彼女の描いた絵を眺めていた。


 煤けたクリームの壁を背景として、倒れた花瓶が描かれている。その周りには萎れた花束が散らばっている。下側にモチーフが散りばめられており、上部は壁のみ、だがそこにも緻密な描写がなされている。壁を描く一筆にも抜かりがない。花の褪せ具合もまた絶妙だ。全体的に色味が抑えられていて、それがまたよい。リアリティがあった。

 やっぱり、彼女の才能は本物だ。虚構をも切り取り、あたかもカンヴァスにそっくり移したかのように見せる、その技術。向こうの世界の静けささえも感じる。すごい。この間来たときは色をつけ始めた頃だった。それがたった1週間でこんなに本物に近づくなんて。つい見入ってしまう。


「恥ずかしいから、そんなに見ないでよ」

唯は照れくさそうに言った。


「やっぱりさ、あんたは凄いよ。天才」

私はついしみじみとそんな言葉を口にする。そうかな、と彼女は一層恥ずかしそうにする。


「これ、もう完成なの?」

「いや、まだかかるかな。重ね塗りしたいところがあるし」

これで充分なんじゃないかと思った自分が恥ずかしくなった。彼女にとってはまだ完成ではないのだ。どこを塗るのか、これ以上塗るべきところがあるのか、私には全く分からないのだけど。


「仕上げ間近なのに邪魔してごめんね」

「でもちょうど休憩しようと思ってたところ。来てくれて嬉しい」

彼女はそう言ってエプロンを脱いだ。

「それ、使ってくれてるんだ」

エプロンは私が去年の誕生日にプレゼントしたものだ。絵を描く時、絵の具で制服を汚さないようにとあげたものだった。唯は青色が好きだったので、この色にした。今はグレーやらプラックやらの絵の具がついてくすんで見えるけど、もとは随分鮮やかな色をしていたのだ。


「うん、これ着ると、なんだかちょっと心強く感じるんだよね。葵がいるみたいで」

小っ恥ずかしいけど嬉しいことを言ってくれる。


「じゃあこれで私がいついなくなっても安心だね」

「ちょっとー。悲しいこと言わないでよ」

「唯、これを私だと思って肌身離さず持っているのよ」

「そこまでいじらなくてもいいじゃん、意地悪ー」

と戯れていると、急にガラガラガラ、と美術室のドアが空いた。私達はピタッと動作を止める。


 入ってきたのは佐久間くんだった。ネイビーのツナギを着た男子。頭の両側を刈り上げて、あとはハリネズミみたいに逆立てている。彼が入ってくると、いつも柑橘系の香りがする。ワックスの香りだと言ってたけど、多分つけ過ぎだ。入ってきたのが先生じゃないと分かって、ほっと安堵の息を吐いた。この前サボっていることがバレて大目玉を食らったばかりなのだ。


「ちょっと佐久間くん、ノックくらいしなさいよー」

唯が彼に文句を言うので、そうだそうだーと加勢する。


「女子だけの部屋じゃあるまいし、第一ここ美術室だぞ」

佐久間くんは呆れたように言った。


 彼もまた、唯と同じように美術系の大学を狙っているらしく、ここで作業をしている。美術部で一緒だったというのもあって、3人で話すこともある。ひょろっとした彼はシトラスの香りを振りまきながら私達の前を横切って、自分の作業スペースに戻っていった。


 彼の作品は、唯の作品よりも随分大きい。カンヴァスは海の中の一区画を切り取ったようで、いろんな生き物が描かれている。ビビットカラーで埋め尽くされていて、実際はそんな色ではないのだろうけど、そうであるような説得力がある。絵の向こうで生き物たちが今を生きている、そんな気がするのだ。漲るエネルギーを直に感じる。タッチの荒々しさも影響しているだろう。


彼女の絵が「静」なら、彼の絵は「動」。


2人の作風は正反対だった。作品を眺めていると、佐久間くんは私の視線に気づき、こちらの方を向いた。

「どうだ、凄いだろ」

誇らしげに胸を張るので、

「うーん、私は唯の方が好みかな」

と言うと、佐久間くんはずっこける真似をする。こういうお調子者みたいなところが、彼が愛される理由のひとつだと思う。


「休憩に行ったと思ったら、まーたアイスか」

唯が指摘して、佐久間くんは慌てて両手を後ろに隠した。だがそれも無駄だと観念したのか、机の上にカップを出す。最近設置されたアイスの自販機で買ったのだろう。


「暑いとねぇ、冷たいもんが食いたくなるんすよ」

「この部屋めちゃくちゃ涼しいけどね」

私は間髪入れずにツッコむ。


「集中すると甘いものが欲しくなるんすよ」

「一昨日から全然筆が進んでないくせに」

唯からも反論され、しょぼくれながらも彼はカップの蓋を取った。


「このバニラ、すっげー上手いんすよ」

ご丁寧に蓋の裏まで舐めている。人が見ている前でと思うけれど、飾らず素を見せているということは私達に心を許している証なのだろうと大目に見る。


 ところでなんだけどさ、と佐久間くんがアイスを口に運びながら言った。


「唯ちゃんって、なんだか少し変わった?」

唯の頭がピクッと動いた。


「モチーフが明らかに暗いというか。あと彩度が低くなった。会ったばかりの頃はもう少し明るい色も使っていたよなーって。今はなんというか薄ら暗い、後ろ向きな感じがする」

確かに、と思った。倒れた花瓶に、繊細で緻密なタッチはいい。リアリティもある。でも、彼の言った通り唯の絵はネガティブなオーラを纏っている。絵というのは描いた人の心を如実に映し出す。だから、彼女は何か悩んでいるのではないか、佐久間くんはきっとそう言いたいのだ。


「別に深い意味はないよ」

彼女は何も気にしていないような口調で言った。

「何もないなら、それに越したことはないんだけどね」

彼はまたアイスを掬い取る。甘いバニラの香りが鼻先を掠めた。


「何かあるんなら、私に相談してよ」

私は唯の顔を見て告げた。

「受験勉強の間だっていつでも駆けつけるんだから」

口から綺麗なことばかりが溢れ出す。唯が何か悩みを抱えていたとして、だ。悩めばいい。苦しめばいい。それが、才能を持ったものの業だと思うから。私が傍にいてあげる。寄り添うふりをして、優しくいたぶってあげる。


唯は

「ありがとう、でも大丈夫」

と私に笑い返した。それから佐久間くんの方を見て、

「君こそ、大丈夫なの。最近行き詰まってるみたいだけど」

「俺は別に……なんてことないよ」

「困ったことあればいつでもいいなよ。私達ライバルだけど、一緒に戦う仲間なんだから」

「戦友、ってか?そりゃこっちのセリフだよ」


戦友、か。2人のやり取りを見ていると、彼らの関係が羨ましくなることがある。私も、こんなふうに唯と切磋琢磨してみたかった。彼女の好敵手であり、支え合う仲間になりたかった。


 でも私は持たざるもの。分かってる。私は観客。私は一歩引いたところで戦いを見ていることしかできないのだ。この瞬間だけ、私と彼らとの間にガラスの隔たりがあるように感じた。


「そうだ」

佐久間くんが大きな声を出したところで、ガラスが割れた。私は彼らの空間に再び溶け込んだ。


「俺ばっかり食っちゃって申し訳ない。お2人さん、よければ一口いかがですか」

そう言って彼は使ったスプーンを私達に差し出してきたのだ。


「「結構です!」」


私達は口を揃えて断った。あまりに息がぴったりで、顔を見合わせて笑う。


「さすが親友だねぇ」

佐久間くんの笑い声も混じった。


そう、私達は親友。絆という名の呪いで、固く結ばれている。


【続】



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