Ⅵ
それ以来、美術室には行っていない。行く理由がなくなった。それに私だって受験勉強で忙しくしていた。彼女のところに行って喋る時間が無駄だと思った。私はもっと他にやるべきことがあったから。彼女の花が咲くのを見ることは、もうないだろう。そう思っていた。でも、私は運良く、いや運悪く、なのだろうか、その場面に遭遇してしまう。
それは、美しい花が散るところだった――。
*
茹だるような暑さの中、帰路につこうと門へ向かっていた時だ。ギリギリまで日陰にいたくて、私は職員棟がつくった影の縁を歩いていた。
突然、影の一部が動いた。見上げてみると、屋上に誰かが立っていた。柵が高いせいで頭くらいしか見えない。あんなところに昇って、危なくないのかしらなどと、ついぼんやりと眺めてしまったのだ。すると、その屋上にいる人物が両手を振り出した。知っている人だろうかと目を凝らしてみる。逆光で顔までは見えなかったが、そのシルエットに見覚えがあった。
唯――。
夕焼け空に揺れるポニーテール。ああそうだ。あの屋上の下が美術室なのだ。休憩しているのだろう。だけど、誰に手を振っているんだろうか。辺りを見回すけれど、誰もいない。補習後教室に残って勉強していたから、皆とっくに帰ってしまっているのだ。ここにいるのは、私だけ……。
もしかして、私に振っているんだろうか。あの日、口論して以来口を利いていない私に。馬鹿なの?もしかしてまだ親友ごっこができると思ってるんだろうか。あんなに酷いこと言われながら、それでもまだ縋りたいって?冗談はよしてよ。私達の関係はもう終わったのよ――顔を背けようとした、その時だった。
短い悲鳴が聞こえ、彼女の身体が屋上の柵を越えた。
彼女は真っ逆さまに落下する。
白いセーラー服が風にはためき、チェックのスカートが花のように咲く。
ああ、唯が――落ちる。
まるで花が散るように――。
ほんの一瞬のことだった。でもその瞬間だけはスローモーションみたいだった。映画のラストシーンのような彼女の散り際を、私はうっとりと眺めていた。
ほどなくして、彼女の華奢な身体は地面に叩きつけられる。鈍い音で、我に返る。私の前に、彼女が転がっていた。最初は気が動転して、何が起きたのか分からなかった。でも、彼女の様子を見て、理解した。彼女は、屋上から飛び降りたのだと――。
慌てて、彼女のもとに駆け寄る。彼女は四肢を投げ出して、仰向けで倒れていた。頭からは真っ赤な血が流れ出ていた。鮮血がグラウンドの土に染み出してゆく。その色の毒々しさに目を背ける。門に向かって投げ出された脚。白い靴下にべったりついたピンク、イエロー、ネオンブルー。生気を失った肌の色。広がる血。白、赤、白、赤――。
――確かに、確かに何度も思った。唯なんて死ねばいいのにって。実際、この前別れ際にそれに近いことを言った。さっさと枯れてしまえばいいのに。確かに言った。だけど、だけど、それはあの子に呪いをかけるためで、本当にそんなことを思ってたわけじゃ――。
その時、彼女の身体が釣り上げられた魚のようにぴくんと痙攣した。ああ、まだ、生きてる――。まだ、大丈夫なんだ――。彼女の無事に胸を撫で下ろす。そして気づいた。ああ、私は、私はやっぱりこの子が好きなんだ。愛してるんだ。憎いけど、愛してるんだ。
「唯」
唯に何度も呼びかける。
「死なないで」
死なないで。お願い。もう一度、私に美しい花を見せて。
指で彼女の手をなぞる。彼女が私の手を弱々しく掴んだ。振り解ける、筈がない。もう一方の手でポケットを探る。救急車、呼ばないと。それなのに携帯がない。教室に忘れたかもしれない。こんなときにかぎって、と焦っていると、3階の窓が開いて佐久間くんが顔を出した。彼の自慢の髪型は酷く崩れている。でも今はそんなことはどうでもいい。
「何かあったのー」
ナイスタイミング。
「救急車!」
え、と戸惑う佐久間くん。
「救急車呼んで!唯が血を流してるの!はやく!電話!」
気づくのが遅いけど、おかげで助かった。
「急いで!」
彼女の手を握ったまま、叫ぶ。どうか間に合って。ただそれだけを願って――。
私の叫び声で先生たちも気づいたのか、何人か外に出てきて彼女に適切な処置を施してくれた。その間も、私は彼女の手を握っていた。救急車がやってくるまで、私はその手を離さなかった。彼女は救急車で搬送されるまでは何とか持ちこたえてくれた。意識はなかったが、息はあった。サイレンの音が遠ざかる中、彼女の掴んだ手をぼんやり見つめていた。唯が握ってくれた手の温もりが忘れられない。汗ばんだ手の感触。ねっとりとしていた。握ったその手には、爽やかな香りが残っていた。
【続】
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