第18話

 走りながら誠はランニングをしておいて本当に良かったと思った。晴香に走らされていたおかげでいざという時に使える体力が誠にはしっかりとついていたようだ。

 家から駅までは約二十分、ひたすら走る。

「こんな近い距離を車で移動なんて国で仕事している奴らは違うな。ニートには走りがお似合いってか」

 誠はブツブツと文句を言いながらも走ることはやめない。やめてしまったら晴香を失ってしまうから。人間は得るより失う方が怖いのだ。知らなければ良かったのに誠は晴香を知ってしまった。そして、どうでも良い人間ではなくなってしまった。

「俺なんかが最後のデート相手なんて可哀想過ぎるだろうが!」

 そうオレンジ色の空に叫んで誠は最後の力を振り絞った。


 懸命に走り誠は駅に着いた。たった十五分程度で大袈裟と思われるかもしれないが誠が誰かのために走ったのはこれが人生で初めてのことだ。

 誠が辺りを見回すと帰宅ラッシュ真っ只中でスーツ姿の人ばかりだ。駅に吸い込まれたり駅から出てきたりしている。その繰り返しを見ていると一人だけこちらを向いて止まっている者がいた。

「誠さん!」

 人混みの中、晴香が誠の名前を呼ぶ。周りに万波絵梨花の姿はない。

 肩で息をしながら誠は宝物を見つけたかのように晴香に駆け寄る。

「見つけた」

 誠が言うと晴香が涙ぐむ。

「来てくれたのですね」

 息を整えながら誠は言う。

「まあ、家から近かったからな」

「その割には息が上がっていませんか?」

「どっかのお嬢さんがいきなり攫われたからな。走ってきたよ」

 晴香は誠に抱きつく。いきなりのことで驚き、赤面する誠。

「おい、何してんだ。こんな人がゴミみたいにいる場所で」

「良いじゃないですか。……最後にこうして自分の気持ちに正直になって行動しても」

「勝手に最後にしてんじゃねえよ」

 文句を言う誠に晴香は微笑む。

「松本誠。随分と体力はついたようだな、清宮晴香の力か」

 絵梨花が黒塗りの車から降りてくる。

「そう思うなら清宮さんを連れて行くのをやめてもらいませんかね」

「それは無理な相談だな。松本誠、お前が働かない限り清宮晴香の死は免れない」

 スーツを着たサラーリマンたちが誠たちをジロジロと不審な様子で見てくる。

 喧騒の中でも立ち止まり続けている誠たちは目立っている。

 誠は深呼吸してから口を開く。

「……俺が働けば清宮さんは自由になるのか?」

「え?」

 晴香がギョッとして誠を見る。

「自由にはならない。ただ、死ぬことはないだろうな」

「なんだよ、確定じゃないのかよ」

「もし、確定ならお前はどうするんだ?」

 そう絵梨花に問われて誠は腕を組んで考える。そして、晴香の方に顔を向けて問う。

「なあ、清宮さん。死にたくない?」

「え?」

「死にたくない?」

「……私は」

「死にたくないと言え。そうすればそこの男は働く」

「万波さん、アンタは黙ってくれ。今は清宮さんが自分のことを決めている時間だ」

 誠が言うと絵梨花のこめかみの血管が浮かぶ。そして、周りに人がいるのも気にせず叫ぶ。

「私は清宮晴香の上司だ! それをニート如きが!」

「自分のことは自分で決めないと絶対に後悔する。生きるのも死ぬのも、働くのも働かないのも。それは社会人もニートも一緒だ」

「わかったようなことを言って、お前なんかにはわからないはずだ! 私たちの苦しみが、家の中で怠けているお前なんかには!」

「わからないよ。大学を中退して、根性がないから働いても続かない。友達がいないし、周りに助けを呼ぶ力さえ持っていない。そんな俺だからアンタらのことはよくわからない。だけど、俺は清宮さんと関わって少しは変われた気がした。気のせいかもしれないけど、俺なんかにそう思わす力が清宮さんにはあるんだ。アンタは清宮さんを死なせて良いのかよ。アンタにとっても同僚で貴重な労働力だろうが」

 誠が捲し立てると絵梨花は舌打ちをする。

「ニートが調子に乗るなよ」

「決めたか、清宮さん」

 絵梨花を無視して誠が聞くと晴香はコクリと頷く。そして、絵梨花に想いを伝える。

「万波さん、私は生きたいです。そして、ここにいる誠さんをサポートし続けたいです」

 晴香の言葉を聞いて、誠は目尻を下げる。

「じゃあ決まりだ。俺は今からコンビニのバイトに応募する」

 誠はジャージのポケットからスマホを取り出し、検索してコンビニ店に電話をかける。

「あ、もしもし。お忙しいところ失礼します。松本誠と申しますがバイトの応募を見て電話を掛けさせて頂きました。あ、わかりました。履歴書を持って面接ですね。承知しました。はい、失礼します」

 赤い通話終了のボタンを押し、誠は絵梨花に確認する。

「一応、バイトの面接をすることになった。受かるかどうかはわからないが、これで清宮さんを助けることはできるのか?」

 絵梨花はしぶしぶ頷く。

「……とりあえずは良いだろう」

「それなら清宮さんを返して貰おうか」

「我々が派遣していた者を返せと、ニートというのは傲慢で困るな。まあ、良い。どちらにしても今は清宮晴香を解放する。あとはお前次第だ」

 あれだけ働くことを嫌がっていた誠が動いた理由。それは晴香を助けたいという想いと助けなければならないという義務感の両方だ。

 両親がうるさく言うよりも真面目で可愛い女の子が危険に晒された時に誠は動けたのだ。そこまでしないと誠という人間が動かないという証明にもなってしまうが。

 絵梨花は止めておいた車の後部座席に乗る。窓から誠を睨んでから運転手に出せと顎で指示を出す。

「……なんとかなったみたいだな」

 安堵した様子で誠が言った。その呟きに晴香も頷く。

 晴香の顔はどうして嫌な労働までして助けてくれたのかと言っているようだった。

「俺にしかできないと思ったからだよ。こんなこと思ったのは人生で初めてだ」

 子供の頃はヒーローになって悪い怪人を倒して皆を救えると思うものだ。でも現実にはそんなわかりやすい悪い存在はいないし、現実の悪人だってわかりやすそうに見えても意外と深刻な悩みを抱えている。だから、そんな面倒なことは他の自分よりもっと優秀な誰かがやってくれると誠は考えていた。だけど、今の晴香を救えるのは誠だったし、救わないといけないのも誠だった。

「私、正直諦めていました。でも、誠さんのおかげでまだ生きられそうです。この仕事もまだ続けられそうです。本当にありがとうございました」

 ペコリと丁寧にお辞儀をする晴香に誠は苦笑する。

「元々は俺が働いていなかったのが悪いんだから礼なんて、……少しは欲しいかな」

 晴香はクスクスと笑う。

「誠さんは対価を要求しないで他人に与えられるギバーにはなれませんね」

 晴香の言葉に誠は苦笑する。

「仕事っていうのは対価のために働くんだろ? それなら、みんな報酬目当てのテイカーじゃねえか。カッコつけて自分のことをギバーだと思い込んでいる奴がいるからテイカーが嫌われるんだ。人間、皆テイカーになればギバーなんていなくなるし、そういう概念もなくなる。生きやすくなるから最高だと俺は思うけどな」

「私は誠さんに与えて貰いましたよ」

「なにを?」

 晴香は背伸びをして誠の頬に口づけをする。

 柔らかい感触を誠は頬に感じる。

 口を誠の頬から離し、顔を赤くして晴香は言う。

「……お礼です。お金の方が良かったですか?」

 狼狽える誠は慌てて言う。

「あ、当たり前だろ。き、キスされても困る。金にならないし」

「……じゃあ、二度としません」

 拗ねたように晴香は言った。それに負けじと誠も返す。

「上等だ。男が可愛い女子からキスされたら誰でも落ちるなんて思わないことだな」

「ま、誠さんも勘違いしないでくださいね。ただのお礼ですから」

 お互いに顔を赤くして駅の目の前でそんなやりとりをする。

 何人かは遠くからそんな彼らをバカップルかよと言ったように見ている。

「家に帰るよ、清宮さん」

「今日だけ、どこにも行かないように手を繋いでくれますか?」

「仕方ないな。女子高生と言ってもまだまだお子様だな」

 紺色の空の下、二人は手を繋ぐ。

「緊張していますか?」

 晴香に上目遣いで聞かれて慌てて誠は首を横に振るが手は汗で湿っている。

「ぜ、全然!」

「そうですか。……離さないでくださいね、誠さん」

 そう言われて晴香の手より一回り大きい手で誠は先ほどよりも強く握る。

「少し痛いです」

「我儘な女だな」

「女子高生なので許してください」

 誠は息を吐いてから言う。

「仕方ないな」と。


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