいに妻の好みのよさがわかり、すべてにおいて合わせてくれるようになっていた。双子の娘が生まれ、ジョンは子供をとても可愛がっていた。メラニーの実家とも、とてもうまくいっていた。


メラニーの父親はマンチェスターに繊維工場を持っており、このままでいけば、彼はいずれ、社長の座に就くことになるはずだった。ジョンは、家庭にも、仕事にも、すべてに、満足しているはずだった。私の言う通りにすれば、すべてうまくいくのよ、とメラニーはよく言ったものだ。最近は、彼があまり簡単に満足するので、それがメラニーの不満だったともいえる。もっと野心をもちなさい、と言っていた。もし、どちらかが離婚を言出すことがあったら、それはジョンではなくて、自分のほうだと、メラニーは心から信じていた。けれど、ジョンは、ある日、妻と、子供、仕事、それに将来もすべてを捨てたのだった。


メラニーはマンチェスターで一番の腕利きという離婚弁護士・ミスター・ホフマンを雇った。そして、離婚争議はロンドンの秋雨のように、いつまでも降り続き、一向にやむ気配が見えなかったのだ。

それが今日、メラニーが条件というのを出してきたのだった。それを全部飲めば、離婚してもいいと。ここまで、四年かかったことになる。ジーナとの間にできたキャサリンはもう二才になっていた。


「私が正しかったわね」

ジーナが紅茶をカップに注ぎながら言った。

「うん、そうだね」

ジョンが微笑んだ。彼は、今日は特別に魅力的、というか、まさに運命の人だと思った。あの夜みたいに。


ジーナとジョンが初めて出会ったのは友人宅でのパーティだった。その時、ジーナは海から放り投げられたカナヅチがあっぷあっぷしているような状況にいて、日常の波に翻弄されていた。だから、男性のことなど考える余裕がなかった。


でも、ジョンを見た時、自分はコーヒーは飲まないのに、コーヒー店から漂ってくる香ばしい香りに思わず振り返ってしまうみたいに、引き寄せられた。そして、話をしているうちに、「いつか、あなたと結婚すると思うわ」と言っていたのだった。


「どうして」

ジョンは驚いて、ジーナの顔をまじまじと見た。彼女が冗談で言っているのか。そういうことを誰にでも軽々しく言う女性なのか。それとも、もしかして正気なのか。けれど、その薄い唇は冗談っぽく、瞳は冗談を知らないドーバーの冷たい海みたいに真剣そうだったから、どちらにも取れた。

けれど、その夜、ジーナはパーティの帰りにジョンのアパートへついて行き、それからずっとふたりは一緒なのだ。

ジーナは時々、なぜそんな大胆なことを言い、ついて行ったのだろうと思うことがある。こんなことは、一生に一度のことだ。それに近いことさえ、なかったのだから。


あの当時、ジーナは何に対しても、自信がなかった。男性に対しては、特に。

人生に山と谷があるとしたら、あの頃のジーナは、深い谷の、どろどろのどん底にいた。息も絶え絶えで、死ぬことができたらどんなに楽だろうとも思っていた。

明日のことは考える余裕がなかった。とにかく生きられるところまでなんとか生きて、それで終りにしようと思っていた。

あの時、ジーナは三十七才、ある事件の後、すべてを捨てて、ヨークの近くの村から、都会のロンドンへ出て来たのだった。よくロンドンっ子のいう「血だらけのロンドン」へ。孤独なロンドンへ。


 

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