涙雨

 もはや家の玄関のドアを開けるにもいつもより腕に力が入った。理由は分かっている。家族に会うのが怖いからだ。


 ただいま、とつぶやくが返事はおろか誰かの生活音すらない。リビングをのぞいても母の姿はなく、どこかへ出かけているのかなとそんなことを思って自室へと向かう。


 そして扉を開けて、私は心臓がギュッと強張るのを感じた。


「何……してるの」


 母がいる。私の部屋に立っている。その手にはノートが力無く横たわっている。私のノート。私が今まで小説を書き溜めてきた、宝物が横たわっている。母は私に顔を向けて、「これはなに」とだけ言う。


 私は、驚愕で動くことすらできなかった。


「ねぇ、ミヅキ。これなに。何を書いてるの」


「それ……は……」


 声が震える。何か言おうとするけど言葉が見つからない。どうすれば小説を書いていたことをそれとなく誤魔化せるか、そればかり考えて頭の中がぐるぐるまわりだす。


「ねぇミヅキ、もしかして——」


 その先に続く言葉は、なんだろう。「もしかして——学校に居残っている時もこんなくだらないことに時間を使っていたの?」だろうか。

 「もしかして——小説家にでもなるつもりなの?」だろうか。


 怖い。

 嫌、見られたくない。

 見ないで。

 私の中を見ないで。


「やめてっ!」


 気づいたら、私はたまらず叫んでいた。


「やめて、見ないで! このノートは、なんでもないから!」


「ちょ……なんでもないことないでしょ? こんな何冊も無駄遣いして」


「無駄じゃない……」


 目に涙が滲んだ。悔しい。私が紡いだ物語を無駄だと言われても、ろくに言い返せもしない自分がたまらなく悔しくて、憎たらしい。


「返して……っ」


「ミヅキ、その前に話を」


「話したくない! 話したってどうせ分からないんでしょ! 私の気持ちなんて!」


 いつからかずっと降っていた雨が、突然豪雨となった。

 降ってはやんでを繰り返した私の雨が。想いが。

 今、堰を切ったように溢れ出してしまった。何もかもを飲み込まんとする勢いで。


「ミヅキ」


「出てって。今は誰とも話したくない」


 目から降る。母の前では絶対に見せたくなかった弱さの象徴が。


「じゃあ、好きにしなさい」


 母はそれだけ言い捨てて、数冊のノートを私に押し付けて部屋を出て行ってしまった。


 本当はこんな風に仲違いしたいわけでもないのに。私が大人になれないから、こうやってきつく当たってしまう。


 素直になれず、強くもなれず、弱くもなれない。私はどこまでいっても中途半端な人間だった。自覚はとっくにしている。


 もう何もかも嫌だと思った。物語を生み出す気にも到底なれなくて、ベッドに身を投げる。


 ふと、なんの前触れもなく「ジュンに会いたい」と思った。ジュンならきっと私を理解わかってくれる。私の小説に対する想いもちゃんと。

 会いたい。会って話がしたい。不安も苦しみも全て吐露してしまいたい。

 だけどそれは彼女との日常を壊しかねなかった。平凡でいてささやかな日々を。やっと見つけた「友達と過ごす時間」を。私が弱さを見せてしまったら。きっとなくなる。


 どうすればいいか分からなかった。分からなくて、ただ溶けたいと思った。窓の外で熟れた太陽が地平の下に落ちていくのが見える。この昼と夜のファジーな境界ごと、消えてしまいたい。攫ってほしい。こんな現実からは目を背けてしまいたい。


 叶わないのは、分かっていたけど。




 翌日もジュンは私のいる教室へと姿を現した。だけど彼女は私を見るなり悲しそうな顔をする。


「なんだかミヅキ……顔色悪いね。何かあった?」


「……お母さんにずっと黙ってたんだ、小説書いてること」


 ジュンは何かを察したのか、口をつぐんで私の話をそっと促す。


「ずっと言えなかった。作家になりたいって。言ったら困らせるし、反対されるって分かってたから。だけど昨日、私が小説書いてるノートがお母さんに見つかっちゃって……」


 俯けていた視線をふと隣に座る彼女に動かした時、私はギョッとした。


 ジュンがルビー色の瞳から、透明な雨をこぼしていたから。


「ジュン……?」


 彼女がなぜ泣いているのか分からない。分からないけど、とても綺麗だと思った。


「そっか……君は、本当にミヅキなんだね」


 ジュンは涙をそっと払ってそんな不思議なことを言った。


「ミヅキ。あの時言いかけたこと、言うね。……私も、将来作家になりたいって思ってた」

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