第一夜 ドカ盛りラーメン -其の参-

私は長い夜を予感した。冠雪はもう形を保っておらず、積みあがっていた標高は麓の辺りまで崩れていた。同時に私の胃の中で野菜炒めが驚くほど幅を利かせていたのである。


満腹と言うにはまだ空間はある。しかしそこに押し込めるべき対象が眼前に硬く重く

私に対面し、威圧している。


手に握られた二本の頼りない箸を見た。山を崩すためにはあまりに細い。確かにここまで十分な成果を上げた。この大きな肉塊に対しても役目を果たすことができるのだろうか。


岩塊を動かすのであれば、その岩の10分の1にも満たない直系の二本の木製の柱で持ち上げようとする者を見つけたら、私は馬鹿者だと笑うだろう。


しかし、私はまさに馬鹿者になろうとしているのである。面白おかしくそう考えるのでは断じてない。


ガスは海を越え運ばれてきた。数千年の時を地下で眠り人類の英知によって日を浴びた。街が一つそのまま動くようなガスタンク船に液化して載せられ海を渡る。この国に到着するとまたアスファルトの下に巡るガス管から噴出し、いよいよ鍋に火が入る。そんな雄大さを持ち上げるのである。


店主は朝早くに起き出してスープを煮込みながら同時にこの豚も仕込んだのだろう。家族を家に残して、またはこのラーメン暮らしのために大切な人に別れを告げたのやもしれない。店主の魂を砕いた一部を持ち上げるのである。


魂といえば豚もそうだ。豊かな牧場で暮らした子豚時代。年長者がいなくなることに気付いた青年期。それが、どういうことなのか。まさかと自分の番が回ってくるまで考えたことだろう。月明かりの暗い夜、豚舎の隅に見た暗闇よ。豚の魂も持ち上げるのである。


私はいつも、こうした肉塊に対した時、怖いのだ。


しかし、翻ってみよう。この手に握られた割り箸を切り出した木の育った雄大さ、ラーメンの価値を稼ぐため私が幼少期より積み重ねてきたこの世で生きるためのちっぽけな無数の努力。そして家族から受けた無限の愛。決して及ぶことはなくとも比肩し得ると信じることができるのだ。


私はそうして、自身や自身を取り囲む価値を再確認する。


馬鹿者はそうして勇者になる。


震える手を実際的な勇気で満たしてついに肉塊の下に箸を差し込むのである。自身を信じた。だがいざ持ち上げる時には、静止して心臓の鼓動を数える。脈討つリズムが十分に早まったころ、私は意を決する。


肉塊を、箸を、手を、腕を、魂を持ちげようとついに動いた。


箸や、私の指やこころも折れることなかった。肉塊は見事に箸に挟まれ宙にあった。先ほどまであれほどの重量を放っていた肉塊が重力圏を脱してしまうともはや止める術もなく口へと運ばれた。決して避けようのない隕石が私の口へと向かっている。私は一口に収まりきらない塊を、出来うる限り全部食ってしまおうと齧り付く。


肉塊は、沁みた香野菜や調味料を、よく育った油を、繊維質の肉のうまみを、溢れさせた。私は時を、命を、魂を食している。


「ワタシハブタダ」


私は静かに呟き、少し泣いた。



ほんの少しだった。なぜならその涙の滴り落ちる先に、麺を見たからである。やはり今日は長い夜になりそうだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る