第4話

 誠にしては珍しく真面目にランニングを行い家に帰ってきた。誠の脚は既に筋肉痛だ。

 スタンスミスの靴を脱いですぐ玄関の廊下に横たわる。

「お疲れ様でした」

 運動部のマネージャーのようにタオルとスポーツドリンクを手に持ち晴香が労いの言葉をかけてくる。

「マジで疲れた。もう動けない」

「ちゃんと走って偉いです。……正直、こんなに頑張ってもらえるとは思いませんでした」

「君が走れって言ったのに酷いな。俺って信用されてねえな」

「それは誠さんの日頃の行いが悪いからですよ」

 今更何を言っているんだこいつと言わんばかりの顔で晴香にバッサリと言われ誠は溜息を吐く。

「……だから、これから積み上げていけば良いのです。協力しますから」

 晴香はしゃがみ微笑んでペットボトルを誠の頬に当てて言う。

「つめた」

「しっかりと飲んでくださいね。熱中症になったら大変ですから」

 スポーツドリンクを受け取りごくごく飲んでから誠は立ち上がり口を開く。

「汗かいたからシャワー浴びる」

「さっぱりしてきてください」

「ん」

 そう言って誠はお風呂場に向かった。


 シャワーを浴び終え髪をバスタオルで拭きながら誠はパンツ姿でキッチンへ行く。

「飲み物、飲み物」

 冷蔵庫の前で屈んで二リットルのペットボトルの麦茶を取り出しグラスに注ぎクイっと飲む。

「はー」

 仕事終わりのビールかのように飲み干しグラスをテーブルに置く。

「な、なんでそんな格好しているのですか!」

 晴香は両手で顔を隠し叫ぶが指と指の隙間から覗いている。

「風呂上がりはいつもこの格好なんだよ。開放的で夏は特に風を気持ちよく感じられるからおすすめだ」

「女の子にそんな格好をおすすめしないでください!」

 晴香は顔を真っ赤にして言った。

「女の子だって家だとこんな格好でウロウロするだろ?」

「しません! するわけないじゃないですか!」

「だったら見なければ良いじゃないか」

「見えてしまったのだから仕方がないじゃないですか!」

「例え見えたとしてもすぐ逃げればいい。それなのにここに残り続けているのは俺のパンツ姿が見たいからだ。違うか?」

「違います」

 晴香は冷たい視線と冷たい口調で大きな目を細めて睨むように言う。

「あ、はい。すみません」

「まったく、セクハラですよ」

 刑事罰に問われることは絶対に避けたい誠はすぐに土下座のポーズに入る。

「申し訳ございませんでした!」

 勢いよく頭を床へと叩きつけるように下げた。

 誠の脳内では猥褻罪でニュースになる自分の姿があった。

「許しますから頭をあげてください。これから気をつけてくれれば問題にはしませんから」

「ありがとうございます!」

 やはり土下座は万人に効くなと思う誠であった。

「ついでに俺に働かせようとするのもやめてくれない?」

「やめません」

「ですよね」

 誠に呆れながら晴香は口を開く。

「ランニングを真面目にやってくれた誠さんにご褒美です。これからカフェに行きましょう」

「カフェ? また出掛けるのかよ。いいよ、もう今日は家でゆっくりしていたいから。また今度行こう」

 外出を嫌がる誠に晴香は溜息を吐く。

「私の奢りですよ」

「よし、行くか。誰かさんのせいで睡眠時間が短くて眠いからカフェインで眠気覚ましも兼ねて」

「現金な人ですね」

 晴香はクスッと笑って、そう言った。


 午前十一時、誠と晴香は誠の家から一番近い緑色のエプロンをした店員さんのいるカフェ、ストバに来た。店内は平日の午前中ということもあり空いていた。ニコニコ笑顔で愛想の良い店員さんに早速注文をする。こんな営業スマイルは絶対できないと誠は思った。

「私は抹茶フラペチーノで誠さんは?」

「アイスのカフェラテで」

 誠は恥ずかしさからか小声で伝える。女子高生に奢られる男ほどカッコ悪いものはないと流石の誠も思った。

 晴香がスマホで決済をしてバーカウンターでドリンクを受け取り窓際の二人席に対面で座る。

「奢られた後でなんだが本当に良かったのか?」

「大丈夫ですよ。請求すればちゃんと国からお金は貰えますので。誠さんにはもっと違うことを心配して欲しいです」

 可笑しいのか晴香はクスクスと笑っている。彼女がこんな笑い方をするのは珍しい。誠はよくわからないと首を傾げる。

「何が可笑しいんだ?」

「誠さんでも罪悪感みたいなものは感じるんですね。それが意外でつい」

「残念ながら俺も人間だからな」

 どうせなら真っ当な人間にして欲しかったと神様を恨みながら奢ってもらったカフェラテに口をつける誠。小粒の氷が舌先をひんやりと冷やす。そしてコーヒーの苦味とミルクの微かな甘みを感じる。

「美味しいですか?」

 ホイップをペロッと舐めてから晴香が聞く。

「店のカフェラテが不味かったら問題だろ」

「美味しいなら素直に言った方が良いですよ。だから友達がいないんですよ」

「うるせえ、放っておけ」

「そうしたいのは山々ですが仕事なのでそれはできません」

 こんなのんびりとした誠との時間も晴香にとっては仕事の範疇でしかない。

 誠がニートではなかったら、晴香がニートを更生させる仕事をしていなかったら。二人は出会わなかったのだ。不思議な縁が二人を繋いだのだ。

「やっぱり働くって最悪だな。一緒にいたくない奴とも無理して合わせないといけないなんて」

「そんなことないですよ。働いて自分の価値を他人に認められるって気持ちが良いです。他人と協力して目標を達成した時なんてそれ以上ですよ」

「他人に認められないと自分を肯定できないなんて辛いと俺は思うけどな。それに他人に合わせるなんてやはり俺にとっては地獄以外の何物でもないな」

「やはり、私と誠さんは合いませんね」

 そう言ってから晴香は窓の外を眺めて抹茶フラペチーノを飲む。

 誠にとってほとんどの人間は合わなかった。だから彼は必然的に一人で生きてきた。ヒーローなんて現れない。今まで誰も誠に手を差し伸べてこなかった。これからもそんな存在は現れないと誠は思っているし、きっとそうなのだろう。他人に期待したら絶望する。これが残酷だがぼっちの正しい事実なのだ。

「君だって俺に無理して合わせても辛いだけだろ」

「そうかもしれませんね。でも、社会に出るなら誰かに合わせることも必要になってきます。だから誠さんには最低限、他者に合わせることを覚えて貰わないと困ります」

「なるほどね。君にとって俺は異常者に見えているわけか」

「そんなことは言っていません。ただ……」

 言葉の続きを晴香は発せなかった。

 どの言葉を選んでも今の誠を傷つけてしまいそうだったから。

 そんな晴香を見た誠は腕を組んで言う。

「働いている奴がそんなに偉いかよ」

 誠の常識と晴香の常識は違う。それをわかっている晴香は誠のことを尊重したかったが今回は流石にそうはできない。

「それは、……偉いですよ。ちゃんと自立して税金だって納めて社会の為に身を粉にして頑張っているのだから偉いに決まっています!」

 言いたいことを言えたのは良いが晴香は少し気まずくなってしまい恐る恐る誠の顔を見る。

 誠は溜息を吐いてから口を開く。

「だよな。俺もそう思う」

「え?」

「俺が異常者なんて自分自身が一番わかりきっていることだ。……だから困っている」

 頭で理解していても体が動かない。嘘かもしれないがそんなことが本当にあるのだから怖い。金を稼げば贅沢ができるし社会から認められる。親孝行だってできる。それでも誠がニートなのは弱いから。自分が弱いことを誠は十分知っている。そのことを知っているから行動できない。ネガティブな思考の繰り返し。先延ばしをして未来の最弱な自分にツケを払わせようとしている。それが愚かなことだと知っておきながら、罪悪感なんて押し殺して。

「君は凄いよ。女子高生で自立して働いてこんな腰抜けのニートを面倒見ている。いくら仕事だって言っても俺には絶対できない。本当、凄いよ」

 誠が包み隠さず他人に本心を伝えるなんて初めてのことだった。なぜか彼女相手ならそれができてしまった。それくらいには彼女と誠は関わってしまったのだ。

「誠さん……」

 誠の言葉を聞いて晴香は目を潤ませる。晴香は感動しているのだ。誠が自分のことを褒めてくれて認めてくれたことに。これなら、誠に働いてもらうことが……。そう思った矢先に。

「だから、俺は無理をしない。できないとわかっていることにリソースを割くのは馬鹿馬鹿しい。だから俺はニートを貫く。誰かのために、社会のために頑張るのはできる奴がやれば良いことだ」

 誠は決して懺悔をしていたのではない。ただ、ニートという自分の地位を守るために布石を打っていたに過ぎない。晴香の反応を見るにそれは成功していたようだ。

 状況を察した晴香は「マジかこいつ」というようにドン引きして固まっている。

「あ、君が凄いと思っているのは本心だから安心して。マジリスペクトっす」

 これが、この外道が松本誠という男なのだ。危険薬物並みに危ないので一般人は取り扱い注意である。

「そこまでこの仕事を長くやってはいませんが、ここまでのニートに出会ったのは初めてかもしれません」

誠は無事クズのお墨付きを貰えた。

「それほどでも」

「全然褒めていません。ここまでヤバい人だとは正直思っていませんでした」

 人は本気で呆れると溜息すら出ないらしい。

 誠のクズさに落ち込んでいる晴香を問題点の誠が励ます。

「別に君の手腕が悪いのではない。こんな男に働かせようとする国が悪いんだ。だから諦めて新しいニートのところに君は行くべきだ。俺以外のニートが君を待っている!」

「そこまでして働きたくないですか?」

「働きたくない!」

 誠は即答する。カフェ内で問われてすぐ大声で答えられるほどだ。

「わかりました」

「諦めてくれるのか?」

「違います。対策を考えます」

「諦めが悪いな。駄目な奴はいくら頑張っても駄目なんだよ」

 こんなことを自分で言えるのは誠くらいではないかと思ってしまう。

「誠さんは駄目なんかではありません! って、なんで私が貴方の擁護をしているのですか。そんなネガティブにならずにもう少し自分にポジティブな面で自信を持ってください!」

 ノリツッコミをしながら言う晴香を見て誠は苦笑する。

「自信ねえ……」

 大学を中退してそんなものは学生証と共にどこかのゴミ捨て場に捨ててきた。学生という身分を失ってから縋れるものが見つからないのだからどうしようもない。

「もっと上手くスマートにやれる気がしていたんだけどな。どうしてこうなったかな。……自信なんてどうつければ良いんだろうな。学校ではそんなの教えてくれなかったなぁ」

「え?」

 晴香に聞いたのではなく自分に問いかけてすぐに答えが自分の中にはないことを知る。そんな虚無感を誠は大学を中退してからずっと感じ続けている。

「童貞をやめられたらつけられたりして」

 誠は冗談ぽく言ってから晴香を見るがすぐに自分の体を抱いて彼女は言う。

「そういうサービスはしていません!」

 その言葉を聞いてふっと誠は笑う。

「冗談だよ。君はちゃんと幸せにならないと。こんなに仕事を頑張っているんだからさ」

 頑張っている人が報われないのは自分が報われないのと同じくらい誠が嫌っていることだ。

「つまらない冗談はやめてください。それにオジさんがするようなセクハラも!」

「気をつけるよ」

「ちゃんとしてくださいよ。まだ若いのですから」

「君にそれを言われたら終わりだよな」

 誠は苦笑してからカフェラテを飲んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る