エンタープライズ

桂枝芽路(かつらしめじ)

エンタープライズ

彼は社会人10年目の30代だ。


今日も朝7時に起き支度をし家を出て、電車に乗って職場に行き、仕事が終わると自宅であるマンションの一室に戻り、夕飯が終わるとネットサーフィンをしたりオンラインゲームに興じたりする。

そして日付が変わった頃合いに電気を消して眠りにつき、また朝7時に眠い目を擦りながら目覚め、また同じような1日を繰り返すのである。


彼はそんな変わり映えしない日常を、ただなんとなく、淡々と過ごして今に至っていた。


ある夏の暑い日の夜の事であった。

彼は何気なくネットで契約している動画配信サービスでスタートレックという海外のSFドラマを視聴した。

特に理由なんてものはなく、ただの興味本位に過ぎない。

そこでは未来の地球人が未知の宇宙を探索して、新しい生命と文明を求め、交流したり調査したりするストーリーが展開されていた。


彼にとってSFとは、スター・ウォーズや宇宙空母ギャラクティカ、インデペンデンス・デイ等に代表される、いわゆる戦争ものであり、スタートレックは真逆の存在だった。

いや、確かに宇宙戦争ものもあった。

幾つかエピソードを無作為に再生してみると、そう言う作品もあったのだ。

だが、明らかに雰囲気は違っていて、彼はそれを面白いと感じず、それ以来スタートレックに手を付けなかった。


ただ、未知の世界を探索するというコンセプトは、どういうわけか頭の片隅に残ったのであった。

それが原因かどうかは分からなかったが、彼は単調な日常を退屈に感じ始めていた。

このままでいいのか、何もしなくていいのか。

特に彼女を作ったり、結婚したりする意思は無いし、今更大きな事をしようという野望も無い。


が、考えれば考えるほど自分に対する疑問が頭をもたげて来る。

30代に突入したから、人生と言うものを考え始めたに違いない、だが今更どうする事も出来ない。

彼はそう結論を付けて、この脳内論争を強制的に終わらせた。


それから数か月が経過し、季節は身を切るように寒い冬になった。


いつものように職場の最寄り駅のプラットフォームで帰りの電車を待っていた時、何故か彼の頭の中にスタートレックを観た時の事が蘇った。

すると急に、何かをしたくなった。

何か未知のものを探索したくなった。


その時、プラットフォームに帰りの電車が滑り込んできたので、いつもの動作で乗り込んだ。

その車内で、彼は無性に何かをしたいという衝動に駆られていた。

何でもいい、何かに挑んでみたい。


今更何だ、という思いが反論するが、とにかく何かをしてみようと思った。


その場で思いついたのは、一駅向こうに行き、その周辺を歩き回ってみる事だった。

思えば職場と反対側には行った事が無かった。


正に彼にとって、未知の世界であった。


そしていつもの駅で下りず、そのまま発車するに任せて川を越え、初めて反対側の世界に足を踏み入れたのであった。


この10年来、見た事も想像した事も無かった景色を見るだけでこみあげて来る感動が、彼の体の内に湧いて出て来た。


いつの間に彼は、賑わう駅の周辺を夢中になって歩き回っていた。

仕事の疲れはどこ吹く風、一度休憩にと初めて見た飲食店で夕飯を済ませ、また探索を始めた。

全てが新しく、ワクワクした。

自分が贔屓にしているレンタルビデオ店も見つけ、品揃えの良さに満足し、今度また来てみようと思った。


そろそろ帰ろうと駅に向かい掛けた時、ふと1つの店を見つけて立ち止まった。


それは個人経営のプラモ屋だった。

ガラス張りの正面から見ても分かる、種類の豊富さ。

彼はそこで、学生時代にプラモデルにハマっていた事を思い出し、懐かしくなって扉を開いた。


彼は主に素組みだったが、ミリタリーのプラモデルに熱中してよく組み立てていた。

積み重ねられている箱の中には、組み立てた事があるプラモデルも多かった。


その懐かしさのあまり、彼は不意にプラモデルを組み立てたくなった。


今まで組み立てた事がないもので選ぼうとして、どれを買ったものかと迷い、暫く店内のあちらこちらを檻の中のトラのようにうろうろした。


と、スタートレックの事を思い出した。

あのドラマでの主役艦の名前は確か・・・エンタープライズ。


ならばと彼は山積みの箱を1つ1つ丁寧に調べて行き、漸く見つけた。


タミヤの700分の1ウォーターラインシリーズ、アメリカ航空母艦、USSエンタープライズCV-6。

宇宙船ではないし、NCC-1701でもないが、構うものか。

そもそも、あの宇宙船はエンタープライズの名前を受け継いでいる設定だ。

何の問題も無い。


ニッパーと接着剤を取ってエンタープライズの箱の上に乗せ、レジに向かい掛けたが、ふと立ち止まった。

彼の頭の中で、挑戦してみたい事が1つ、出来た。


それは塗装だ。

学生時代は素組みしかしてこなかったが、一歩踏み出して色を塗ってみてはどうか?


が、すぐに内なる自分自身が否定する。

今まで素組みしかしてこなかったのに、今更塗装など出来るものか?

失敗するのがオチだ。

だからやめておけ。今まで通り、素組みだけで良い。学生時代だって、それで満足していたではないか。


その内なる声に促されるがまま、レジに向かおうとしたがやはり足が動かない。


彼は自分のやりたい事に意識を集中してみた。


自分のやりたい事は?


未知の世界の探索。


では、今の自分にとって、その未知の世界の探索とは?


そう考えると、彼は一度レジに行って店主に相談した。

店主は親切で経験豊富なおじさんで、自分でその棚に向かうと必要な塗料や道具を揃えて戻って来てくれた。

更に、簡単に色塗りのコツや注意点を教えてくれた。


彼はお礼を言って会計を済ませると、店を出た。


ふと彼は、自分の気分がワクワクで高揚している事に気付いた。

最後にこんな楽しい気持ちを感じたのはいつだっただろうか。


とにかく、これから家に帰ってプラモデルを組み立て、初めて塗装に挑戦する事が楽しみだ。


何の事は無い、小さな変化だが、彼にとっては大きな変化だった。


日常が単調になるか、それともどんな小さな事でも良い、変化のある楽しいものになるか。


それは生きるその人次第なのだ。



<終>





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エンタープライズ 桂枝芽路(かつらしめじ) @katsura-shimezi

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