「どうして、貴方はすぐに気づかなかったの?」


私がそう尋ねると、彼は一瞬筆の動きを止めた。だが、すぐに元の調子に戻る。


「唯が落ちた時、短い悲鳴がした。落下したときの鈍い音もあった。それなのに、貴方が姿を見せたのは私が一通り状況を確認した後だった。屋上の真下にいた貴方なら、もう少し早く異変に気づくことだってできたんじゃない?」


「どうしてって言われてもねぇ。手が離せないくらい、制作が佳境に入っていたからだよ。一段落ついたところで様子を見ようとしたら、彼女が倒れてたってわけ。驚いたよ。119番なんて、初めてかけた」

彼はふっと笑みを浮かべて告げた。


「本当は、あのとき、貴方も屋上にいたんじゃないの」

私が言うと、彼の頬がピクッと動く。

「君は僕の姿を見たのかい」

「ううん、あのとき屋上はそもそも柵が高いから唯の首から上しか見えなかった。君がその後ろにいたとして、見えなくても不思議じゃない。それに、唯が落ちた後、私は唯の方を見ていて上にまで注意がいってなかった。屋上にもうひとりいたとしても分からない」

「何が言いたいの、君は」

口調はやんわりとしているけど、言葉尻からは苛立ちが伺える。


 放課後の美術室。今日から彼が作業を再開すると聞いて、私はここを訪れた。電気はついていなかった。薄暗くなった部屋で、彼は定位置に座っていた。差し込んだ夕日が、振り返った彼の顔をオレンジ色に染める。


私は彼に問う。


「佐久間くん、貴方が唯をあそこから落としたんじゃないの?」



佐久間くんは笑い出した。

「何を言い出すかと思ったら。顔を出すのが遅かったくらいでそんな言いがかりをつけられてもねぇ、困っちゃうよ」

乾いた笑いが響く。でも、それを遮るように告げる。


「ソックスだよ」

彼の笑い声が止まった。

「あの日、唯の白いソックスには絵の具がついてた。ピンクとかイエローとか、ビビットカラーが沢山。でもね、唯は鮮やかな色を使わない。最近描いていた絵も、落ち着いた色味だった。だから、あれは唯がつけたものじゃないの。……ねぇ、佐久間くんは、ビビットカラー、よく使ってたよね」

私は彼の描き途中の絵を指差す。彼の絵には蛍光色がふんだんに使われていた。


「確かに、俺はこの手の色をよく使うよ。でも、俺はほら、タッチが荒いから。そのせいで唯の足元に飛び散っちゃったのかも」

「それはないよ。絵の具が飛び散ったってレベルじゃなかった。べったりついてたから」

「そっか、じゃあどうしてついたんだろうね」

「佐久間くん、貴方のその手よ」


ビビットカラーで汚れた手。彼はこまめに手を洗うタイプじゃなかった。この前一緒にアイスを買いに行ったときだって、彼の手はカラフルだった。そして、私のカップにまで色がついてしまうほど、絵の具の乾きが遅い。


「その手で、貴方は、唯の足首を掴んだ」

彼は筆を置いて、自分の手をまじまじと見つめた。

「ひとの足首を掴む機会なんてめったにない。たとえばそう、誰かを殺す時くらい。貴方は、唯の足首を掴んで持ち上げるようにして彼女を屋上から落とした。あの柵の高さじゃ、唯の身長では柵が邪魔で突き落とせない。柵から頭しか出てないんだもの。持ち上げなきゃ、落とせない。だから君はそんな奇妙なやり方を取るしかなかった」

そうでしょ、と尋ねた。でも彼は認めなかった。


「そんなの空想に過ぎないよ。受験勉強のし過ぎで頭がおかしくなったんじゃないの。それともこの夏の暑さで脳がやられちゃったのかい」

彼はとうとう言葉を選ばなくなった。

「たったそれだけで僕を犯人呼ばわりされてもね、いい迷惑だよ」

「まだあるんだよ」

間髪入れずに私は言う。

「唯の手を握ったときにね。あの子の手はヌメッとしてた。何かがついてたのよ。その残り香を嗅いでみるとね、覚えがある匂いだった」

彼の近くに歩み寄る。近づいただけでも分かった。ああ、確かに、同じ匂いがする。


「とっても、爽やかな匂いだった。そうよ、あれは――。あなたの、整髪料の香りよ」


私は続ける。

「ねぇ佐久間くん。あの日、3階から顔を覗かせた時、滅多に崩れない貴方の髪型が歪になっていたのは、どうして」

彼は何も言わない。きっと唇を噛んで、俯いている。

「私が触っただけでねっとりした付着物に気づいたんだから、唯だって気づいた筈。普通はすぐ拭おうとするものでしょう。でも、彼女はそれをしなかった。できなかった。なぜなら彼女の手にワックスが付いたのは、彼女が転落する直前だったから。そのワックスは、彼女が抵抗したときに付着したものだから」

だからね――と私は彼に突きつける、私の導き出した、真実を――。


さらに、告げる。


「貴方が唯を殺そうとしたのね」



暫くして、佐久間くんが口を開いた。

「全部、君の憶測だよね」

彼は結局認めなかった。

「ちゃんとした証拠はどこにもない。汚れたソックスだって、ワックスの匂いだって、今更どうやって立証するんだい。総て君の思い過ごしだと言われるだろうね」

私を見つめる彼の瞳は暗く淀んでいる。

「確かに、そうね。でも唯が目を覚ましたら、どう?貴方の罪は忽ち暴かれる」

そうだね、と彼は力なく笑った。


「まだ、生きているんだった」


彼は優しい顔のままでそう呟いた。その言い草にゾッとする。急に化けの皮がべらりと剥がれたみたいだった。彼は、本当に恐ろしい人かもしれない。ここに来て初めて危機感を覚えた。なんで一人で立ち向かおうと思ったんだろう。私、馬鹿なの?……でも、ここで怯むわけにはいかなかった。


「どうして、こんなことを――」

私の問いかけを遮るように、彼は言った。


「憎かったからだよ」

彼はあっさりと白状した。


「ずっと死ねばいいと思っていたんだ。彼女がいなければいいのにって。何度も殺そうと思った。でも我慢していたんだ。そうして積もった憎しみが蓄積して、あるときタガが外れた。それが、あの日だったっていうだけだよ。僕はずっと、唯ちゃんがいなくなるのを、願っていたんだ」

佐久間くんも、また、彼女に対して劣等感を抱いていたというのか。そんな……。でも、どうして、佐久間くんが――?彼は、持っている側の人間じゃないか。戸惑う私を、彼は鼻で笑った。

「君には、分からないだろうね」


冷たい微笑みだった。


「天才をもっとも憎んでいるのは、天才なんだよ」


【続】




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