3章 ニートは守りたい。

第16話

 八月最後の日、夕暮れに松本家のインタホーンが鳴った。

「きっよみやーさん、出てー」

 二階の自室にいる誠は晴香に大きな声でそう呼びかけた。

「気持ち悪い呼び方しないでください!」

 階下からそんな苦情が入る。それを聞いて満足そうに誠は笑う。

 ガラガラと引き戸が開けられる音が聞こえてきたので誠は安心して読書を続けた。



 松本家の訪問客にあまり良い人はいないと自らがそうだった晴香は思った。

 それでも出ないわけにもいかないので晴香は恐る恐る鍵を開けてから引き戸を開けた。

 目の前には夏なのにかっちりとした黒のスーツを着た女性。女性にしては背が高く体格が良い。動きやすいように黒髪はポニーテールにまとめている。スーツ越しでも茜より筋肉がありそうに見えた。

「清宮晴香だな?」

 スーツの彼女は晴香を知った様子でそう尋ねてきた。

「はい。そうですけど」

「それなら話は早い。私についてきて貰おうか」

「え、今からですか?」

「そうだ」

 拒むことができないほどに彼女からは普通の人とは違う威圧感が出ていると晴香は思った。

 だから、晴香は聞く。

「貴方はジャパンキーの方ですか?」

「その質問に答えなくても良いのだがまあ良い。そうだ、私は万波まんなみ絵梨花えりか。ジャパンキーの幹部をやっている。さあ、質問に答えてやったのだから来て貰おうか」

「……そう、ですか」

「現場の意見を聞かずに連れて行くかい?」

 居間から出てきたのは茜だ。不機嫌そうに絵梨花を睨んで言った。

「現場に発言権があると思っているのは君たちだけだ。いくら現場で結果を残しても私たちに意見することは許されていない。そんなことも忘れたか、上川畑茜」

「私のことまで知っているとは流石は幹部様だね」

「それが私の仕事だからな」

 バチバチにやり合っている中、階段を降りてくる者が一人。

「また面倒そうな女を連れてきたのか清宮さん。勘弁してくれよ」

「誠さん、部屋にいたのでは?」

「別に感染症に罹って隔離されている訳じゃないからね。階段を降りるくらいはできるさ」

「それなら玄関にも出てくださいよ」

「対人恐怖症なんだよ。働けないくらいに」

 すると、絵梨花の視線が誠に向く。

「お前が松本誠だな。清宮から報告は受けている。ほとんど就職活動を行なっていないそうだな」

「清宮さん、なんで正直に伝えてんだよ。報告書なんて毎日頑張って生きていますって書いておけば良いのに。ほんと、そういうところだよ」

初対面の誠に対して絵梨花は言う。

「報告書通りの怪物だな、これは」

 野球選手とかが言われる怪物の意味合いとは違うことを誠は察する。

「おい、失礼だろ」

「対人恐怖症なんじゃないのか? それにしては初対面の私と話せているではないか」

 悪魔のように絵梨花は笑いながら言った。

「アンタが人じゃなければ成り立つ理論だよ」

「まずは礼儀を体に叩き込まないといけなそうだな」

 手の関節をポキポキと鳴らす絵梨花。それを見て、茜タイプだなと誠は思った。

「どうやらアンタもまともな女ではなさそうだな」

「それはお前だろ、松本誠。働かないで生きていこうだなんて虫が良すぎる。親はいつか死ぬ。それをわかっていて行動しないのだからな」

「心配事を残しておいた方が両親に長生きしてもらえるかもしれないだろ。俺は意外と親孝行なんだよ」

 言っていることは底辺なのに絵梨花に負けていない誠を見て晴香と茜は苦笑する。

「私は別に松本誠、お前に危害を加えようとしているんじゃないんだ。そこにいる、清宮晴香さえこちらに渡してもらえれば済む話なんだ。お前にとって悪い話じゃないことくらいわかるよな?」

「と言うことは清宮さんには危害を加えると受け取って良いんだな」

「お前には関係ない話だろ?」

「まあ、そうだな」

「それでは……」

 絵梨花が晴香の腕を取ろうとした瞬間、誠がそれを止める。

「でも、清宮さんが嫌がることをしたら俺は許さない。ニートだろうがアンタを許さない奴がいるということは覚えておけよ」

「清宮晴香はお前にとって、ただの担当者だろ。すぐに忘れる存在なのに滑稽な奴だ、お前は」

 誠の横を晴香がすり抜ける。

 制服姿の晴香は黙って靴を履いて外に出る。

「おい、清宮さん!」

 納得したというよりは諦めた様子で晴香は頷いて歩き出す。

「……良いんです。大体、わかりました」

「何がだよ」

「どうやら、時間が来てしまったようです」

「何のことだよ?」

「さよならです、誠さん。今までありがとうございました。あと、上手くサポートできなくてごめんなさい」

「待てって! 説明してくれよ!」

 誠が晴香の背中に叫ぶと彼女は振り向いて寂しそうに笑って言う。

「嬉しいものですね、誰かに守ろうとしてもらえることというのは。誠さんに初めての経験を沢山させて頂きました。だから、私はとても幸せでした」

「なに勝手に終わらせようとしてるんだよ!」

 拳を固く握る誠に茜が声を掛ける。

「おい、クズ。お前は清宮に出ていって欲しいと常に思っていたはずだろ。それならそこの女にさっさと清宮を回収してもらった方が良いだろ」

「……それは、そうだけど」

 なんで自分がこんなに苛立っているのか誠自身もよくわかっていない。

 言えることはこんな急に晴香を奪われたくないということだけ。都合がいいこの餓鬼みたいな感情をぶつけることしか彼にはできなかった。

「清宮さんは俺が早起きできるようにしてくれたんだ! 朝食を作ってくれたんだ! モテない俺をデートに誘ってくれたんだ!」

「……誠さん」

「だからどうしたと言うんだ。現にお前は働いていない。それが結果だ。清宮晴香の恩をお前は仇で返した。これが事実だ」

 話はこれで終わりと言わんばかりに強引に晴香の手を引っ張る絵梨花を止めようとする誠を茜は通せんぼする。

「退いてくれよ、茜」

 睨みを効かせる誠だったが茜には通じない。

「スーツの女が言ったことは概ね正しい。お前が積み重ねた日々がこれだ。……これで、お前が変わるなら今の清宮はお前にとって必要な犠牲だ」

 茜は茜の仕事をしようとする。

「何、言ってんだよ!」

「……正義面をするなら普段から正義を貫かないといけないんだ。そんなこともわからないのか、愚か者」

 茜の言葉は誠への言葉というよりはここにはいない誰かに伝えた言葉のように聞こえた。

 誠の体から熱が失われていく。力も段々と抜けてその場に膝から崩れ落ちる。

「……漫画みたいにはいかない、ということか」

 わかっていたことだがヒーローなんかにはなれない。社会人にすらなれていないのだから当然かと誠の口から乾いた笑いがこぼれた。

「あとは上川畑茜、松本誠のことはお前に任せる。一日も早くニートを卒業させろ、良いな。それがお前の仕事だ」

「ああ、わかっている」

 厳しい口調で言われた茜は目を閉じて首肯する。

 それを確認して万波絵梨花は勢いよく戸を閉めた。

 床に両手をつく誠の耳には車のエンジン音と発進音が届いて離れて消えていった。

 憔悴した誠を見下ろし茜は声をかける。いつもの怒声ではなく優しい声音で。

「私たちの話をしよう」


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