Ⅴ
その日も暑かった。教室を出ると、傾いた陽光に顔を灼かれる。日焼け止めしたっけ、と一瞬頭を過ったがそれどころじゃなかった。一刻も早くここから逃げ出したかった。
今日は懇談だった。模試の成績を踏まえての話し合い。この前受けたばかりの模試は思いの外早く返ってきた。第1志望から第3志望まで、軒並みD判定。第4の地方私立がかろうじてC、だけど手放しには喜べない。それに、国公立に行かせたがっていた母親は先生の前でヒステリックに喚き立てて、話し合いどころではなくなった。ほんとに、最悪だ。あの人はひとりでさっさと帰ってしまった。家に帰りたくない。どうせ帰ったらあの話の続きだ。あー最悪。明日から先生に合わせる顔がない。溜息をつくしかない。そうだ、あの子のところに行こう。美術室の方を見上げた。美術室は教室とは別の棟にある。職員棟3階の端。電気がついている。あの子がいる。私は駆け足で階段を昇っていった。
いつも通り、彼女はカンヴァスの前にいた。
「あら、おつかれさま。どうだった、懇談」
ドンッと荷物を投げるようにして置いて、机に座った。
「どうもこうも、最悪。うちの母親途中からヒスり出すし、結局志望校決まらないし」
あれま、と彼女は口元に手を当ててわざとらしく言う。
「模試の結果も最悪よ。あんなに一生懸命やったのに、全部DDD、かろうじてC」
「うーん。まあ大健闘ってところじゃない。葵は頑張ったよ」
その無責任な発言がなんだかムカつく。ハナにつく。
「うちらがこんなに焦ってるのに、唯は涼しい顔ねー」
ごめんね、となぜか彼女はしおらしく謝る。もう、そういうのがムカつく。
「私も才能が欲しかったなぁ」
彼女のカンヴァスを見る。萎れた花はこの前に比べて格段に生気を失っている。朽ちかけのようにも見えた。
「才能が開花する、なんて言うけどさ、所詮端から種を持ってる人じゃなきゃ、花は咲かないのよ。種を持たない私達がどれだけ必死こいて足掻いたって無駄なんだよね」
種を持ち、花を咲かせた彼女に向かって当てつけを言う。
すると、意外にも彼女が口を開いた。
「才能があってもさ、必ずしも生かせるとは限らないのよ。お花みたいなもの。たとえ咲いたとしても、あっという間に枯れてしまうかもしれない」
才能があったってうまくいくとは限らないとでも言いたいのだろうか。それを成功した側の人間が言ったって何ら響かない。むしろ逆効果だ。私はそんな厳しい世界で花を咲かせたの、というすっごい嫌味にも取れる。
「チャンスを持たない人間にとっては、一度綺麗に花開いただけでも充分羨ましいんだよ。これまで何度も上手に花を咲かせてきた天才さんには分からないかもしれないけどね」
そう言ったとき、彼女の顔が明らかに歪んだ。諦めたような笑みは消えていた。
「天才って言葉、嫌い」
冷たい声が美術室に響く。
「才能ってのも、嫌い。私だって努力してるから。いろんなものに打ちのめされて、それでもって思って歯を食いしばってやってるんだよ。なのに、そんな簡単な言葉で私の努力を踏み潰そうとしないでよ。なかったことにしないでよ」
へぇ、反抗するんだ。いつもは申し訳無さそうにするくせに。悲しそうに笑うくせに。それも嫌だったけれど、こうもはっきり言われるのも、ムカつく。
「ふぅん、天才の悩みは随分高尚だね」
唯の神経を逆撫でするように、いましがた嫌いと言った言葉を使った。
「恵まれてるくせに、それ以上を欲しがる。私にもっと優しくして?悪口は言わないで?ほんと唯って強欲ね」
「私は恵まれてなんかいない。努力してるから。その成果が実っただけ!」
「努力?そんなの私達だってしてるわよ。自分だけ特別みたいに思ってるの?私だって、あんたと同じくらい、いやそれ以上やったわよ。それでもね、どれだけがんばったってね。報われない人がいるの。努力は、平等に報われることはないの。私よりあとから始めたくせにめきめきうまくなって、私がかすりもしなかったコンクールで入選して、ねぇ、あんたさ、私の気持ち、考えたことある?私達を踏み台にして、今のあんたがいるということをお忘れ?あんたは恵まれてるんだよ、才能に」
自分でも、もう何を言っているのか分からなかった。ただ確かなことは、憎しみをせき止める堤防が、そのとき決壊したということ。彼女への積もり積もった憎しみが、解き放たれたということ。そして、もう親友ごっこは続けられないのだということ。彼女の顔面はみるみるうちに蒼白になっていく。かさついた唇が震えていた。私は天才を睨みつける。獲物を逃さないように確実に追い詰める。
「皆努力してる中で、あんただけ下駄履かせてもらってるの。それで皆以上に努力しました?ふざけないでよ!あんたは天才なの!だから、憎まれたり悪口言われたりするくらい我慢しなさいよ。それくらい甘んじて受け入れなさいよ。私達の呪いを背負ってよ!それが、天才が背負うべき業でしょ!」
言いたいことを全部言えて、せいせいした。中途半端にいたぶるより、やっぱり思いっきり殴ったほうが気持ちいい。最初から分かりきっていたことだった。だけど、これまでできなかったのは、私が親友ごっこに酔っていたからだ。私はこの関係に依存していた。都合よく甘えて、都合よく憂さ晴らしできる存在。全部「親友だから」で許せてしまう関係。最低じゃないか、私って。もうこれで終わりにしよう、そう思った。自分のためにも、彼女のためにも――。バッグを乱暴に掴み、ドアに手をかける。
「待って、葵――」
唯に腕を掴まれた。でも、その手を振り解く。もう私にあんたという安定剤は必要ない。彼女の向こうにあるカンヴァスを睨んだ。萎れた花。名前も知らない、花。
「さっさと枯れてしまえばいいのに」
そう吐き捨てて美術室を出た。
【続】
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