第10話 決意
ニィナの呼びかけによって全員が校長室に集まった。こうして一同に会するのは初日以来のことである。
ミカの根城になっている校長室はゴミが散乱していて、応接用のテーブルの上にはトランプが置かれていた。クミ相手に飲み食いしながら遊んでいたのだろう。けれどそれも数日前までのこと。
あれだけ食糧を強奪してきたミカも空腹で目を吊り上げている。他の4人が立っているのに対して彼女だけは革張りのソファの上に寝そべっていた。
入室にあたっては「平和的に」とニィナが訴えたため、ハルカは得物を持ってきていない。
また喧嘩が起きても以前ほど苛烈にはならない予感がしていた。お互いに暴れるだけの元気がないのである。
ハルカは集まった中で、エリが最も様変わりしたように感じた。初日に中庭で声をかけてきたクラス委員然としたオーラは無い。暗く目をぎらつかせて背中を丸め、何かにジッと耐えているように見えた。
クミも弱ってはいたが相変わらずの虎の威を借る狐だった。近くにミカがいるため、ニィナやハルカに刺々しい視線を送ってくる。
険悪なムードに耐えかねたハルカは呼びかけ人に目で訴える。早く始めてくれ、と。
ニィナは校長が使う分厚いデスクの前に立ち、喘ぐように息を吸ってから切り出した。
「真壁さんの遺体を解体して食糧にする。ボクらが生きながらえる方法はそれしかない」
他の四人はすぐには意味を理解できずに首を傾げた。各々がニィナの言葉を噛み締め、吟味し、衝撃が激しい遅れてやってくる。
ミカは大笑いした。
クミは震えた。
ハルカは沈黙した。
そしてエリは、ありったけの罵詈雑言をニィナに浴びせた。
「なにバカなこと言ってんの? 頭おかしいんじゃない!?」
「江崎さん、ボクは正気だよ」
「狂ってるわ!! 人間の死体を食べるだなんて!」
「近代でもそういった事例はあるんだ」
「だからって!」
2人の口論が続き、感情と理屈がぶつかって火花を散らす。このときのエリは元の姿を取り戻していた。だがその勢いも徐々に衰えていく。切迫した状況は全員が理解していたし、代案を出すことなんてできなかった。
「あのさぁ、ちょ〜っといい?」
面白い見せ物を眺めるような目をしていたミカが寝そべったまま手を挙げ、会話に割り込む。意味深な笑みを浮かべているがいつもの余裕は奥に引っ込んでいた。
「食べたいヒトだけ食べればよくない? 無理に食う必要ないっしょ」
「そういう問題じゃないわ!」
「クラス委員さぁ、アタマ硬いんじゃない〜? もう食べ物は無いんだし、そっちのメガネちゃんのアイデアしかないと思うけどぉ?」
「あなた、人間を食べてまで生き延びたいの!?」
「そりゃ食べなくて済むならそうしたいけどさぁ。あーしは、ただ死にたくないだけ」
「だからって……」
エリは言葉に詰まった。あれだけ不和の種を撒き散らしたミカに反論できない。
このまま飢えて死ぬのは嫌だと自覚している。けれど理性や倫理観がそれを許してはくれない。
口論を眺めていたハルカは腹に手を当てた。身体の肉が落ち、痩せ細って神経が剥き出しになっている。空腹がこんなにも耐え難い苦しみだなんて想像したこともない。けれど、いくら窮地だからといってニィナの案には賛成できなかった。
「羽川さん、どこへ?」
踵を返し、校長室から出ようとしたハルカをニィナが呼び止める。
肩越しに振り返ると白衣の少女は手を空中で彷徨わせていた。
「マリアの遺体を食べるつもりはない。これ以上、話を聞くつもりもない」
「へぇ〜 モップ女ちゃんは飢え死にする気なんだぁ?」
「誰がモップ女だ。腹減らしの餓鬼」
「待ってくれ、羽川さん! 真壁さんの遺体は腐敗が進んでいないんだ! うまく説明できない現象なんだけど、死後硬直もしていないし死斑も出ていない! 何日も経っているのに死んですぐの状態と変わらないんだ!」
「だから?」
「……解体すれば、食べられる」
「そう」
色濃い失望がハルカの心を覆った。『壁』によって校舎に閉じ込められたメンバーの中で新見ニィナが最もまともだと思えた。だが違ったらしい。出口を探すハルカと、生き残りを模索するニィナは方向性こそ違えど事態の打開を目指していた筈だ。それが最悪の形で袂を分かったのである。
微かな怒りを口端に浮かべたハルカが校長室を出ると、その後にエリが続いた。
廊下で並んできた彼女はポツリと「私も食べない」と告げる。けれどハルカにとってはどうでもよかった。感謝の代わりに、朧げながら見えた未来を口にする。
「飢えて死ねば、あいつらに食われる」
「え?」
「一度でも人間を食べると決断してしまった。食糧が無いから次に死ぬ確率は、あいつらよりもずっと高い。だから死んだら食われると思う」
「そ、そんな…… 嫌よ。そんなの絶対にイヤ!!」
力なくその場に崩れたエリは泣き出してしまった。ハルカは慰める素振りすらせず置き去りにし、校舎の西側にある機械室へと入る。
そこには最期に造花を手向けたときと変わらぬマリアがいた。
ニィナの言う通り、腐敗は全く進んでいない。この奇跡を『壁』が起こしているとしたら、なんと残酷なことなのだろう。腐り落ちてしまえば「遺体を食べる」という狂気の発想も出てこなかっただろうに。
「マリア」
呼びかけても返事なんてない。
この少女と話したのは、たった一日だけ。
一緒に食糧を探し、ミカの暴力から庇ってもらい、傷の手当てをしてもらった。お守りにロザリオを貸してくれた。
糖尿病を患い、インスリン注射がない絶望的な状況でも真壁マリアは人間の尊厳を保てていた。
ハルカはマリアの手紙に書かれた一文を反芻した。
「暴力に堂々と立ち向かった羽川さんのこと、私はとても尊敬しています。どうかそのままの羽川さんでいてください」
そうじゃない、とハルカは否定する。
ただ反発しただけなのだ。相手に押されたから押し返しただけ。そういう人間なんだ。
マリアのように立派に死ぬことなんて到底できそうにない。
ぼんやりと記憶を手繰ると頭の中にノイズが走る。
浮遊感、落下感、絶望感。黒い感情が渦を巻いて混沌へと落ちていく。
胸を締め付けるような澱みの中、ハルカはそっとマリアに顔を近づけた。目を瞑り、唇を重ねる。死人とのキスはひどく乾いていて、けれど甘ったるい。
ハルカはポケットからロザリオを取り出し、しばらく迷ってから自分の首にかける。
これはお守りだ。校舎から脱出したら——
「必ず返す。そう約束した」
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