Ⅳ
補習帰りに唯のところに寄ろうと思ったところ、佐久間くんと出くわした。今日も短髪はハリネズミみたいだ。ハリネズミは不安を感じたり、警戒したりするときに針を逆立てるらしい。けど、当の彼は何の悩みもなさそうで飄々としている。まったく、羨ましい限りだ。
「ちょっとー、露骨に顔しかめないでよ」
彼は悪い人じゃなさそうだけど、人を懐柔してきそうな感じがして少し苦手なのだ。唯がいれば普通に話せるし、いじることもできるのだけど、2人きりというのは気まずい。うまく取り繕えるか不安だ。私の毛も逆立ってないだろうか、なんて考えた。
「葵ちゃん、今日は唯ちゃんのところに行くの」
彼はしれっと私のことも、ちゃん呼びし始めた。別にいいのだけど、そういうやたらフレンドリーな人は得意じゃなかった。距離感がバグっていると言うか、一気にこっちの領域に踏み込んでこようとするので、脳が危険信号を出しているのだ。でもここで嘘をついても、どうせ美術室で彼と会うことになるので正直に言う。すると、彼はそっかと相槌を打って、続けて言った。
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「やめようって思ったことはないの」
彼の後ろをついていきながら、ふと思って聞いてみた。絵のこと、と聞かれたので、勿論と返す。
「そりゃー、ないわけないじゃん」
彼はからりと言った。
「今でも時々しんどくなるよ。一回筆を折ったこともあったんだけどね、結局無性に書きたくなって、もう衝動が抑えられなくって、また始めちゃった」
性ってやつだね、と彼は困ったように笑った。そんな衝動、私にはなかったな、と思い返す。あれ以来きっぱりと絵をやめてしまった自分は、やっぱり何も持っちゃいなかったんだろう。自分の空っぽさが悲しかった。その虚しさを払いたくて、明るい口調でそうなんだ、と返す。
「大学は推薦?」
「うん、まぁ今のところは。使えたらいいなぁって思ってるんだけど」
彼は少し苦い顔をした。含みのある言い方だ。うまくいくかは分からないのだろう。自信なさげで、力なく笑って見せるのが私には痛々しく映った。
「人生そんなに甘くはないってのは分かってたんだけどね。いざ直面すると厳しいよ」
これまで散々才能に甘えていたやつがちょっと壁にぶつかったくらいで、よく言うよ――そんな言葉は飲み込む。彼女以外に、矛先を向けちゃだめだ。自制心はちゃんと働いた。
「君も大変なんだねー」
心にも思っていないことが流れるように口から出てきて、そんな自分に関心してしまう。
彼に連れられてやって来たのは渡り廊下の自販機だった。この自販機だけ、アイスが売られている。きっと彼はいつもここまで買いに来ているのだろう。
「唯ちゃんがアイス食べたいって、それで俺がパシられたの」
彼はへらへらと笑い顔で言う。
「パシられるのが嬉しいって、Mなんだ」
「違うってば。もう、葵ちゃんまでイジりだすんだから」
そう言いながらも彼は満更でもなさそうな顔をしている。
「でも、こういうの、嫌いじゃないんでしょ」
「まぁね」
彼は小銭を連続で投入する。硬貨の音が2人の間で響く。彼は迷いなくボタンを押した。ピッと音が鳴り、落ちてきたのはバニラアイス。
「佐久間くんっていっつもバニラじゃない?」
「バニラは王道だろう」
「よく飽きないねー」
とぼやいてみる。すると、
「葵ちゃんも、好きなもの選んで」
彼は小銭を入れて言った。いいよ、と断ったけれど、いいからいいから、と彼の圧に負けてボタンを押した。レモンシャーベット。彼がかがんでカップを取る。はい、と私に差し出したその手はやけにカラフルだった。カップにも色がついている。まあ文句は言わないけれど。
「唯ちゃんは、チョコアイス」
と彼はまた小銭を入れる。ボタンを押そうとするとき、彼がふと動作を止めて言った。
「気になってることあるんだけど、いいかな」
彼が言った。何のことだろう。検討がつかないまま、なーに、と問う。
「葵ちゃんさ、唯ちゃんと話してるとき、たまにすごい顔してる」
あまりに突拍子もない事で戸惑う。
「すごい顔って……どういう?」
「なんか、歪んでるの。いつもの葵ちゃんじゃない。怖い感じ」
「自分じゃ分かんないなーそういうの」
無意識のうちに、感情が顔に出てしまっていたのだろうか。それは気をつけないと。
「わざとじゃないなら、仕方ないけど」
ごめんね、突然失礼なこと言って、と彼は謝る。それからボタンを押した。ピッと音がなり、ごろりとカップが落ちる。
「教えてくれて、ありがとう」
いやいや、と彼は手をひらひらとはためかせた。
「唯ちゃん、最近悩んでるみたいだし、葵ちゃんと何かあったのかなって」
そんなわけないじゃん、と笑って返す。別に私達のこの関係は最近始まったことじゃないよ。それに、悩みなんて勝手に背負わせておけばいいじゃん。どうせ大したものじゃない。そんなものにも耐えられないなら、勝手に潰れて自滅しちゃえばいいんだよ。
「葵ちゃん、その顔だよ」
彼は言った。
「すっごく歪んでる」
その日はアイスを食べながら3人でダベった。彼女は私といるとき、とびっきりの笑顔を見せてくれる。まるで花が咲くかのよう。その無邪気さが可愛い。綺麗。一刻も早く、茎をへし折ってしまいたい。そんな衝動に駆られる。この花が愛おしくて、同時にとっても憎い。本当に、許せない。この笑顔は罪だと思う。彼女は贖うべきだと思う。そう考えていると、また顔が歪んでいないか、と急に心配になった。私は顔の動きを確かめながら慎重に彼女らと話をした。
もしかして、唯も気づいているのだろうか。気づいていて見逃しているのだろうか。天才を羨むことしかできない哀れな人、天才に嫌味を言うことしかできない愚かな人、そうやって内心馬鹿にしているのだろうか。木のスプーンをシャーベットに突き立てながら考える。シャク、シャク、という小気味よい音がどこか遠くに聞こえた。
【続】
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